しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




タグ:指導

私の練習時間は結構長いが、初級者の相手などで自分の練習があまりできない。週のうち実質的に練習できるのは2時間程度である。しかし、練習量に比例して上達するというわけではないだろう。

中学時代の部活での練習はほとんど惰性だった。小学時代は週1のスポ少での練習しかなかったのだが、メキメキと上達した。小学時代の劇的な進歩に比べると、中学時代の進歩は微々たるものだった。何が違うかといえば、課題がなかったのだ。課題がなかったというのは別の言い方をすれば目指すべきものがなかったということである。指導者もおらず、何をすれば上達するかもわからない。試したい技術もない。小学時代はドライブやレシーブといった習得すべき基本的な技術が明らかだった。それで迷わず目指すべき方向が決まっていた。中学時代はひと通り基本技術が身についていたので、次にどうすれば上達するかわからなかった。
中学時代の私の進歩を妨げていたものは、進むべき方向性が見い出せないことだったのだ。

一方、最近は少ない練習時間にもかかわらず充実している。自らがどのようなスタイルを目指すべきかはっきりしており、そのために個々のどんな技術を習得すべきかが分かっているからだ。

バックハンドからの攻撃を自分のスタイルにしたい

と思ったら、そのために何が必要かを考えてみる。

・相手から攻撃されないような短い切れたサービスと、意表をつく速いロングサービス
・相手の短いツッツキに対するフリックやチキータ、そしてその後の決め球
・相手の甘い球を引き出す横回転ツッツキやストップ、速く鋭いツッツキ

このように方向性と課題がはっきりしていれば、惰性で練習時間をつぶすということもなくなる。

しかし、方向性と課題だけではない。練習時間を有意義につかうには他にも大切な要素があると思う。

学習者中心型の授業展開

このページでは小学校の書写の授業の実践例が紹介されていた。
従来型の授業では手本を見ながら、正確にそれをマネするというやり方だった。
できたものを先生に持って行って、良くない部分に朱を入れてもらい、また書きなおすという繰り返し。

こういうやり方が間違っているとまでは思わないが、私の小学生時代の経験からいうと、このやり方では多くの子供はすぐ飽きてしまう。何度書いてもきれいに書けず、最後の方はテキトーにただ書いて、授業が終わるのを待っているだけ。

それに対して最近よく耳にするのが「学習者中心」というキーワードである。私は教育学のことはぜんぜん分からないので、誤解も多くあるかと思うが、このアイディアには共感するところが多い。

学習者中心の学習では「気づき」というアイディアが重視されている。
上の書写の授業例では、手本を見ずに、まず自分で書いてみるのがいいとある。
次に友達と見せ合って、どうして自分の字はきれいじゃないかに「気づく」。あるいは手本と比較して「気づく」。

「書」という漢字の突き出した長さはどうか、下の「日」は横長がいいのか、縦長がいいのか。ストロークのカーブが緩やかなのと、直線的なのとどちらが美しいか。

人に与えられた「発見」と自分で手に入れた発見とでは重さが違う。「発見」は次の日には忘れてしまうかもしれないが、勝義の発見はそうそう忘れるものではない。そしてその発見が正しいかどうか確かめたくなる。私の経験上、自分の発見の確かさを確かめたいという欲望は人を夢中にさせる。とんでもない集中力を生み出す。一流選手のプレーを見るのは後でいい。まず自分のプレーのどこに問題があるのかを自分で分析しなければならない。そのような自己分析はたしかに不十分だろう。指導者に指摘してもらったほうが的確な分析ができるにちがいない。しかし初めから指導者に答えを教えてもらわず、自分で考えてみる。すると、間違っているかもしれないが、いくつかの問題点が見つかる。

ボールをネットに引っ掛けることが多いのは、打球点が早すぎるからではないか?
ボールが頂点を過ぎるまで待ってみたらどうか?


