しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




コーチング

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眼光紙背に徹す―『本を読む本』を読む

本を読むのが早い人がいる。普通の人が1時間程度かかって読む文章を15分ほどで読んでしまうのだ。もちろん、細部まできちんと読めているかどうかは分からないが、少なくとも要点は押さえている。そんなふうに本を早く読むにはどうすればいいだろうか。世には「速読法」として、ページを斜めに読んで、キーワードだけを読むとか、ページを写真のように画像として記憶するとか、そんな「技術」を雑誌の広告で見かけたりする。しかしそういう超人的な能力ではなく、誰でも訓練すれば身につけられる、本が早く読めるコツというものはないだろうか。そう考えてアドラー、ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫)という本にたどり着いた。冒頭はこんなふうである。

 

スキーを習うことは大人にとって極めて屈辱的な経験である。大人は歩けるようになってからずいぶん経つ。足が今どこを踏んでいるか分かっているし、片足ずつ交互に前に出さなければならないこともよく分かっている。しかしいったんスキーを履いてしまうと、ヨロヨロと歩くあの幼児の頃の練習を再び繰り返さなければならない。

 

私たち中級者はフォアハンドドライブも打てるし、バックハンドも振れる。しかしほとんどの場合、我流で多くのムダを含んだ不安定なスウィングである。理論に裏付けられた、ムダのない、効率的なスイングではない。基本的なスウィングを一から学ぼうと思ったら、上のスキーの例のようなことになる。今さら「正しいフォア打ち」もないものだが、それを知らなければ、どうしても上級者にはなれないだろう。

 

スキーのコツはターンするための動作の一つ一つをバラバラに切り離して考えてはいけないということだ。言い換えれば、コースの凹凸や他のスキーヤーに気を配り、重心を移動する、視線を変える、スキーの向きを変えるといった一連の動作をひとまとまりのものとして行うことである。しかしそれらが別々の動作であることを忘れるためには、まずそれらの動作を別々に習わなくてはならないのだ。一つ一つの動作を完璧に身につけた上で、それぞれの動作を連結してはじめて上手なスキーヤーになれるのである。

 

以前、個々の技術を習得するだけでは上達は見込めないと書いた(前記事「要素構成主義を越えて」「ツブ高界初?の近代的辞書」)。それは今でもそう思うが、しかし全体を構成する部分―スキーで言えばターンの「凹凸に気を配る」「重心を移動する」「視線やスキーの向きを変える」といったその動作を構成する、それぞれの部分を意識することは大切だと思う。「なんだかよく分からないけれど、私のスウィングは速くて威力のあるボールが打てる」ではなくて、それがどのような要素から成る一連の動作なのかを意識できなければ、一旦感覚が狂ってしまった場合に修正できない。どこがおかしくなったのか点検することができないのだから。

 

熟練した技術を持つ人というのはそれぞれの技術の規則に従って仕事をする習慣を身につけている人たちのことである。

 

卓球でも同じことが言えると思う。上手い人は偶然うまいわけではない。「技術の規則」にしたがっているから上手いのだ。適当に打って偶然ボールが入るわけではない。計算され尽くした体の動きを身につけているからこそどんな相手と対戦しても大きく崩れることはないし、弱点らしい弱点が少ない。どんなボールにも対応できる。

 

 どの本も二枚の表紙の間には骨格が隠れている。分析的読者の仕事はそれを見つけ出すことである。書物は裸の骨格の上に肉をつけ、その上に衣装をまとって読者の前に現れる。いわばすっかりドレスアップしているのだ。読者はそのやわらかい表面の下の骨組みをつかもうとして、衣装を脱がせたり、手足の肉を剥ぎ取ったりする必要はない。ただエックス線のような透視の利く目で本を読まなくてはならない。本を理解するには、まずその構造を把握しなくてはならないからである。

 

