今回は卓球には関係のない無駄なお話。
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世の中、テレワークが真っ盛りである。
コロナウイルス流行の副産物としてテレワークの普及が挙げられる。
これまでぼんやりと「ネットを使えば、わざわざオフィスに行く必要はないのではないか」などと思っていたものの、実際にそれをやってみようなどという職場は稀だったはずだ。それがいざテレワークを余儀なくされてみると、意外に便利だと多くの人が感じたのではないか。
teleworking

「これならわざわざ電車に乗って職場に行かなくてもいいんじゃないか?」
「いや、むしろ、職場に行くよりも、在宅勤務の方が仕事がはかどるんじゃないか?」

などと私も思ったのだが、テレワークには問題も多いということに気づかされた。

職場のチームの人とメールで意見を交換していると、キツイことを書かれたりすることがある。自分の意見を全否定され、他の人もそれに倣い、否定してくるので、自分ひとりが孤立してしまったかのように感じるのである。

文言の細かい部分も気にかかる。
「そこは『てください』ではなく、『ていただけないでしょうか』だろ!」
「何が、『私だったらこうしますけど』だ!その『けど』はなんなんだ、自分が模範だとでも言いたいのか!」

そして相互不信に陥り、
「価値観の違う人間に何を言っても無駄だ。あいつらとはもうこれ以上関わりたくない…。」

挙句の果てに必要最低限の事務連絡しかしないような冷たい関係になってしまう。

こんなことはテレワークではしょっちゅうである。この間も私のウェブミーティングの呼びかけに対し、「その時間帯は都合が悪いので、参加しかねます」「今、どうしても集まる必要性がありますか?」などとつらい返信が相次ぎ(その「かねます」ってなんなんだ?感じワル!)、私もうんざりして召集を取り下げたのだが、その後、感じの悪い回答をよこした、にっくき一人が私に電話をかけてきたのである。

「この間のウェブミーティングの件、どうもすみませ~ん。どうしても外せない用事があったもので~。」

その声を聞いて、私の彼女に対する敵愾心は解消された。あれだけぬぐいがたく心の奥底にこびりついていた感情が一瞬にして蒸発したのである。

なんだ、別にイヤな奴でもなんでもないじゃないか、彼女。テレワークになってから、「ついに本性を現したな!」などと思っていたが、話してみたら、以前の信頼のおける彼女のままであった。電話の声を聞いただけで人の評価がこんなにも変わるなんて我ながら驚きであった。

最近、人気女子プロレスラーが自殺?したというニュースが話題になっているが、言葉というのは本当におそろしい。自殺した彼女に中傷メッセージを送った犯人たちも、軽い気持ちで「キモい」だの「消えろ」だの書いていたのだと思うが、それを受け取った相手は恐怖心や憎悪を掻き立てられ、それらの感情は時間が経つにつれて増幅していくものである。音声を伴わない字面だけのメッセージというのは、多くの場合相手にネガティブな印象を残してしまいがちである。

日本語の場合、丁寧さを表す敬語表現が豊富で、文末に「ね」とか「よ」などの終助詞がつくので、他言語に比べて自分の態度や気持ちなどを伝えやすいはずである。それでもメールのような音声を伴わないコミュニケーションの場合は誤解や相互不信に陥ることがままある。これらの主観的な表現に乏しい英語や中国語では、どうなのだろうか?

仕事帰りの一杯、という昭和の習慣が少なくなってきたのは喜ばしいことだと思っていたが、顔を合わせて腹を割って話す機会がなくなってしまうと、それによってうまく回っていた人間関係も回らなくなってくる。一見無駄に思える行為を排除して、効率の良さやエッセンスだけを追求すればするほど、私たちの精神的な健康はむしばまれていく。効率というものは、無駄な行為があって初めて成り立つものなのかもしれない(前記事「膾炙練習」)。卓球でも効率のいい練習メニューをこなすだけでなく、利き手と逆の手でラケットを握ってみたり、トリックショットなどのゲームをやってみるという「無駄な」練習も必要だろうし、ときにはみんなで遠足に行ったり、昼ご飯をいっしょに食べたりという機会も必要だと思う。そういう経験があって初めて有益な練習というのが意味を持ってくるのだと思う。

テレワークは効率性というものを意識させてくれると同時に無用の用の存在というものも気づかせてくれた。ネット上のコミュニケーションは今後も有効性を持ち続けるだろうが、これが行き過ぎると人々を深刻な人間不信に陥らせることになるだろう。