小ネタを少々。

練習のための練習・・・
練習はどんな時も試合に勝つために練習はするもので、ただ漫然と練習するのなら練習なんかしない方がいい。とはっきりと言われた。
どんな練習においても試合をイメージし、“相手がこうしてきたらこうする”と常にイメージする。イメージしなければ、それは練習のための練習であり、そんな練習は試合では役に立つことはない。と…。

馬琳選手の言葉だという。

malin

同じようなアドバイスを上級者(全中出場者)にも聞いたことがある。私はワンコースで続ける練習や切り替えなどをミスなく続けることで満足してしまうが、ある程度以上になると、それでは意味がない。試合で遭遇しそうなシチュエーションを想定して練習しなければならないのだ。

 仁義に由りて行ふ。仁義を行ふに非ざるなり。
(「離婁章句 下」『孟子通解』より)

【原文】 舜明於庶物、察於人倫、由仁義行、非行仁義也
【下線部の現代語訳】「(舜は)仁義によって行ったのであり、仁義行ったのではない。」

世の人は、仁義というものは自分の外にあって、一所懸命それを学び行うことだと勘違いしているが、そうではなく自分の内にある仁義という理念がおのずから行いとなって現れることを仁義とよぶのだという。「親孝行は仁義である」「目上の人に仕えるのが仁義である」などと感心な行いに仁義というレッテルを貼るのではなく、仁義の心をもって行動すれば、その行動は自ずから仁義と呼ばれるわけである。

上の馬琳選手の言葉にひきつけていえば、「練習する」のではない。「試合をシミュレートする」こと、それ自体が練習なのである。こういうことを馬琳選手が言っていたといっても、それほどありがたみを感じず、右から左だが、孟子が言っていたというと、とたんにありがたみが出てきて、心に記銘しようという気になる私は俗物だろうか?