私たちは上手な人のプレーを見て、「あぁ、体の力がうまく伝わっているなぁ。あれならかなりの威力のあるボールが打てるだろう」とぼんやり思う。じゃあ、どうしてその選手は安定して威力のあるボールが打てるのかと聞かれても、答えられない。先に触れた「ターンするための動作の一つ一つ」を意識できず、ただ一連の動作としか認識できない、言い方を変えれば全体がどんな部分によって構成されているか認識できないからだ。

しかし、一流の指導者はそれができる。あまつさえ動作中の「骨組み」―文字通りの意味での骨の動きや重心の移動が見えるらしいのだ。股関節が回っていないとか、肩甲骨が使えていないとか、人のプレーを見れば、そういうことが「透視の利く目」で見えるらしいのだ。
本を読むためにその構造を理解しなくてはならないのと同様、卓球でも骨の動きや力の流れといった構造を理解しなければならないのではないか。我流ではいくら練習しても効果が上がらない。やはり優秀な指導者に基本のスウィングから教えてもらわないことにはダメなのだ。ある程度打てるのにフォア打ちから指導を受けるのは「屈辱的な経験」かもしれないが、その段階を経ずには上級者にはなれないと思われる。
 

ワンポイント・アドバイス

先日、上手い人がこんなことを嘆いていた。

「初心者がよくアドバイスを求めてくるけれど、あんなのにいちいちとり合ってもしょうがない、ワンポイント・アドバイスをしたところで、うまくなるか?あんなもん、その場限りだ、明日になったら忘れてる。」

上手な人と試合をした後、よく「アドバイスお願いします」などと言ってしまうが、あれは意味がない事なのだろうか?

たしかに初心者は明らかに「間違っている」ことがある。たとえば、右利きの人がフォアハンドを振るとき、右足が前に出ていたら、さすがに「左足を前に出したほうがいいですよ」とアドバイスをするだろう。そしてそのアドバイスはたぶん効果がある。しかし、「足が動いていない」とか「腕だけで打っている」とか、そんなアドバイスをしても、意味はないだろう。初心者・初級者にしたら、そんなことは分かっているけれど、足は動かないし、腰を使って打つという感覚が分からないから、腰を使って打とうにも打てないのだ。

フォームに関するアドバイスは、さらに効果が薄いと思われる。
私も初級者に何度もフォームに関するアドバイスをしたことがある。積極的にしたいわけではなかったのだが、見るに見かねてアドバイスしたのだ。

「ボールを身体の真横で打っているので、もっと前で打ったほうがいいですよ」
「打つときに手首をカクッと曲げているので、手首を動かさないほうが安定しますよ」

しかし、そのアドバイスはまったく効果がなかった。その場限りの効果さえなかった。本人は気をつけて直しているつもりなのだが、傍から見ると、まったく変化がないのだ。打っている本人はどう「間違っている」のか意識できないものだ。

でも、人々はこれに価値観がおおく変わるのではないでしょうか。寺村誤用例集データベースより)

上の文は外国人の日本語の間違いである。こんな日本語を話す人に「私の日本語が下手です。日本語、教えってください」などと言われたら、どうすればいいのだろうか?

上の文なら、

「でも、人々はこれによって価値観が大きく変わるのではないでしょうか」

と直してみてもなんだか落ち着かない。これを自然な日本語にするとしたら、 

「でも、これによって大きく価値観が変わる人も多いのではないでしょうか」

 のように直さなければならないだろう。「これに」→「これによって」、「多く変わる」→「大きく変わる」 のように表面的な部分を直しても日本語として不自然である。そもそも根本的な文構造が間違っているのだ。英語では”People do something"のように文が始まってもおかしくはないが、日本語ではなんの修飾語もなく、突然「人々は~する」と始まる文は不自然である。根本的な文構造を直すのが先決であるはずなのに、その場しのぎの語句の添削をしていては、なまじ通じるだけに根本的な間違いに気づきにくくなる。

