江戸時代の国学者本居宣長は、『古事記』は何としてもヤマト語【しろの注:訓よみのこと】で読まねばならぬ、また読めるはずであると考えて、読んだ。その結果が大著『古事記伝』である。捜し物でも、絶対にこの部屋にあるはずだと思って捜さないと、見つかるものも見つからない。『古事記』も絶対に読めると思って読まなければ、読めるものも読めない。だから『古事記伝』は立派な書物であるが、その訓みは第三者的に見れば無理がある。
宣長は日本文化から中国やインドの影響を排除しようとした日本文化研究者である。漢字の音よみ――つまり中国語よみは日本本来の言葉とは異質のものであり、そのような中国語の影響を受けていない(と信じた)古事記を訓読みだけで読もうとしたわけである。古事記をコジキと音よみでよまず、フルコトフミと、なんとか訓よみでよもうとした。「記」を「ふみ」と訓でよむ例があるのかどうか知らないが、とにかく全文を訓でよもうとしたらしい。
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最近、フォア主体でプレーしたらいいのではないかと考えている。バックハンドを極力使わず、ほぼ全面をフォアハンドでカバーするいわゆるオールフォアみたいな感じである。
馬琳選手がフォア主体というわけではない
しかし、今どきこんなプレーは流行らない。たとえペンでも両ハンドで攻撃したほうが効率がいいと思われているからだ。
しかし、本当に両ハンドは効率がいいのだろうか。
今どき紙の辞書を使っている子供はほとんどいないだろう。重いし、検索スピードも遅い。電子辞書なら数十冊もの辞書が手のひらサイズのガジェットに収まっている。検索も的確で早い。
しかし、紙の辞書にも味わいがある。自分でページをめくって目的語の語を探したときは軽い達成感を感じるし、前後の関連語句にも目を通すことができる。目的の単語を見つけた後、なんとなくパラパラとページをめくって意外な語の意味に辿り着くこともある。余白に書き込むこともできる。
紙の辞書よりも電子辞書のほうが多くの面で優れているのは認めるが、紙の辞書にもいくつかのメリットがあることは確かである。その中でも物理的にページをめくるという「儀式」は案外記憶の助けになっていたりするのではないかと思ったりもする。
卓球のスタイルも同じようなことが言えるのではないだろうか。
現代のオールフォアの代名詞といえば、中国の許昕Xu Xin 選手である。バックハンドはレシーブ等で少し使うだけで、基本的に全てのボールを強力なフォアハンドでカバーし、中国四天王の一角を占めている。その許昕選手のジュニア時代のプレーを観て驚かされた。
なんともきれいな裏面バックハンドドライブを多用しているのだ。
今の許昕選手のプレーしか知らない私には新鮮な驚きだった。許昕選手はバック面が苦手だからフォア主体になったのではなく、得意な裏面バックハンドを捨てて、フォア主体に転向したということだろうか。
バック側もフォアハンドでカバーしようとすれば、フットワークに頼らざるを得ず、体力を消耗する。両ハンドでフットワークの負担を減らしたほうが効率がいいにきまっている。それなのにどうして許昕選手はフォア主体を選んだのだろう。
世界トップレベルの技術論は分からないが、オジサン中級者レベルで考えてみると、両ハンド型というのは案外効率が悪い。なぜかというと、相手がボールを打球し、こちらがフットワークでポジショニングする前に、フォアで打つかバックで打つかという選択をしなければならないからだ。
中級者はただでさえ判断が遅い。相手のボールが飛んできて、なんとか打球タイミングを合わせるのがやっとで、振り遅れることも少なくない(前記事「二つの打球点」)し、とっさに動くことも難しい。相手が打球してから、こちらが打球するまでの短い時間(0.5秒ぐらい?)にプレーヤーは、(1)どこにボールが落下するかを判断し、(2)そこからどのようなバウンドの軌跡を描くのか計算し、さらに(3)打球するのに最適の位置に移動(ポジショニング)し、(4)タイミングを取りながらバックスイングをとって(5)スイング、打球しなければならない。おっと、打球前に(6)どのコースにどんな球種で打つのかも考えなければならない。
こんなにやること盛りだくさんで、さらに(7)フォアで打つか、バックで打つかの判断までしなければならない、しかもこの判断が終わらないことには(3)のポジショニングに移れないとなると大変である。フォアで打つかバックで打つかで一瞬でも迷うと、すべてのアクションが球撞き状態でどんどん遅れていき、結果として詰まったり、振り遅れたりする。
その点、フォア主体型は迷いがない。相手のインパクトを見た瞬間にポジショニングのスタートが切れる。このフォアだけに集中してプレーするというのは判断を格段に早くする。またバック深くにツッツキが来ても、初めからフォアで回り込もうと決めていれば、意外に間に合うことが多い。回りこむ前に
「この深さで回り込めるかなぁ…」
などと眠たいことを考えてはいけない。
「なんとしても回りこまねばならぬ。いや、回り込めるはずである」
このようなフォア主体の思想がプレーに好循環をもたらすと私は信じている。
