しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2022年05月

今回は卓球に関係のないお話。私が訪れた京都の名所を紹介したい。

日曜は真夏のような日差しの強い日だったが、カラッと晴れて気持ちがよかった。
来月になって外国人観光客で混む前に、ちょっと観光地を散歩でもしてみようと思い立った。

街なかは人が多くて嫌だから、鴨川の東の方に行ってみたいなぁ。清水寺、高台寺のあたりは自転車を止めるのに苦労しそうだし、お、ここはまだ行ったことがないぞ。こんかいこうみょうじ?聞いたことのない寺だが、やけにでかいぞ。なになに、法然が比叡山を下りて初めて念仏を説いた道場か。浄土宗と言えば、知恩院が有名だが、この金戒光明寺(通称くろ谷)も浄土宗の本山の一つだという。京都大学病院の東の辺り、平安神宮の北東にある。

山門

周りに店やビルがなく、とても静かなところである。山門をくぐると、おどろくほど涼しい風が抜けていく。新緑の冷却力というのは、エアコンの比ではないな。とりあえずまっすぐ進んで御影堂へ。

御影堂

堂内は撮影禁止ということなので、写真は撮らなかった。獅子に乗った文殊菩薩像が有名らしい。

中山文殊

この堂内も非常に涼しい。堂内で写経体験?が無料でできたので、とりあえず筆ペンで書かせてもらう。
写経

そしてなんとなく北に歩いていき、しばらくして右折すると、墓地が見えた。
墓地1

なにやらこの寺は幕末は会津藩主の松平容保の居所だったそうで、会津藩士の墓もたくさんあった。そこを抜けると三重の塔の前に出た。
三重塔

あいにく工事中だったが、立派な建物だった。その正面に階段が伸びていて、そこを下っていくと、京都市の街がよく見えて見晴らしが良い。
眼下に市内

街の喧騒をよそに、ここ黒谷は静寂そのものである。

1時間ほど境内をうろうろして帰途についた。寺のパンフレットを見ると、他にも阿弥陀堂や庭園、著名人の墓などもあったようだが、一度の訪問で何時間もとどまるのは疲れてしまうので、短時間の参拝で満足である。行き残したところは次の参拝の楽しみとしよう。

拝観料も不要だったので、お賽銭を100円入れてきた。なかなか楽しい散歩だった。風情のある一画だが、あまり有名じゃない寺なので、観光客も少なく、いかにも観光地という場所が苦手な人にオススメである。


とある試合形式の練習でのこと。

Dさんはペン表なので、上回転のラリーが得意である。レシーブはあまり切れていないツッツキが多い。早い打点でポンとつっついてくる。その日の練習でも、「ポン」というツッツキを送られて、3球目でそれを私がバックドライブでオーバーミス。思ったほどツッツキが切れていなかったようだ。次の3球目でも同じようなツッツキがフォアに来たので、細心の注意を払ってフォアドライブでとにかく入れに行くゆるいドライブをかけたが、これもオーバーミス。

「なんなんだ、あのツッツキは!切れてないにもほどがある。」

サーブ権が相手に移って、次にまたこちらのサーブの番の時も、あのツッツキである。

「今度はもっと面を寝かせて思い切り打ってやる!」

とドライブをかけたが、これもオーバーミス。

「あ~イライラする。Dさん、いつの間にかペン粒か半粒に転向したんじゃなかろうか。」

そんなはずはなかった。そしてその後もツッツキをドライブで対処したらオーバーミスを連発してしまった。この試合に限らず、そういえば、私のツッツキ打ちは、ネットミスよりもオーバーミスのほうが圧倒的に多い。これは何か原因があるのではなかろうか。

Dさんのツッツキは、それほど切れていないというのは間違いない。そして打点が早くて、低くて、あまり深くない。ハーフロングというほどではないが、あまり台から長く出ない。そういうツッツキは台のエンド近くで上方向気味に擦り上げることになる。下回転を落とさないように、慎重に擦り上げるのだが、どうやらこれがオーバーミスの原因だったのではないかと今では思っている。

頂点でドライブ


低くて速いツッツキなので、差し込まれてつい打点が落ちてしまい、そこからドライブすると、どうしても前方向に余分に飛ばしがちである。前に飛ばさないようにループドライブをかければいいのだが、私は「落とさないように」というほうにばかり気が行ってしまって、「前に飛ばさないように」というところが疎かになっていたのだ。しかし、ナックル気味のボールをループで持ち上げるというのもおかしな話だ。上の図のようにふつうに頂点を狙って前にドライブしたらいいだけなのではないか。

そう思って頂点で前に振ると、当たり前だがふつうに入った。今まであまり打点を意識せずにその時々で、バラバラの打点でドライブをかけていたので、頂点でドライブしたり、頂点から落ちてきたところでドライブしたりして、安定しなかったのだということに気づいた。打点を常に頂点付近にしようと意識することによって安定性がかなり向上したように思う。

