知り合い同士の会話ならいざしらず、一方的な話で不特定多数の気を引くのは並大抵のことではないと思う。自分の話についてきているかどうか相手を見ながら確認し、時にはポーズを入れ、時には分かりやすく具体例を補い、時には言い方を変えて同じ内容を繰り返す。遅すぎず早すぎず話を展開させていくのはさぞ神経を使うことだろう。しかし上手に間をとる落語は聞いていて楽しい。話し手との一体感を感じることができる。
卓球の楽しさはもちろんラリーである。もし毎回のポイント?(サービスから得点までの一連の流れを何と呼べばいいのだろう?「ポイント」という語を使ったが、適当な語が見つからない)がすべてサービスエース、あるいは2~3球目攻撃で決まってしまうなら、卓球の試合は非常に味気ないものになってしまうだろう。猛禽のような目で隙を窺い、隙あらば渾身の力で相手を打ちのめすような「勝ち急ぐ」卓球は強いことは強いかもしれないが、あまり楽しくないのではないだろうか。
公式の試合ではなく、仲間同士の試合に限って言えば、勝利と、ラリーを楽しむのと、どちらをとるかと言えば、私はラリーをとりたい。楽しく相手にも打たせ、自分も思う存分打ててこそ満足感を覚える。相手の力を引き出さずに相手の弱点ばかり突いて一方的に勝ったり、オーバーかエースかの一か八かのショットばかり打って、相手に手も足も出させず、結果として勝ったとしても、それではなんだか損をしているような気がする。
もし私が相手より圧倒的に上手なら、まず相手に打たせるようなスタイルの卓球をしたい。それができるほど上手ではないので、結果的に勝ち急ぐような卓球をしてしまうのだが。
卓球にも落語のように「間」というものがあるのだろうか。サービスを打つ前にちょっと間を置くことがある。しかし、そういう間ではなく、私の考える卓球の「間」というものは相手に攻めさせる隙を与えることである。2球目をいきなり台上ドライブとかチキータとか、そんな無粋なことはせず、相手のサービスに対してはとりあえずツッツキ。それも相手がちょっと打ちにくい場所にツッツく。相手にとって最高に打ちやすい絶好球ではさすがにこちらも対応できないので、相手はかろうじてドライブを打てる程度の厳しいコースを突く。相手はドライブを打てることは打てるが、コースも限定され、威力もない。それをまたギリギリ相手がとれるようにブロックして相手になんとか打たせ、それを待ってカウンター、というような卓球が私の理想のスタイルである。このような相手との一体感を感じることのできる卓球なら、仮令負けたとしても、両者ともに清々しい気分になるのではないだろうか。
先日、上手な人と打つ機会があり、練習後アドバイスをいただいた。「3球目に力が入りすぎているので戻りが遅い。3球目はもっと力を抜いて打ち、5球目に備えたほうがいい」ということだった。理想と現実はなかなか一致しないものである。