全体を把握すれば、部分の理解は深まるものだ。
今練習していることの意味、全体の中で個々の技術がどんな意味を持つかを考えれば、その技術が目指す方向性が定まり、どう向上させればいいかが分かってくる。

そこで私は問いたい、一言で全体を表すなら卓球とは何なのかと。

「卓球とは相手が取りにくいボールを打って得点するスポーツである。」

それはそうなのだが、それは結果を指しているだけに思える。結果的には強打や取りにくい回転のカットといったボールを打って、得点するスポーツだとは思うが、私が知りたいのはそういう結果ではなくて、そこに至る過程――意識や心構えといったものなのだ。どういうことを考えながらボールを打てばいいのか。つまり「卓球の本質とは何か」なのだ。

以下の動画で新井卓将氏が卓球の上達法について語っている。はじめは雑談で、6:50あたりから本題に入る。卓将氏がシェーク、ペン、粒、カットと多彩な戦型を自在に操れるのは、「基本」がしっかりとあるからであり、その応用としてさまざまな打法が現象しているに過ぎないのだという。卓将氏の言う「基本」とは、一体どのようなものなのだろうか。



卓将氏は同じ練習を長時間続けても意味がないと主張する。
コースの決まった練習を繰り返して、型を身につけたところで、相手がその型にはまってくれなかったら全く役に立たない。役に立たないどころか、その身につけた型がジャマをして、相性の悪い相手にうまく対応できないことさえある。対戦相手はそれぞれに個性を持っており、それらの個性にある特定の型を以て完全に対応させるのは不可能である。

試合をしていると、自分が想定して練習してきたのと同じタイプのボールがなかなか来なかったり、思い通りの展開にならなかったりすることがままある。私程度のレベルだと、格下だと思っていても、ちょっと癖のあるタイプに当たると、思わぬ敗北を喫してしまったりするものだ。

「あの人はフォームもメチャクチャで、ボールも遅いし、しかも微妙に変な回転がかかっていて取りにくい…」

試合に負けた時、ついこんな負け惜しみを言ってしまうのだが、このような考え方は根本的に間違っているのである。自分が欲することを相手に求めるのではなくて、逆に相手に応じて自分を変えるという発想の転換が必要なのだ。これは非常に仏教的な考え方だと言えよう。

また卓将氏は「自分のスタイル」を持っていないと語る。スタイルというのは相手がいて初めてできるものだからである。卓将氏のスタイルは相手との関係によって変化するものであり、相手を切り離した単独の「卓将氏のスタイル」というものはありえない。つまり、卓将氏自身のスタイルというものは、強いて言うなら、「相手と自分との関係それ自体」、すなわち「空」とでも呼ぶべきものなのである。

無題

卓将氏の言う「基本」というのは、フォームやフットワークといった現象的なものではなく、「己を虚しくする」という心構えのことなのだ。卓球の本質は「こちらからどう打つか」という自分中心の視点ではなく、「相手のボールをどう受けるか」あるいは「相手の発した問いにどう答えるか」が出発点にならなければならないという。自分が練習してきた打法や戦術を無理に相手に押し付けるのではなく、相手の立場に立って、相手のやりたがっていることを見抜き、相手の攻撃を止め、相手の狙いを外すことこそが卓将氏の言う「基本」なのである。まず相手がいて、自分がいる。相手のやりたいことが決まってから自分のやることが決まるというスタンスなのである。

『老子』(岩波文庫)第2章に次のような記述がある。

有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現れ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並び合う。

何事も相対的なものであり、醜があってはじめて美が生まれ、不善があってはじめて善が存在できる。『老子』にはこのような、物事を相対化する傾向が著しい。たとえば「仁・義・礼」などといった概念は満ち足りた状態が破れてから生まれた概念なのだという(第38章)。卓球は個人競技だが、相手の存在が不可欠である。相手によってこそ自分が現れるのである。

また第1章には次のような言葉が見える。

いつでも欲がない立場に立てば道の微妙で奥深いありさまが見てとれ、いつでも欲がある立場に立てば万物が活動するさまざまな結果が見えるだけ。

相手の意思にかかわらずサービスから「3球目を強打してやろう」と狙っていると(「欲がある立場」)、卓球の「道」が見えず、単にボールが想定外のコースに来たという「さまざまな結果が見えるだけ」になってしまう。そうではなく、自らを空にし、相手がどう考えているかを虚心に見れば、「微妙で奥深いありさまが見てとれ」、相手のボールにどう応じるかも見えてくる。

卓将氏の言う「基本」というのは「己を虚しくして、相手に応じること」と考えられる。それは結果として変幻自在でさまざまな打法となって現れる。これこそ上の老子の言う玄妙な「道」に通じるものではないだろうか。