太り過ぎの例で考えてみよう。
痩せたいと思っている人がいろいろなサプリメントや効果があるとされる「ダイエット」を試してみてもほとんど効果がない。本人もわかっているはずだ。そんな姑息な方法ではなく、単に

「食事の量を減らす」「間食をなくす」「運動する」

これを実践すればいいだけなのだ。分かっているのにいろいろな「ダイエット」を次から次へと試す人が多い。

卓球の例に戻れば、フォームがどうとかは瑣末な問題で、効率よく動けるようにフットワーク練習をしたり、一定の場所に安定して打てるような基本練習をひたすら続ければ、フォームも自然に最適なものに変わるし、ボールタッチも身につくわけである。基本練習を積み重ねて、体に覚え込ませれば、その過程でおかしなフォームは自然に矯正されるものなのだ。それをフォームだけを直そうとしたりするから、なまじボールが入ってしまい、根本的な問題点の矯正が後回しになってしまう。

おそらく上の上手な人が言いたかったことはそういうことではないだろうか。
「地道な基本練習をろくにやってないくせに、やれフォームがどうの、ボールの当て方がどうの、なんて、ちゃんちゃらおかしいわ。そんなことに気を回す暇があったら、基本練習を完璧になるまでしろ!」



 

『オーケー!ボーイ エディさんからの伝言』(卓球王国)を読んで

卓球王国の出版物は質の高いものが多い。私は雑誌『卓球王国』をよく読むのだが、その出版物紹介の広告ページにこの本が紹介されており、前から気になっていた。どうしてボクシングの本なのに卓球王国が出版しているのだろうか。
どうやら、卓球王国編集者?の高橋和幸氏(参照:ラケットへの愛着)とエディ氏は個人的に親交があったようだ。
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エディ氏はガッツ石松や赤井英和といった有名なボクサーを育ててきたハワイ出身のトレーナーである。その愛情にあふれた指導は多くのボクサーに慕われたという。

この本を一言で言えば、ボクシング版「相田みつを」である。写真とエディ氏がボクサーを励ました名言が散りばめられていて、説明などは非常に少なく、30分ほどで軽く読めてしまう。相田みつをに感動できる人は、この本にも感動できるし、できない人はできないだろう。この本は励まされたい人よりも、励ましたい人が読む本である。

私の心に残った名言は以下のものである。

手をこうやって、握手して…言うの。とおるの。
ボク、話するの、とどくの。
「大丈夫よ」…「オーケー」。日本人、ちょっと違うね。
すぐ、「がんばって!」あれだけ。手、握らない。

この言葉から分かるようにエディ氏の日本語はかなり拙い。拙い言葉で上手に指導するにはどうすればいいのだろうか。指導を受けた村田栄次郎氏は言う。

「日本人はみんな、プロフェッサーよ…」。
エディさんは、よう、そんなこと言うてましたね。これは理論ばかりで教えるという意味やと思うんですが、確かに日本人のトレーナーは、とにかく言葉でねじ伏せる傾向が強いんです。それがエディさんは、スパーリングやってると「ストップ!」言うて入ってきて、カタコトの日本語で「今のパンチ、こうね。パンパンパン打ったら、次、こうパンッ、ね、わかる?」…。動作で見せるだけで、あまり細かい説明はしないんです。そうすると、こっちも考えるんです。エディさんの言うことはこうかな?という具合に。


条理を尽くして言葉で説明する、ということは頭の良い人にありがちな間違いなのではないだろうか。隙のない論理で順を追って説明されると、いちいち納得するので、自分で考えることをやめてしまう。聞いたときは分かったと思うが、しばらくすると、そのような説明は頭に残らず消えてしまう。なんだかテレビ番組に似ている。テレビは映像と音声と文字を駆使してこれでもかというほど分かりやすく説明してくれる。しかし、テレビを観ている間、立ち止まって考えるのは難しい。一方、本は違う。読みながら、「あれ?」と思ったら、そこで「これはいったいどういうことだろう」と立ち止まって考えることができる。

