ラケットを硬くてよく弾む7枚合板に変えて、ラバーを薄に変えてみた。
今までは柔らかいラケットに厚のラバーを貼っていたので、厚→中→薄と2段階薄くしたことになる。
上手な人に「ラバーは特厚。飛びすぎるなら厚。」と言われていたので、薄なんて今まで使おうとも思わなかったが、薄を使ってみると全然感覚が違っておもしろい。ボールに当たった時の振動がはっきり伝わってくるのだ。ラケットが硬いので、ラバーが「グリュ」っと潰れるような感覚が心地よい。うまくタイミングや角度が合わないと、そのような「グリュ」が味わえないので、ボールのあて方を工夫して、いろいろ試行錯誤している。その結果、打球感を非常に意識するようになってきた。厚や特厚を使っていたときにはあまり意識しなかった感覚である。今まではボールを打った時にボールが飛ぶかどうか、回転がかかるかどうか、ということばかり意識していたが、今はラケットのどの辺で、どのぐらいのスピードで当てられるかということを意識するようになってきた。

全く話は変わるが、数年前に芥川龍之介の「玄鶴山房」という小説を読んだ。死を間近に控えた老人の家庭内で起こるささいな事件を描いた、まったくおもしろみのない作品である。しかし私にとってはおもしろかった。おそらく20代の頃に読んでもまったくおもしろさは分からなかっただろう。一人ひとりの登場人物がどのような考えを持って行動しているのか、それを主人公の老人はどのように感じるのか、それを読むのがおもしろいのだ。「あぁ、こういう人っているなぁ」とか「この人物にとって大切なことは、こんなことなんだ」とか、そんなことを考えながら、なんでもない日常を眺めるのがどうして楽しいのだろうか。

またまた全く話は変わるが、私はコーヒーが好きだ。若い頃はネスカフェゴールドブレンドが大好きだった。あのクセのないあっさりした軽い味が美味しくて、毎日飽きずに飲んでいた。逆に専門店のコーヒーは妙な苦味があって好きになれなかった。昔のマクドナルドのコーヒーもネスカフェゴールドブレンドのような味だったので、とても美味しく感じた。それが今はどうだ。インスタントコーヒーがまずくて飲めない。なんだか水っぽくてコーヒーを飲んでいるという気にならないのだ。ちなみにアメリカで缶コーヒーが流行らないのは、同じような理由らしい。コーヒーの本場のアメリカ人曰く缶コーヒーは「まずい」らしい。逆に専門店のコーヒーの刺すような苦味がおいしくてたまらなくなった。

人の認識は網の目のようなものだ。経験を重ねるごとにその網の目は細かくなっていく。経験が浅い頃はまったく感じられなかったような感覚が歳を重ねるにつれて感じられるようになってくる。若い頃は何かに接しても網の目が大きすぎてそのほとんどすべてが素通りしてしまうが、年をとると、いろいろなことがその網に引っかかるようになる。
学校の先生の授業を10代や20代のときに聞いても右から左に抜けていき、ほとんど何も残らないが、それを中年になってから改めて聞くと、その含蓄の深さを興味深く覚えたり、逆に大した話ではないなとつまらなく感じたりする。

私の卓球はまったく進歩が見えないが、そんなことはなく、見えないところでいろいろ進歩しているのかもしれない。少なくとも今まで意識できなかった感覚を意識できるようになってきているのである。