ただ、頂点を狙ってスイングをスタートさせてもうまくいかない場合がある。

「初中級者あるある」だが、自コートにボールがバウンドしてからバックスイングを取り始める人が多い。これでは時間的に余裕がなくなり、頂点に間に合わないのである。頂点をしっかり捉えたいなら、自コートにバウンドする前にバックスイングをスタートしなければならない。私の経験でいうと、私は練習始めのフォア打ちのときに、頂点を過ぎた打点でゆるく打つことに慣れてしまっていた。フォア打ちは頂点を打たなくても安定して入るものだから、自コートでのバウンドを合図にバックスイングを引き、頂点を過ぎたところで打球するという感覚が染み付いてしまっていたのである。今ではフォア打ちの段階から頂点を狙って速いボールを打つべきだと考えを改めた。

一方で、対下回転のドライブは頂点をやや過ぎてからと聞いたことがある。実際にプロの選手でも頂点を過ぎてからドライブしている人もいる。下の動画は松平賢二選手のカット打ちだが、頂点を過ぎてからドライブしている。私はカット打ちも頂点を打ったほうが安定するのだが、ブチ切れのカット打ちの場合は頂点じゃないほうがいいのだろうか?
カット打ち
「レジェンド松下さんのカットを…」
https://www.youtube.com/watch?v=dR-VQQzFUoc&t=169s

頂点過ぎを打ったほうがいい場合もあるのだろうが、私の場合、基本的に下回転でも上回転でも頂点で打つのが一番安定して速いショットが打てる。ネット動画などで頂点過ぎの打点を勧める意見をよく聞くが、あれは何か理由があるのだろうか。疑問である。

下の動画で横山氏が自身の下回転打ちについてコメントしている。

英田
「英田選手にバックドライブを教えてもらったら…」
https://www.youtube.com/watch?v=-9nEZ8siMRs

横山氏「全部(英田選手の)ボール重いな、下回転のボール。打球点落としすぎなんですね。僕、感覚でもそうなんですよ。落ちてきてからグッ、グッってしっかりかけようっていうちょっと昭和な卓球なんですよ。」

頂点過ぎをドライブするというのは、回転を強くかけたいときに有効なのかもしれない。


ウィンクがうまくできないというのは、脳の指令に関係があるらしい。

wink

下の記事によると、ウィンクができないのは、脳からの指令が片方のまぶたに送られた時、それがもう片方のまぶたにも伝わってしまうからなのだという。

http://www.nhk.or.jp/suiensaa-blog/koremade/285239.html

たとえば左まぶたを閉じるように脳が指令を出すと、その指令が右まぶたにも漏れ?伝わってしまい、「つられて」右まぶたも閉じてしまうのだという。

これで思い出すのが、ずいぶん前の記事「ロケット理論」である。
ロケット理論とは、野球のピッチングの理論であり、簡単に言うと、

体の各部分(1)脚、(2)腰、(3)肩、(4)腕、(5)手、を同時に動かしてはいけないのです。5段ロケットのように(1)から(5)へと順に動かしていかないといけない

ということなのだが、私はこれを(1)から(5)へと順番に力を込めていくのだと誤解していた。下半身から力を込め初め、最後にラケットを握る手に力を込めるという具合に。しかし、そうするとかなり時間がかかるのである。特に腕から手に力を込めると、打ち終わった後もしばらく硬直時間があって、次のアクションに移れない。

それを最近はフォアドライブで2点だけに力を入れるようにしたら、次のアクションに素早く移れるようになり、フォアドライブ連打に対応しやすくなった。

フォアドライブを打つ時、右足の付根にグーッと力を込めて、右腕の付け根あたりに一瞬力を入れるだけで打つと、その前後の各部位も「つられて」動くのである。各部位に順番に力を込めていくのと、2点だけを意識してフォアドライブを打つのを比べると、発動時間も硬直時間もかなり違う。しかも、右腕の付け根だけに力を込めようとすれば、上腕・前腕ともに脱力でき、スイングスピードも速くなるように感じられる。

これはフットワークでも同じかもしれない。足の各部位に順番に力を込めるのではなく、例えば足の付け根だけに(あるいは付け根と膝の2点だけに)一瞬力を込めて動くことで、素早さが向上するかもしれない(まだ検証はしていないが)

このように力を込める点を絞り、身体の「つられ」をうまく利用することで、素早く身体を操れるのではないだろうか。

以上、細かいことだが、最近気づいたことである。

GWもとうとう終わってしまった。
私はと言うと、練習もしたのだが、練習のできない時間は、アマゾンプライムでバレーボールのアニメ「ハイキュー!!」ばかり観ていて、結局3期まで見てしまった。なにげなく見始めたら、激アツなのに、それでいて爽やかで、とてもおもしろく止まらなくなってしまったのだ。世間で評判になるわけだ。