昔、上代文学の偉い先生にお話をうかがったことがある。その先生はことばについて「ことばとは、つまるところ、問いと答えだ」とおっしゃっていた。文レベルでも言葉は主語という「問い」と述語という「答え」から成り立っている。授業だってそうだし、会話だってそうだ。その際、「問い」と「答え」が密接につながりすぎていると、上に挙げたように自分で考える隙がなくなってしまう。適度に「答え」を飛ばして簡潔に説明すると、聞き手は「あれ?」と考える。そういう指導がコミュニケーションであり、相互理解なのかもしれない。

エディ氏はそういうことを計算しながら指導していたのだろうか。あるいは天性のものだったのだろうか。
どちらにしても、指導とは何かということを考えさせるエピソードだった。



卓球書代用考(育児書)

卓球インストラクターの新井卓将さんのブログを読んでいると、本当に勉強になる。タクショーさんは卓球の指導を科学的に理論化しようと試みているようだ。

スポーツの指導、ひいては教育というものは、科学や理論とは相性が悪いと感じる。ブッダも衆生を悟らせるには「対機説法」という方法をとる。つまり人によって教え方を変えるということだ。気の弱い人には「自信をもつことが大切だ」と教え、自信過剰な人には「謙虚になれ」と教える。

このように物質とは違う、心を持った人間を対象にすると、どうしても画一的で科学的な指導法というものは役に立たない。

教育の科学といえば、教育学である。しかし教育学の本や論文を読んでも、いい教師になれるとはとうてい思えない。教育学専攻の友人は「教育学では論文に教育的示唆があるかどうかは関係ない」と言っていた。つまり現場で役に立たない研究でも価値があるというわけである。

万人にとってあてはまるように、指導・教育を理論化することは本当に大変だと思う。しかしタクショーさんなら、その難業を成し遂げてくれるのではないかと期待させられる。もしタクショーさんの本が出版されたら、ぜひ読んでみたいと思う。

タクショーさんの「たくしょー掲示板」というページにこんなことが書いてあった。
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参考になるのはバスケットボールとサッカー、そして個人事業の開業についての書籍などです。ビジネス関連の書籍や雑誌もなかなか参考になります。あと、意外に自動車の運転や料理も卓球と似ていたりします。
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http://hidebbs.net/bbs/tacshow?sw=t

卓球の指導法は卓球書だけを参考にしていては発展しないだろう。タクショーさんのように様々な分野の知見を取り入れて初めて土台ができあがるに違いない。私もタクショーさんをまねて、他分野の書籍から卓球に役立ちそうな部分を紹介したいと思う。

次に紹介する本の、以下の一文に「なるほど」と思った。

「何十年も生きている大人でさえ、自分の気持がわからなかったり、わかったとしてもどう伝えて良いか悩むことなど、まだまだいっぱいあります。この世に生まれて数年の子供が自分の気持ちを表現できずに大泣きしたり、怒ったりしても、仕方のないことだと思いませんか。」(石川理恵『子どもの「育つ力」を伸ばす 楽々ファミリーコーチング』山海堂)

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そうなんです。大人だって子供と基本的に変わりません。うまく行かないときに子供は泣いたり、ジダンダを踏んだりといった方法で気持ちに折り合いをつけ、大人は酒を飲んだり、買い物したりといった方法で折り合いをつける。その方法の違いだけで、解決法が分からないのは大人も同じです。

いくら練習しても上手にならない、だんだん意欲がなくなっていく、不満やウップンがたまる…。
こういうときはどうやってヤル気を維持すればいいのか。

岡田祥訓『メンタルを考えよう』(卓球王国ブックス)は、個人の感情のコントロールやチームの運営に関していろいろな示唆があって、とても勉強になる。メンタルトレーニングというのは、試合中にいかに緊張しないようにするかといった試合中の心のコントロールだけかと思っていたのだが、そうではなくて練習中にどうやって集中力を高めるかや、行き詰まりをどうやって解消するか、人間関係の築き方等、人生にも応用できるような幅広いこころの持ち方を扱うもののようである。