バック側のボールまでフォアで動いて打つとすると、フットワークに過大な負担がかかり、回り込みきれないのではないかという反論もあるだろう。もちろん上級者のレベルならバック側に回りきれないほど厳しいコースをつかれること、あるいはそのようにバックに寄せてから思い切りフォア側に振られることが多いが、中級者レベル(というか、私が試合で対戦するレベル)なら、サイドを切る厳しいボールはあまり来ない。それにフォア・バックの判断をスキップして、とにかくフォアで打たねばならぬ、いや、打てるはずと考えてプレーすれば、たいがいのボールは回りこめるものである。おまけにとにかく足をアイドル状態にしているものだから、普段よりも50%ぐらい足が動くようになる。普段だったらほとんど動かない私も、回り込めるはずと考えてフォア主体でプレーすると、フットワークがよくなり、プレーにリズムができてくる。ふだんなら横着して足を使わず手を伸ばして打っているボールも丁寧にポジショニングして打てるようになる。フォアで動こうと不退転の覚悟を決めれば、両ハンドでプレーするときよりも早くていいプレーができるような気がする。足が動く、プレーにリズムができる、このことの優位性はバックハンドが使えないことを補って余りある。
インターネットが発達した現代はそれ以前の時代と比べると、信じられないほど便利になった。
特に学習環境の効率化は隔世の感がある。
居ながらにして世界中のあらゆる分野の知識が手に入る(雑多で信頼性の低い情報も多いが)。たとえ草深い田舎の小学生でもノーベル賞レベルの論文に目を通すことができる。
だが、その学習環境の効率化に比例して子供の学力が伸びたと言えるだろうか。余計な情報のない以前の不便な環境のほうが学習に適していた面も多かったのではないだろうか(前記事「不便の便」)。
また、動かず、部屋でゴロゴロしながら勉強するというのはかえって難しい。わざわざ学ぶために着替えて身支度を整え、毎日自転車(あるいは電車・バス)で40分もかけて学校に通うという「儀式」があると学校に着いた時には「勉強するぞ」という気分になって集中できるということもあるのではないか。いつでも学べるとなると、結局いつまでたっても学ばないという人も多い。京都に住んでいると、「いつでも行けるから」といって京都の名所旧跡にほとんど足を運ばないという京都人も多い。
人間は便利になると、横着して手間を省くようになる。
バックハンドでも強力なドライブが打てるとなると、フォアで回り込めるボールまでバックハンドで打とうとする。そうしてフットワークがさびついて、プレーのリズムが止まってしまう。バックハンドに頼るのは、フォア主体ではどうやってもうまくいかなくなってからでいい。
「絶対にフォアで回れると思って回りこまなければ、回り込めるものも回り込めない」。
このフォア主体の思想によって私のプレーがダイナミックに変わるのではないかと期待している。
野村剛史『話し言葉の日本史』
宣長は日本文化から中国やインドの影響を排除しようとした日本文化研究者である。漢字の音よみ――つまり中国語よみは日本本来の言葉とは異質のものであり、そのような中国語の影響を受けていない(と信じた)古事記を訓読みだけで読もうとしたわけである。古事記をコジキと音よみでよまず、フルコトフミと、なんとか訓よみでよもうとした。「記」を「ふみ」と訓でよむ例があるのかどうか知らないが、とにかく全文を訓でよもうとしたらしい。
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最近、フォア主体でプレーしたらいいのではないかと考えている。バックハンドを極力使わず、ほぼ全面をフォアハンドでカバーするいわゆるオールフォアみたいな感じである。
馬琳選手がフォア主体というわけではない
しかし、今どきこんなプレーは流行らない。たとえペンでも両ハンドで攻撃したほうが効率がいいと思われているからだ。
しかし、本当に両ハンドは効率がいいのだろうか。
今どき紙の辞書を使っている子供はほとんどいないだろう。重いし、検索スピードも遅い。電子辞書なら数十冊もの辞書が手のひらサイズのガジェットに収まっている。検索も的確で早い。
しかし、紙の辞書にも味わいがある。自分でページをめくって目的語の語を探したときは軽い達成感を感じるし、前後の関連語句にも目を通すことができる。目的の単語を見つけた後、なんとなくパラパラとページをめくって意外な語の意味に辿り着くこともある。余白に書き込むこともできる。
紙の辞書よりも電子辞書のほうが多くの面で優れているのは認めるが、紙の辞書にもいくつかのメリットがあることは確かである。その中でも物理的にページをめくるという「儀式」は案外記憶の助けになっていたりするのではないかと思ったりもする。
卓球のスタイルも同じようなことが言えるのではないだろうか。
現代のオールフォアの代名詞といえば、中国の許昕Xu Xin 選手である。バックハンドはレシーブ等で少し使うだけで、基本的に全てのボールを強力なフォアハンドでカバーし、中国四天王の一角を占めている。その許昕選手のジュニア時代のプレーを観て驚かされた。
なんともきれいな裏面バックハンドドライブを多用しているのだ。
今の許昕選手のプレーしか知らない私には新鮮な驚きだった。許昕選手はバック面が苦手だからフォア主体になったのではなく、得意な裏面バックハンドを捨てて、フォア主体に転向したということだろうか。