そしてそれを実際に試してみると、うまくいかない。それで別の原因を考えてみる。上手い人のプレーを見てみる。

私はボールの後ろの方を叩きすぎているのではないか?上手な人はもっと軽い力で掬いあげているようにみえる。

これも間違っているかもしれない。しかしいくつか修正を試みれば、きっと正解にたどり着く。そのプロセスが私の最近の練習の充実を支えていると言える(前記事「スイングはどこまで」)。
いつも何か試してみたいことを持っていると、練習時間を非常に有意義に過ごせる。時間が経つのが早い。
指導者に指導してもらうのは万策が尽きた後でも遅くない。まず、自分で考え、試してみることだ。
ただ、初心者の場合は自分で考えようにも考える材料がない。ある程度ボールや回転の特質を理解するまではマネに終始するのが上達の近道だろう。

方向性と課題、そして模索と発見。これさえあれば練習時間を有意義に過ごせると思う。

ずいぶん古い本だが『NHK趣味悠々 中高年のための楽しい卓球レッスン』(NHK出版)を読んでみた。
全く経験のない初心者を対象にして書かれた本である。ラケットの選び方、グリップの握り方、フォアハンド・バックハンドの打ち方、フットワーク、サービス、レシーブと本の構成は一般的である。

この本の優れた点は間違った例を豊富に挙げている点である。
たとえばラケット(シェーク)のフォアハンドの振り方についてだが、手首を曲げて、ラケットの先端が下を向いてしまうのはダメと写真入りで紹介している。このダメな例を挙げてくれているのが初心者の指導に役に立つ。ビデオがあればもっといいのだろうが、あいにくビデオはない。

ただ上の例で言えば、フォアハンドを振るときに手首が曲がっているのは間違いというのはどうしてなのだろうか。トップ選手でもフォアを振るときに手首が曲がっている選手がいると思う。水谷隼選手や高木和卓選手は手首を下に曲げているように見える。

こういう卓球の「常識」には常々疑問を感じている。私が子供の時は、打つときはインパクトの瞬間までボールを見るように言われていた。しかし律儀にそんなことをしている人は少数派だろう。私が以前指導を受けていた元プロの方はボールを見ないと仰っていた。そんなことをしていたら、次の打球に間に合わないし、相手の動きを見ることもできない。

フォアを打つときは腰をよく使って、体全体で打つのがいいとされている。たしかに中・後陣で引き合いでドライブを打つときやスマッシュの時は体全体で打つのがいいと思う。しかし前陣で打つときに果たして腰をしっかり回転させて打つのは本当にいいことなのだろうか。腰を動かすとどうしても戻りが遅くなる。前陣で腰を使った強打を打って、それがブロックされたときは、なまじスピードのあるボールを打ったために返球も非常に速い。戻りが遅いと相手のブロックに対応できない。前陣ではむしろあまり腰を回さず(逆に全く腰を使わないで打つのも難しい)、肩や肘だけでドライブを打つのが効果的なのではないだろうか。現に丹羽孝希選手のプレーを見ていると、あまり腰を使っているようには見えない。

昔は片面ペンはオールフォアで打つように言われていたが、あれも本当にいいのだろうか。これから片面ペンでもバック主体のスタイルが出てきてもいいのではないだろうか。先日オーストラリアの粒高ペンの選手の試合をみたが、バックのプッシュが主体だった。



卓球の「常識」は根拠がないから役に立たないというつもりはない。そんなことを言い出したら、何も指導できなくなってしまう。「勉強していい大学を出て、創造的な仕事に就くのがいい人生です」という人生の「常識」には根拠がないといって否定してしまったら、たいていの親は子供を教え導くことができなくなってしまう。卓球の「常識」は指導の便宜として必要であることは分かっている。しかしほとんどの卓球書がみな口をそろえて「手首を下に曲げてはいけません」とか「フォアハンドは腰を使って打ちましょう」などと書く必要はないのではないだろうか。つまり、あたかも「正解」であるかのように複数の書籍で口を揃えて同じことが書かれているのに疑問を感じるわけだ。たまには「ピッチの早い卓球を目指す人はあまり腰を使わないで打ちましょう」と書いてある本がいくつかあってもいいと思うのだ。ちょっと個性を出して、「常識」に反することが書いてある本があればおもしろいと思う。

ともあれ、『楽しい卓球レッスン』は「悪い例」を写真入りで豊富に紹介している点で初心者の指導には非常に有益な参考書だと思う。

【追記】
先日『卓球王国』で「超効くコツ35」という連載を読んだ。その中でWRMの原田隆雅氏が従来の指導法とは違う指導法を提案しており、勉強になった。卓球の指導法も年々変化しており、10年前の「常識」が現代では「時代遅れ」になっているということが分かった。
ラケットのヘッドを下に下げてもいいではないか、と上に書いたが、初心者でヘッドを下げている人を見てしまった。プロの選手のように手首を曲げてヘッドを下げているのではない。ヒジと手首をまっすぐにしてヘッドを下げて打っているのだ。なるほど、『楽しい卓球レッスン』で想定していた「悪い例」はこれなんだと思った。