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このような卓球書だけでなく、育児書もいろいろな示唆を与えてくれるのではないだろうか。
『楽々ファミリーコーチング』ではコーチングという理論?に基づいて、どうやって子供を育てるべきかのアドバイスをしている。これは指導者として選手を育てるのに応用できるだろう。

まず重要なのは子供を否定しないことである。子供がワガママを言った時、ガマンを学習させようとして、「ダメなものはダメ!」の一辺倒では、子供は何かに取り組む前から諦めてしまうようになるという。だからといってワガママをすべて通せというわけではない。5回に1回ぐらいはワガママを通すとか、条件をつけてワガママを通すということも必要だとするのである。

また、子供に一から十まで指図して、すべてのことを教える訳にはいかないのだから、子供が自ら学ぶように教育するのが効率の良い教育である。その際、頭ごなしにダメと言われると、自分で何かを試してみようという意欲を削いでしまう。「何かを試してみよう」という考え方は子供の可能性を大いに伸ばす。

この「ちょっと試してみよう」と思えるようになるためには自信の裏付けが必要である。「どうせ試しても失敗する」と思わせないために子供の「自己肯定感」を養うべきだという。そのいい方法が「ほめる」ことである。

ただ「上手にできたね」と褒めるのではなく、もっと具体的に「今のバックハンドは全国レベルでも通用するんじゃないか?」のように褒めるといいようだ。

そして「自己肯定感」が生まれたら、次第に創造性や発想力も育ってくる。「あれを試してみたら、うまくいくかもしれない」のように自分で次の発展のステップを考えられるようになるのである。こうなればこっちのものである。いちいち指導しなくても、子供は自分で伸びていく。

逆に何をやってもうまく行かず、自信をなくしているときは、WHY思考とHOW思考を使って自分で解決させるのがいい。うまくいかない原因を自分で分析(WHY思考)して、その後どうやって(HOW思考)うまくいかせるかを考えるのである。例えばサービスミスが多いから勝てないという原因を分析し、それを解決するために具体的な方法(例えば毎日サービス練習を30分するといった実現可能な低いハードルの方法)を考えだすのである。このHOW思考というのはなかなかできない。頭で考えることはできても、行動に移せる人は少ないのである。

韓国でよく言われる言葉に「始まりは半分だ(=着手してしまえば、物事の半分は終わったことになる)」というのがある。そのとおりだと思う。まず第一歩を踏み出せるかどうかが一番難しいことかもしれない。

選手として優秀な人が指導者になると、「そんな戦術は全国ではまったく通用しない」「台上の処理が下手すぎる」のように自分の経験から厳しい指導をする人がいるが、そういう指導は下の下だろう。選手が自分の問題点を自ら解決できるように自己肯定感を養わないと、良い選手は育たないのだろう。

これらの考え方は指導者としてだけでなく、自分自身を鼓舞する場合にも有効だと思う。卓球だけでなく、人生がうまくいかないときに、どうやって自分のヤル気を取り戻すかを考えるのにも役に立つだろう。

まとめ
育児書は卓球の指導のための参考書としても役に立つし、自分のモチベーションを高めるのにも有効である。
そこで重視されているのは以下の点である。

・ヤル気を維持し、自ら進歩するために、自己肯定感(自信)を養うことが大切である。
・自分のいいところを認める(あるいは人に認められる)と、自信がつき、「これを試してみたらうまくいくかもしれない」と自分でいろいろ模索するようになる。すると自主的に成長するようになる。
・意欲がなくなり、低調な気分のときにはその原因を分析し、具体的な、ハードルの低い対処法を考え出し、すぐ実践に移すことである。

このようにすれば選手(あるいは自分)のヤル気や気分を高めることができる。








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