バック側もフォアハンドでカバーしようとすれば、フットワークに頼らざるを得ず、体力を消耗する。両ハンドでフットワークの負担を減らしたほうが効率がいいにきまっている。それなのにどうして許昕選手はフォア主体を選んだのだろう。
世界トップレベルの技術論は分からないが、オジサン中級者レベルで考えてみると、両ハンド型というのは案外効率が悪い。なぜかというと、相手がボールを打球し、こちらがフットワークでポジショニングする前に、フォアで打つかバックで打つかという選択をしなければならないからだ。
中級者はただでさえ判断が遅い。相手のボールが飛んできて、なんとか打球タイミングを合わせるのがやっとで、振り遅れることも少なくない(前記事「二つの打球点」)し、とっさに動くことも難しい。相手が打球してから、こちらが打球するまでの短い時間(0.5秒ぐらい?)にプレーヤーは、(1)どこにボールが落下するかを判断し、(2)そこからどのようなバウンドの軌跡を描くのか計算し、さらに(3)打球するのに最適の位置に移動(ポジショニング)し、(4)タイミングを取りながらバックスイングをとって(5)スイング、打球しなければならない。おっと、打球前に(6)どのコースにどんな球種で打つのかも考えなければならない。
こんなにやること盛りだくさんで、さらに(7)フォアで打つか、バックで打つかの判断までしなければならない、しかもこの判断が終わらないことには(3)のポジショニングに移れないとなると大変である。フォアで打つかバックで打つかで一瞬でも迷うと、すべてのアクションが球撞き状態でどんどん遅れていき、結果として詰まったり、振り遅れたりする。
その点、フォア主体型は迷いがない。相手のインパクトを見た瞬間にポジショニングのスタートが切れる。このフォアだけに集中してプレーするというのは判断を格段に早くする。またバック深くにツッツキが来ても、初めからフォアで回り込もうと決めていれば、意外に間に合うことが多い。回りこむ前に
「この深さで回り込めるかなぁ…」
などと眠たいことを考えてはいけない。
「なんとしても回りこまねばならぬ。いや、回り込めるはずである」
このようなフォア主体の思想がプレーに好循環をもたらすと私は信じている。
バック側のボールまでフォアで動いて打つとすると、フットワークに過大な負担がかかり、回り込みきれないのではないかという反論もあるだろう。もちろん上級者のレベルならバック側に回りきれないほど厳しいコースをつかれること、あるいはそのようにバックに寄せてから思い切りフォア側に振られることが多いが、中級者レベル(というか、私が試合で対戦するレベル)なら、サイドを切る厳しいボールはあまり来ない。それにフォア・バックの判断をスキップして、とにかくフォアで打たねばならぬ、いや、打てるはずと考えてプレーすれば、たいがいのボールは回りこめるものである。おまけにとにかく足をアイドル状態にしているものだから、普段よりも50%ぐらい足が動くようになる。普段だったらほとんど動かない私も、回り込めるはずと考えてフォア主体でプレーすると、フットワークがよくなり、プレーにリズムができてくる。ふだんなら横着して足を使わず手を伸ばして打っているボールも丁寧にポジショニングして打てるようになる。フォアで動こうと不退転の覚悟を決めれば、両ハンドでプレーするときよりも早くていいプレーができるような気がする。足が動く、プレーにリズムができる、このことの優位性はバックハンドが使えないことを補って余りある。
インターネットが発達した現代はそれ以前の時代と比べると、信じられないほど便利になった。
特に学習環境の効率化は隔世の感がある。
居ながらにして世界中のあらゆる分野の知識が手に入る(雑多で信頼性の低い情報も多いが)。たとえ草深い田舎の小学生でもノーベル賞レベルの論文に目を通すことができる。
だが、その学習環境の効率化に比例して子供の学力が伸びたと言えるだろうか。余計な情報のない以前の不便な環境のほうが学習に適していた面も多かったのではないだろうか(前記事「不便の便」)。
また、動かず、部屋でゴロゴロしながら勉強するというのはかえって難しい。わざわざ学ぶために着替えて身支度を整え、毎日自転車(あるいは電車・バス)で40分もかけて学校に通うという「儀式」があると学校に着いた時には「勉強するぞ」という気分になって集中できるということもあるのではないか。いつでも学べるとなると、結局いつまでたっても学ばないという人も多い。京都に住んでいると、「いつでも行けるから」といって京都の名所旧跡にほとんど足を運ばないという京都人も多い。
人間は便利になると、横着して手間を省くようになる。
バックハンドでも強力なドライブが打てるとなると、フォアで回り込めるボールまでバックハンドで打とうとする。そうしてフットワークがさびついて、プレーのリズムが止まってしまう。バックハンドに頼るのは、フォア主体ではどうやってもうまくいかなくなってからでいい。
「絶対にフォアで回れると思って回りこまなければ、回り込めるものも回り込めない」。
このフォア主体の思想によって私のプレーがダイナミックに変わるのではないかと期待している。