「子供ができて初めて自分の生きる意味が分かりました」
というのを別の言い方で意味を変えずに表現しろと言われたらどうするだろうか?

→「子供ができて自分の生きる意味が初めて分かりました」?
これじゃ、単語の順番を換えただけ表現としては変化がない。

→「自分の生きる意味が分かったのは、子供ができてからです」?
英語の「強調構文」のような表現だが、これも一つの解答と言えるだろう。

だが、そうではなく、物事を反対側から表現してみたらどうだろうか。

→「子供ができるまで自分の生きる意味が分かりませんでした」

このように同じ意味を異なる構造で表現すると、今まで気づかなかった意味に気づくことができる。

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私は最近、フットワークを意識しながら練習しているが、世間ではよく「足を止めてはいけない」などと言われる。しかしその一方で「打つときはきちんと止まってから打て」とも言われる。なんだか非常に分かりにくい。「足を止めるな」と「止まってから打て」というのは矛盾しているのではないのだろうか…。

前記事「ツッツキのバリエーション」で触れたように、ペンホルダーの私はなんとかしてツッツキからの展開で試合を有利に進めたいと思っている。しかし、相手のサーブを私がいつもツッツキで待っていると、当然ながら相手はロングサーブを多めに出してくる。そうすると、ロングサーブでこちらの待ちを外されて、ただ当てるだけのレシーブになってしまい、それを見越して相手はすでに回り込んでいて3球目強打をもろに食らってしまう。その結果、こちらもロングサーブを警戒せざるを得なくなり、ロングサーブで待っていたところに今度は同じモーションでショートサーブを出され、こちらはドタバタ急いで前進し、めいっぱい腕を伸ばして、また当てるだけのツッツキで返すことになる。

一体どうすればいいんだ。

こんなドタバタした卓球を続けていると、フットワークが浮足立ってくる。レシーブするときも足元がふわふわしていて落ち着かない。これではいけないと打球時にしっかり足を踏みしめるよう心がけることにした。ショートサーブが来たら、まず、右足を前方に一歩出し、ツッツキ。それが終わったら急いで戻って相手の返球を見定めて右足を踏みしめてブロック。こちらのチャンスボールのときも、右足を踏む場所をちゃんと確保してから、右足を踏みしめてドライブ。どんなときでも律儀に右足を踏む場所を考えてから打球。右足と右腕にほぼ同時に力を込める。このようにきちんと右足を使うというのは今まで意識したことがなかった。しかし、この右足と右腕を「重ねる」ようにすると、打球が安定してくる気がする。上半身の打球に先立って右足を踏みしめるというのは簡単なようで、意外と難しいと思う。ボールは一瞬でこちらに迫ってくるのだから、「あっ!」と思った瞬間には右腕を動かさなければボールに間に合わなくなる。というわけで、最近の私のプレーはのんびりボールを待っている余裕がない。ボールを打ったら、すぐに右足の踏み場を探さなければならないのだから。

「なんだかお母さんになったような気分だなぁ」

子供ができると、母親は自分が行動する前にまず子供のことを考える。自分の生活で手一杯なのに子供のことまで考えなければならないとなると、その忙しさは想像を絶するものだろう。

「そうだ!市役所に寄らなきゃ。家に返ってから、また来るのめんどくさいなぁ。子供をちょっと車に置いて用を済ませても大丈夫よね?」(たぶんダメ)

akatyan

「その店、前から行きたいと思ってたけど、子供連れOKかな?」

こんな感じで私も打球する前にまず右足をどうするか考えるようになった。ボールが打てる位置まで移動するのだって大変なのに、さらに右足の踏み場まで考えなければならないとなると、想像以上の忙しさである。いい年をした大人が、相手のサーブが打たれた瞬間に(いや、打たれる前から)足をバタバタさせて前後左右に移動しては右足を踏みしめて打球しているのだから。できればもっと優雅でスマートな卓球がしたいものだ。最近の私は全く足を休める暇がない。

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「止まって打て」と言われると、うまくできないが、「右足と右腕を重ねるようにしろ」と表現すれば、けっこう止まって打てるようになるのではないかと思う。