「Aである」と「Aでない」を分けることが Aが分かるということなのだと
世間で言われるけれど
私は「打てる」ボールと「打てない」ボールが分からない
相手のストップがネットよりもボール2個分浮いた
台から出るロングサーブが来た
どちらも打てるように思える
ストップは下回転がかかっているけれど こういうのを厳しく打つのを見たことがある
ロングサーブはあっという間に私のミドルをえぐるけれど 大丈夫、間に合うはず
思い切り打ってみると なぜかボールはネットにかかったり、オーバーしたり
現実はいつも私に教えてくれる
「それはあなたには打てないボールなんだよ」と
でも私は現実を信じない
何か小さな行き違いがあっただけで ホントは打てるはずなんだ
「根本的に間違っているんだよ」というささやきは 私の耳には届かない
何度も何度も同じミスを繰り返す 私はあきらめず試みる
だって練習の時は入るのだから
「あんなボール打てるわけないだろ」 上手な人に言われて
私はやっと気づく 現実が教えていたことは掛け値なしの本当だったのだと
でも浮いたストップをツッツキで返すのは地味だ
「台から出るサーブは打て」と聞いたことがある
やはり打てるんじゃないか?
現実はいつも私に教えてくれる
「それはあなたには打てないボールなんだよ」と
私は打てるボールと打てないボールが分からない
どうすれば打てるのだろう?
でもこのボールはきっと打てるはず
コメント
コメント一覧 (18)
自分の頭の中と実際のプレイは結構違いますから。
それで入っている時や上手い人と見比べてみる。
そうすると練習で入っている時とは、入らない時では、身体とボールの距離が違ったり、腰が高かったり、フリーハンドが死んでたり、
何かしら違いがあると思います。
コメントありがとうございます。
ビデオ撮影、とてもいいですね。
細部の比較から多くのことが分かりますよね。
練習では入っても試合だと、試合だとメンタル面や調子などでいつものように出来ない事が多いので試合で自分はどんなプレーどんなスイング、どんな足運びをしてるかなどを知るためにも試合の動画を撮ってチェックするのは大切だと思います。
コメントありがとうございます。
下半身の動きもよく確認したほうが安定しそうですね。
ただし、こう決めていることで展開がシンプルになり考えなければいけないことは減ります。あらゆる球にベストの返球をするという発想はもはや捨てているのだと思います。自分で決めて仕掛けて自分の好きな球にしていく、というとちょっとカッコつけすぎだしそこまで毎回はうまくいきませんが、そういう感じです。
コメントありがとうございます。
レベルが上がるにつれて自分のやりたいことがだんだんできなくなってくると私も感じております。それでも自分なりのパターンをしっかり確立なさっているのはさすがですね。
私はいつも発展途上なので、つぎつぎと新しいことを試してあまり定着しないという悪い流れになっています。相手によってはうまくいかないときもあると割り切って自分のスタイルを追求するのが一般愛好家にはいいんでしょうね。
コメントありがとうございます。
私のレベルでは自分と同じ、あるいは自分より格下なら「打てる/打てない」を考える時間的余裕もあるかと思います。でも格上と対戦する場合、本当に「打てる!」とか考える余裕はほとんどないですね。強いお友達の意識、参考になりました。
その場合はこの前のコメント削除願います
さて今回の記事ですが、しろの様の「打てる」「打てない」を対象のボールにドライブやスマッシュなど攻撃的な打法を用いられるか否かで判断していると推定して以下愚考を述べさせていただきます
個人的には「打てる(そして絶対入る)」「打てない」「打てる(けど入るかわからない)」といったグレーゾーンがある3択だと考えました
記事前半を読むと書き方の問題かもしれませんが「間に合うはず」「厳しく打つのを見たことがある」としろの様自身、打った後、入る確信がない状態で打球している印象を受けました。確信がないボールでミスがでるのは仕方なく、それでも練習に比べ、実践などでミスを多く感じているのなら、緊張や慣れない球質で実際ミスが多いパターンと練習中の状態を美化してるパターンが考えられると思います
練習中の「出来た」は、試合と異なり特定のパターンを集中して行うので成功率が高い状態が続き、実は「体が暖まった状態なら」「しばらく練習した後でなら」という条件のもとでこの成功率が出ていたことを忘れてたり、普段の練習よりも失点で強く失敗を意識する試合ほど、練習よりも成功率が低く感じるのではないかと考えました
コメントありがとうございます。
ご意見に対していちいち納得です。
