「しろのさんはマスターズとか出はらへんのですか?しろのさんならチャンスあるんじゃないですか。」
などとおだてられて、うっかり「マスターズ予選に出てみようかな?」などという考えが頭をかすめたことがあるが、よく考えたら、チャンスなどあろうはずがない。ああいう全国大会につながっている大会には東山卓球部のOBをはじめ、化物のように強い人が出てくるのだから。

東山高校卓球部で3年間卓球をやっていた人なら、ふつうはたとえ中年になってもおそろしく強い。私のように中学時代まででやめてしまい、中年になって卓球を再開したような人間とは根本的に違う。向こうがサラブレッドなら、こちらは農耕馬である。勝てるはずがない。

しょせん、中年の草卓球である。これからいくら努力しても、上達できる伸びしろは高が知れている。全国レベルなどには到底到達できない。

こんな卓球を続けていて、いったい私は楽しいのだろうかと自問してみる。

われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり


楽しいに決まっている!
一生全国大会に縁がないとしても卓球ほど楽しいことなどないではないか。

私は、毎日部活で3~4時間もレベルの高い練習をしている学生のような「樹」にはなれない、へたくそな「草」である。そして多少は上達するときもあれば、なかなか上達しないときもある。いや、練習時間の大半は上達しない、停滞しているときなのである。試行錯誤を繰り返し、内に何かを萌しつつも、それが表には表れない状態である。だが、上達しないときは上達しないことを受け入れ、上達できるチャンスがめぐってくれば、思い切り上達しようとがんばるのである。

われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり
毎年かはらず 緑なり
緑の己れに あきぬなり
われは草なり 緑なり
緑の深きを 願うなり


若い人のようなフットワークもなく、速いボールは連打できず(1本ぐらいなら打てる)、なんとかミスせず入れるのが精一杯のオジサン卓球である。若い人は日に日に目に見えてうまくなるが、私は去年と同じような進歩のない卓球をしているように感じる。しかし、それでも卓球が楽しくてたまらない。こんな卓球でも私なりの深さで追求しようと思う。

ああ 生きる日の 美しき
ああ 生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす
草のいのちを 生きんとす


卓球をしている、それだけで楽しい。生きていると実感できる。
ヘタクソなりに、卓球をしていると、あるとき自分でも信じられないようなスーパープレイが飛び出したりする。

「今、私は何をしたんだ?こんなショットが私にも打てるのか!」

今のプレーを再現したい。どうやったらコンスタントにできるようになるのだろう。たぶん、さっきのフォアドライブは、ボールを打つ直前に一瞬、上体を沈め、膝にグッと力を込め、伸び上がりながらドライブを打ったのだと思う。ということは、膝を固定点にして打てばいいのではないか……

これだから卓球はやめられない。自分の限界がどこまでかなんてどうでもいいことさ。

zassou