ハイキューを見て、バレー部に入ったという人の話もちょくちょく聞く。私が子供の頃は「キャプテン翼」が大人気で、サッカー部に入る人が多かった。ほかにも「ドカベン」とか、「キャプテン」とかに影響されて野球部に入ったり。質の高い作品は、競技のイメージを向上させ、未経験者を引き寄せることになるのである。ひるがえって卓球はどうだろうか。残念ながら、これらの作品に匹敵するようなものはないと言わざるをえない。マンガやアニメに影響されて未経験者が卓球部に殺到したなどという話は聞いたことがない。

卓球を題材にした作品といえば、「ピンポン」というアニメがあって、私もおおいに楽しませてもらった。ただ映像的な質は高いのだが、作品のメッセージが明快でないし、ストーリー的には感情移入しにくい作品だと思われる。「稲中卓球部」というマンガはちゃんと読んだことがないのだが、根強いファンがいることから、佳作なのだろうと思う。が、あの絵柄では万人受け(特に女性ウケ)しないだろうし、このマンガに影響されて卓球部に入ろうという人もほとんどいないのではないだろうか。
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ハイキューはおもしろいと言われるが、漠然と「おもしろい」と言われても、どんなおもしろさなのか分からないだろう。私はそれを語ってみたい。ハイキューのおもしろさは、一言で言えば共感と真理だと思う。

ハイキューの優れた点は数え切れない登場人物の背景や成長を丁寧に描いている点である。主人公やチームメイト、そのライバルたちもそれぞれ魅力的なのだが、脇役や1回しか登場しないキャラがいい味を出している。

扇南
ヤンキーの十和田くんとか、

池尻
常波高校の池尻くんとか。

山口
山口くんとか。

私の周りにもかつていたような、どこにでもいる凡人のキャラのつぶやきのほうがかえって心に残る。

「弱えこと、悟ったフリしてカッコばっか気にすんのも、いい加減みっともねえよなあ」
「この会場で誰も注目も警戒もしてない俺たちにこいつらだけが…本気だ」
「しょせん部活でしょ?」
「逃げるほうが絶対あとからしんどい」

舞台が県内予選というのもいい。高校生の誰も彼もが全国目指して部活に取り組んでいるわけではない。というより、全国を目指している生徒など、ほんの一握りにすぎないのが現実である。その現実を、脇役の側によりそって描けるところにハイキューのすごさがあると思えるのである。

私はバレーボールには、正直あまり興味がなかった。しかし、興味がない人間にさえ「ちょっとやってみたい」と思わせるハイキューの訴求力には感服させられる。自分が取り組んでいる活動には誰しも興味を持つものだが、人はふつう興味がないことにはみずから興味を持とうとしないものだ。当たり前のことだ。それが興味のない人間をも惹き付けてしまうというのはすごいことだと思う。

なぜそんなことが可能なのだろうか。他の競技と違って、バレーボールだけが誰もが惹きつけられる魅力を備えているのだろうか。そんなはずはない。どの競技でも人を惹き付ける魅力はあるはずだが、無関心な人をも惹き付けることが可能なのは、私たちにとって身近な、部活の県内予選が舞台というのが大きいと思う。今の時代、全国や世界を舞台に戦う選ばれた天才たちの物語には共感しにくいものだ。「オレの高校時代にもこんな奴がいたなぁ」と思わせるキャラクターこそがリアルなドラマを生み、誰でも共感しやすい作品となっているのではないだろうか。

そして競技を超えた普遍的な真理を描いているのは、スポーツマンガに必須の条件だが、ハイキューはその点でも見事に成功している。

「勝とうとしなきゃ、勝てない」
「目立つスーパーレシーブだけが、良いレシーブじゃないからねえ。今まで当然のように上がっていたボールが上がらなくなるとすれば…。」(チームのレシーブの要が負傷で退場した場面)
「君たちにとって負けは試練なんじゃないですか?」
「時間はあるようでない」(高校の2年半の部活期間について)

誰もがなんとなく思っていること、うすうす気づいていることを的確に表現している。このようなドラマで描かれているのはバレーボールだけに通用する真理ではなく、全競技に通用する真理である。これを観て競技に対する姿勢を改める人も多いのではないだろうか。ハイキューが評価されるのは、バレーボールにおける真理ではなく、全競技、ひいてはスポーツにとどまらず人生の真理をも表現しえているからだと思う(大げさに言えば)

ハイキューで毎回繰り返されるじゃれ合い(「ちゃんと日本語で話せや、オラ」「なんだとー!」みたいなやつ)には辟易させられる。が、そのような短所などどうでもよくなるほどハイキューの描く、共感と真理はわかりやすく、多くの人に影響を与えるのではないかと思う。こんな作品が卓球にもあったらと思わざるをえない。

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