【追記2】
先日、フォアハンドが安定しない時、「ボールをちゃんと見た方がいい」と言われた。さすがにインパクトの瞬間まで見ろというのではないが、ある程度見たほうが安定すると言われ、実践してみたところ、本当に安定した。昔から言われていることには一理あると考えを改めた。

【追記3】
All About というサイトに明治大学卓球部の平岡義博監督の説が紹介されていた(2004年)。
http://allabout.co.jp/gm/gc/213666/2/
曰く
平岡監督2
身体の中心線を超えて逆サイドまで振り抜くのがツボ

「日本の場合、少し打てるようになると、バックスイングをとってバックステップをして全身を使って打つんだとか言われます。それも間違いではないんですけど、その打ち方ではストライクゾーンが狭く何本も連続して打つのは難しい。上半身の形さえできれば腕の力だけでも十分にパワーのあるボールは打てる、ということをまず理解してほしいんです」

やはり体全体で打つ必要は必ずしもないと感じた。

若いころは可能性に満ちている。どんな夢でも自分次第で叶えられる。
自分にはどんな未来が待っているのか。その選択肢の多さに若者は胸を膨らます。

しかし、江戸時代以前はどうだったのだろうか。江戸時代には能力によって出世する人がいたことはいたが、稀だったに違いない。農民の子は農民に、武士の子は武士に。自分の将来の選択肢が多すぎて迷ってしまうなどということはなく、単に「決まった道を大過なく歩み、無事に次の世代に受け渡す」というのがその時代の人生観だったのではないだろうか。「人生は自分で切り開いていくものだ」という大前提がそこにはない。現代でもインドやネパールにはカーストが根強く残っており、こういう人生観の人がたくさんいるに違いない。

前置きが長かったが、私たちが卓球をする理由は何かといえば、それは楽しいからという理由に尽きる。それが大前提なのである。しかしその大前提がない人々に卓球をさせるにはどうすればいいのだろうか。

先日、全く経験のない知人を卓球に誘ったのだが、彼らと卓球をするのは非常に難しかった。彼らの卓球をする動機は運動不足解消だった。彼らにとって卓球は必ずしも楽しいものではない。そういうい人たちに卓球の楽しさを教えることの難しさよ。

はじめに「往復10回のラリーを続ける」という目標を課してやらせてみたのだが、それがなかなかうまくいかない。無意識にナックル気味の球を打つ人がいて、相手がとれない。クロスで打っているのに突然ストレートに打ったり、深い球を打ったりしてラリーが続かない。「下に少しこすっている」と指摘しても自分がどういうラケットの振り方をしているか自覚がないので直せない。軽く打てばネットにかかり、それを調整すればホームラン。ボールが台に落ちるように打たせることがこんなに難しいとは。
いろいろアドバイスをしてフォームを矯正してあげようと思うのだが、彼らにしてみれば「なぜ自分はこんなことをしなきゃいけないんだ?」と思っていることだろう。

論理の飛躍があるのだ。どうして勉強をするのか訳も分からず受験勉強をさせられている高校生のように、卓球の楽しさを知らずにラリーを課せられるというのは順序が逆なのだ。まず卓球の楽しさをつきとめて、それを未経験者に伝えることが先決なのだ。

どの卓球の入門書を見ても、

「卓球は楽しい」(大前提)
→「卓球が上手になれば、もっと楽しくなる」(小前提)
→「だからこの本で学んで上手になりましょう」(結論)

という三段論法である。この大前提を獲得する方法をこそ知りたいのに。


卓球の楽しさとはいったい何なのか。

速い球を打った時の爽快感?…いや、ストップで返球し相手をつんのめらせるのも楽しい。

相手の心理を読み切ったときの満足感?…いや、コースの決まった練習をしている時も楽しい。

自分がボールを思い通りにコントロールしたときの達成感?…いや、スマッシュをギリギリ返球したときは、追いつくのに必死でコントロールしようとさえ思っていない。

なんだか認識論哲学みたいになってきた。

卓球の楽しさというのは謎である。経験者にとっても、未経験者にとっても共通するような大前提としての卓球の楽しさとはなんだろうか。これさえ究明できれば、卓球人口を飛躍的に伸ばすことも可能ではないだろうか。

思い返してみると、私が初めて卓球を始めた日、指導者の人は私たちに玉突き、壁打ちをさせた。それがミスなく数十回続いて初めて台で打たせてもらったような記憶がある。何も分からずそれに熱中していた小学生時代。もしかしたらボールをラケットで打った感覚そのものが卓球の楽しさの原点なのかもしれない。


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