若い頃、西田幾多郎と鈴木大拙に憧れた。
あれこれ本を読んでみたが、全く歯が立たなかった。

考えて見ると、人間ほど不思議な存在はない。自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫をする。何のための一生かと怪しまざるを得ぬ。「動く」もの、すなわち「働く」ものから、「見る」ものの世界に飛び入りしたのは好いが、またその「見る」ものを独立の存在と見て、それを「働く」ものから隔離してしまうことになった。公案禅の奴となったものは、この種の人々の一例である。「働く」ものから出て「見る」ことのできた人は、今一度「働く」ものの中に却来しなければならないのである。「折合還帰炭裡坐」(折合して還って炭裡に帰して坐す)とあるではないか。自分はこの句を愛する。(鈴木大拙による『公案』(ちくま学芸文庫)の序)

「自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫をする。」という文句が身につまされる。

コーギーもブルドックもシェパードもチワワも犬である。私たちはそれを誰かに教わらずとも直観的にみんな「イヌ」と理解できる。あれだけ姿形が異なっているにもかかわらずである。なぜ見た目があれほど異なっているのに同じ「イヌ」だと思うのか。それはわれわれがイヌのイデアを持っているからだとプラトンは言った。人は理想的で完璧な「イヌらしいイヌ」というイメージを脳内に持っていて、そのため多種多様なイヌを「イヌ」だと認識できるのだという。このイデアこそが真実在であり、イデアを知ることが知の完成形だと考えられた。正義のイデア、美のイデア、真実のイデアといった抽象概念にもイデアを設定し、それをあれこれ考えることが哲人の仕事となった。

だが、そんな小難しいことを考えなくても、朝起きて、食事をして、働いて、家族と過ごすという平凡な人生の中にだって真実はあるではないか。まさに「花は紅、柳は緑」なのである。

私たちはふつうに卓球をしていると、おかしなことを考え始める。

「もしかしたら、今話題のラケットを使ったら、自分の潜在的な可能性を引き出せるのではないか。」
「はずまない粘着ラバーを使って、自分の卓球をイチから見直そうと思う。」

用具ではなく、他のところに問題があるのはうすうす気づいているのだが、用具を替えることで何か自分の卓球が改善されるのではないかという考えに取り憑かれ、あれこれ用具を替えることに没頭し、自分の本当の問題の解決を先送りしてしまう。私もよくこんな「わな」を自ら作ってその中で「もがき苦しむ」。

また、

「ドライブを打つときに肩甲骨を使うと、威力が倍増するらしい。」
「地面反力を使って自分の筋力以上のボールを打たなければ。」

こんなことも私はよく考える。体の使い方とか、ラケット面の角度とかをいろいろ考えては試してみる。しかし、何らかのコツを掴まえたと思ったとたんにそれは手のひらをすり抜けていく。こういうことの繰り返しである。

先日、初級者の女性と練習して、また「指導」をしてしまったのだが、彼女の卓球を見て急に目が覚めた。「炭裡に帰して坐す」に如かずと。

「台上のチャンスボールを打つときは、しっかりと台の下に足を入れ、ボールを引きつけて、手でうつのではなく、少しでも腰を使って打ちましょう。面の角度を伏せてはいけません。タッチは弾くようなタッチで。スイング方向は下回転の影響を受けないように斜め上方にラケットを振り切って、その後は…。」

この説明が正しいかどうか怪しいものである。しかし、とにかく私のできる限りの「指導」をしてみたのだ。
彼女は緊張しながら私の送る台上のちょっと浮いたボールをフリックしようとするのだが、何度やってもミスである。ミスの原因は私の「指導」が間違っていたからというよりも、打つ直前まであれこれ考えすぎて、打点を頂点より落としてしまっていたということに尽きる。

軽い下回転のかかった、浮いた台上のボールを打つには、高い打点こそが大切であって、その他のことは大して重要ではない。私の説明などすべて忘れて、ボールの頂点を見定めて軽く撫でるように打てばボールは台に入るはずだったのだ。もし私が要らぬ「指導」などしなければ、彼女は自分でいろいろ試してミスせず台上のボールを打てるようになったはずなのである。

私の「指導」というのはつまるところ、「花は紅に見えるけれど、本当にそうだろうか?実は黒なのではないか?」などと言っているのに等しい。

用具でも、打法でも、考えすぎるのは失敗の素である。そんなに難しく考えなくても、当たり前のことを続けていれば、おのずから正解に辿り着ける。いろいろな正解があるのだから。



張一博選手の上の動画を見て、印象的だったのは「打つ前に角度を決めて」というくだりだった。

一博1

一博2

一博3

「(フリックでは)最後の最後で角度を調整するのはダメ」

これは私のことを言われているようだと感じた。私は打つときにいつも新しいことを試そうとして落ち着かない。「こうやったほうがもっといいショットが打てるのではないか?」などと打つ直前まで考えている。ひどいときは打ちながら考えている。だからラケット面も安定しないし、戻りも遅くなってくる。

「折合して」というのは、文脈からすると、あれこれ難しいことを考えるというような意味に解釈できるが、そんなことをしていても、結局は家に「還って」、「炭裡」の前に座って晩飯を作っている自分がいるというわけである。高いボールは高いうちに打てばいいし、打った後は速やかに次のアクションに移ればいい。そこで「この花は黒いのではないか?」などと考えて、花の色をあれこれ吟味するのは「自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫」なのである。

こちらが打てば、すぐにボールが返ってくるから、それにそなえて移動すると同時に準備して、余裕を持って高い打点で打球する。こういう当たり前のことが「折合して」ばかりいると見えなくなってくる。