若いころは可能性に満ちている。どんな夢でも自分次第で叶えられる。
自分にはどんな未来が待っているのか。その選択肢の多さに若者は胸を膨らます。

しかし、江戸時代以前はどうだったのだろうか。江戸時代には能力によって出世する人がいたことはいたが、稀だったに違いない。農民の子は農民に、武士の子は武士に。自分の将来の選択肢が多すぎて迷ってしまうなどということはなく、単に「決まった道を大過なく歩み、無事に次の世代に受け渡す」というのがその時代の人生観だったのではないだろうか。「人生は自分で切り開いていくものだ」という大前提がそこにはない。現代でもインドやネパールにはカーストが根強く残っており、こういう人生観の人がたくさんいるに違いない。

前置きが長かったが、私たちが卓球をする理由は何かといえば、それは楽しいからという理由に尽きる。それが大前提なのである。しかしその大前提がない人々に卓球をさせるにはどうすればいいのだろうか。

先日、全く経験のない知人を卓球に誘ったのだが、彼らと卓球をするのは非常に難しかった。彼らの卓球をする動機は運動不足解消だった。彼らにとって卓球は必ずしも楽しいものではない。そういうい人たちに卓球の楽しさを教えることの難しさよ。

はじめに「往復10回のラリーを続ける」という目標を課してやらせてみたのだが、それがなかなかうまくいかない。無意識にナックル気味の球を打つ人がいて、相手がとれない。クロスで打っているのに突然ストレートに打ったり、深い球を打ったりしてラリーが続かない。「下に少しこすっている」と指摘しても自分がどういうラケットの振り方をしているか自覚がないので直せない。軽く打てばネットにかかり、それを調整すればホームラン。ボールが台に落ちるように打たせることがこんなに難しいとは。
いろいろアドバイスをしてフォームを矯正してあげようと思うのだが、彼らにしてみれば「なぜ自分はこんなことをしなきゃいけないんだ?」と思っていることだろう。

論理の飛躍があるのだ。どうして勉強をするのか訳も分からず受験勉強をさせられている高校生のように、卓球の楽しさを知らずにラリーを課せられるというのは順序が逆なのだ。まず卓球の楽しさをつきとめて、それを未経験者に伝えることが先決なのだ。

どの卓球の入門書を見ても、

「卓球は楽しい」(大前提)
→「卓球が上手になれば、もっと楽しくなる」(小前提)
→「だからこの本で学んで上手になりましょう」(結論)

という三段論法である。この大前提を獲得する方法をこそ知りたいのに。


卓球の楽しさとはいったい何なのか。

速い球を打った時の爽快感?…いや、ストップで返球し相手をつんのめらせるのも楽しい。

相手の心理を読み切ったときの満足感?…いや、コースの決まった練習をしている時も楽しい。

自分がボールを思い通りにコントロールしたときの達成感?…いや、スマッシュをギリギリ返球したときは、追いつくのに必死でコントロールしようとさえ思っていない。

なんだか認識論哲学みたいになってきた。

卓球の楽しさというのは謎である。経験者にとっても、未経験者にとっても共通するような大前提としての卓球の楽しさとはなんだろうか。これさえ究明できれば、卓球人口を飛躍的に伸ばすことも可能ではないだろうか。

思い返してみると、私が初めて卓球を始めた日、指導者の人は私たちに玉突き、壁打ちをさせた。それがミスなく数十回続いて初めて台で打たせてもらったような記憶がある。何も分からずそれに熱中していた小学生時代。もしかしたらボールをラケットで打った感覚そのものが卓球の楽しさの原点なのかもしれない。