他のコメントしてくださった方々も誤解されていると思うのですが、この記事に出てくる「私」は「しろの」ではなく、不特定多数の、「ムチャ打ちに無自覚な初中級者」という設定です。実はこれは自由詩のつもりなんです。
まぎらわしいことで、どうもすみません。
ご意見が初中級者の上達の大きな助けになると確信しています。
私はこの記事が詩だということには気づいていたんですが、
「私」については「しろのさん」だと思ってました。。。
失礼しました(^ω^;)。
この「ムチャ打ちに無自覚な初中級者」も、
ダブルスをこなすとかなり効果的にそれを自覚するようになりますね。
どれくらい効果的かというと、敵としてとても厄介になるくらいです…。
こちらがわざと打たせてミスさせようとしている、
もしそれが入ったとしても調子に乗らせて
トータルでムチャ打ちしまくるよう仕向けているのに
無難につないで来る、最悪でも入れてくるので
簡単に勝たせてくれません…。
それも自分で勝手に気づいてそうするようになるんですよね。
こうなるともう気づかせたくないですので
「そんなの入るわけないじゃないですか」
と余計なアドバイスをしようかなんて思っておりますもちろん冗談ですが。
コメントありがとうございます。
私は試合になると、ビビりまくってしまい、とにかく入れに行く卓球をしてしまい、絶好球製造器と化してしまいます。
ダブルスの効果、おそるべしですね。
敵の目だけでなく、パートナーの目も気にしなければならないから、パートナーの視線を感じて無茶打ちで足を引っ張るミスができなくなってくるのかもしれませんね。
ムチャ打ちがやめられない人にはダブルスを勧めてみようと思います。
先日の練習で奇数になってしまったので、初級者と組んでダブル対シングルをやってみました。パートナーの女性はとても楽しそうにしていました。横から見ると、いろいろ参考になることもあるのかもしれません。
遅ればせながらご返信ありがとうございました。
初級者の女性とのダブルス、良いですね。
女性は「共感の生き物」とよく言われる通り、
ダブルスがお好きな方が多いですね。
パートナーと一緒にやるという和気藹々感が
本能に合ってて楽しいんだと思います。
もしその女性にまたいらして欲しいんでしたら、
またダブルスをやってあげると良いかもしれません。
P.S.
『女性は「共感の生き物」とよく言われる』
というのはググれば(反論含め)色々出てくるのですが、
サクッと理解するだけなら↓の漫画が分かりやすくて良いです。
https://yakb.net/man/128.html
ご返信ありがとうございます。
時間の余裕があればもっとゆるいダブルスを楽しみたいと思うのですが、なかなか時間がなくてダブルスができていません。せっかくアドバイスをいただいたので、今度ダブルスをやってみようかなと思います。共感を求める心理というのは、閉塞感などを感じているときに強くなるのかなと感じました。
勧めといてなんですが、無理はせず、
気が向いた時に、メンバーや雰囲気を見て、
気楽にやって行って頂ければと思います。
特によく思考を巡らせて卓球される方は
ダブルスを好まれる人が多いので、
そういったメンバーがいる時は
お任せしてもいいと思います。
ご返信ありがとうございます。
私はダブルスのおもしろさがまだよくわからないのですが、きっと奥が深くておもしろいんだろうなと思います。暇な時間を見つけてぼちぼちやってみたいと思います。
とても素晴らしい詩に大変感動し、はじめてコメントさせていただきます。
私はこの詩に、
何度も何度も失敗を繰り返しながら、自分自身に挑戦し続けていくスポーツへの親しみと、そして悩み、葛藤を感じました。
プロ選手や、チームのエースの感じる孤独感、みたいなものも感じました。
草の根プレーヤーである私にとっては、長年スポーツに打ち込んできた中で、他者にもたびたび尋ねられ、常に自問自答する「何のために卓球やってんの?」に対する葛藤、これを強く共感いたしました。
現実の「おまえには無理だ」って声が聞こえてもまだ「次のボールは打てるはず」という部分には涙が出ました。
本来スポーツというのは孤独なものです。技術と感覚に向き合うというのは、自分自身の内面に向き合うということですから。そこはとても孤独な闘いです。しかしそれでもスポーツは素晴らしい。
それでも、やる!
やってやる!、という卓球、そしてスポーツの本質を愛する心に大変感動いたしました。
コメントありがとうございます。
詩というのは奥が深いなとご意見を読んで感じました。
あまり深く考えずに書いたものなのですが、いろいろな解釈が可能なのだと気付かされました。