こういう本が日経のような出版社から出るというのに驚いた。卓球の本はスポーツ系の出版社、あるいは大修館のようなスポーツに力を入れている出版社から出るのが普通だからだ。日経なんてサラリーマンが読みそうな本しか出さないかと思っていた。いや、この本は実はサラリーマンに歓迎されるのかもしれない。
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ナショナルチームの卓球の指導者というのは選手に一体何を教えるのだろうか。
最近の若手は世界ランキング一桁の選手もいるし、トップ20以内の選手も数人いる。それに対して現在ナショナルチームの監督になっているような人は全日本ではいい成績を収めたかもしれないが、世界レベルではさっぱりだろうし、今の卓球の技術の進歩についていける指導者はいないのではないだろうか。つまり監督よりも選手のほうがずっと卓球が上手いというわけだ。それなら指導者の仕事は何かということが問題になってくる。

西村氏は指導と卓球の技術とは別物だという。

卓球選手の指導というのは卓球マシンをつくることではなく、人間を育てることなのだ。卓球はめっぽう上手いが人間としては尊敬するに値しない「卓球バカ」を作ってはいけないというのが西村氏の指導のポリシーである。私はこの人は信頼できると思った。人間性を育むことこそ指導者の第一条件であるようだ。そしてチームをうまくまとめ、選手たちに自主的な成長を促し、モチベーションを高め、行き詰っていたら、精神的に選手を癒してあげることが指導者の務めだったのだ。

この本には卓球の指導にはとどまらない多くの示唆があり、勇気づけられる。

その中で気に入った言葉は「今日は1ミリ成長しよう」というものだ。1日で自分の能力が劇的に変わるということはありえない。だから毎日「本当に自分は正しい道を歩んでいるのか」と不安になる。しかし「今日は1ミリ成長した」と思えばそれが救いになる。自分の道を信じて進めば、きっと年月とともにいつのまにか大きく成長することができる。どんな道でも結局進み続ければ、どの道も正しいはずである。

『ひろさちやの般若心経88講』(新潮文庫)にこんな話が紹介してある。
雨が降ると、雨漏りのする古寺に雨が降り始めた。和尚さんが「何か雨漏りを受けるものを持って来い!」と小坊主たちに命じると、みんな適当なものを探しに行くが、貧乏寺ゆえ、適当な桶のようなものもない。みんながマゴマゴしていると、ある小坊主がザルを持ってきた。雨を受けるのにザル?小坊主は躊躇なくそれを和尚さんに手渡したところ、和尚さんは叱りつけるどころか、大いに満足して他の小坊主たちに「おまえたちは禅の何たるかが分かっていない。あいつを見習え!」と檄を飛ばしたという。

なぜ役に立たないザルを持ってきた小坊主がほめられたのか。著者は「迷いがもっともいけないことで、小坊主は迷いを持っていなかったから禅の精神に適ったからだ」と説く。私なりにこれを敷衍すれば、何も持って来ないで探してばかりいるよりも、何でもいいから何かを持ってくればそれが解決の糸口になる。たとえばザルだけでは役に立たないが、それに手ぬぐいを重ねたら、一時しのぎにはなる。その間にもっと雨を受けるのに適当なものを探して持ってくればいいのだ。最初から最高のものを持ってこようと思うのが間違いなのである。
道は初めから一番の近道が見つかるわけではない。最初は少し間違った道を進んでいるものなのだ。だからといってその道を進むことに意味がないわけではない。とにかく進んでいけば、いずれ正しい道に出るものだ。そうではなく、正しい道が見つかるまで進まないというのが最もマズイやり方なのだ。

卓球の道を極めた人が全く別の分野で大成するということは十分有り得る。道はどれでもいい。とにかく進むことが大切なのだ。

卓球の指導というのは卓球に限らず、いろいろなスポーツに、ひいては社会全般にも応用できることが多い。その際、最も大切なことは言葉だと思った。選手を奮い立たせたり、立ち直らせたりするのは説得力のある言葉がなければならない。西村氏は上手に選手を納得させるような言葉を持っている人なのだろう。


この本を読んで上のようなことを思った。