年配の女性と卓球をしていたとき、ミート打ちを多用して安定しないので、思わずアドバイスしてしまった。
しろの「そんなに速いボールを打つ必要はないですよ。ドライブをかけてゆっくりと山なりのボールを打てば、相手に打たれることはそうそうないですよ。弾いてミスを連発するより、ドライブで安定性を重視したほうがいいんじゃないですか?」
女性「私、ドライブってかけられへんねん。こすって打とうとしても、どうしても弾いてまうんやわ。」
中高年から卓球を始めた女性の中にはドライブがかけられないという人がけっこう多い。それで何の不足も感じておらず、卓球を楽しんでいるようなので、それはそれでいいのだが、こする感覚が分からないというのはどういうことなんだろう?
そういえば、表ソフトを使っている人も同じようなことを言っていた。
「お前はこする感覚がないから、表ソフトに転向せい言われて、表ソフトになったんです。」
最近、卓球の「感覚」ということがよく言われる。やみくもに長時間練習するより、まず「感覚」を身につけるのが先決なのだと。
私も最近フォアドライブの打ち方を変えて、新たな感覚を覚えたように思う。それは言葉では説明しにくいが、小さな力で速いボールを打つ感覚なのである(前記事「しっとりした打球」)。バルサミコ氏の3hit理論に近いものかと思い、氏に指導を乞い、氏のドライブに対する考え方を伺ったのだが、お医者さんだけあって非常に鋭く、分析的であり、いろいろな発見があった。
使われる用語が難解で、中年の衰えた脳では正確に理解できたとは言い難いのだが、簡単?に説明すると以下のようになる。
・腕は直角ほどに曲げたまま
・バックスイングは小さく(もちろん体幹のひねりをつかって)
・肩につながっている腕の骨をほんの少し回す意識で
・ボールをギリギリまで引き付けてから力を入れる
・スイングの円運動がボールに対して横方向に向かうところでインパクト(前方向への力をできるだけ加えない)
・ラケットの当てる位置は下半分
・スイングは水平気味に(バックスイングでラケットを台より下げない)
・ラケット面はあまり伏せない
・フォロースルーは小さく
以上は上半身。下半身のほうは…割愛。
細かい…。
下半身も同じぐらいの情報量があるので、よほど打法に相当興味のある人でなければ、頭の中でイメージしようとは思わないのではないだろうか。
私はこれが「感覚」の正体だと思った。
冒頭の年配の女性がこれらのチェックポイントをすべて満たして打った場合、おそらく私の感覚とかなり近い感覚でドライブが打てるに違いない。「感覚」というものは、言葉で説明すると細かすぎてかえって混乱してしまうことをあえて説明しないで学習者の主体的な気づきに委ねることだと思うのである。
「どうすれば人間関係がよくなりますか?」
「相手に対する『愛』を持つことだ。」
というときの「愛」に似ている。人間関係をよくするためのルールを挙げればキリがない。言葉遣いに気をつけるとか、いつも笑顔で接するとか、約束や時間を守るとか、相手をむやみに否定しないとか…。そういうものをルール化しようとすれば、膨大な情報量になるので、あえて説明せずに「愛」とだけ言って、具体的なことは自分自身で探させるわけである。同様にドライブを打つにはどうすればいいかという初心者の問いに対しては言葉で細かく説明せずに模範を示して「『感覚』を身につけなさい」と、自分自身で気づかせるような指導が行われているのかと思う。
自分で模索しながら身につけるわけだから、紆余曲折がある。人によってはなかなか正解にたどり着けないこともあるだろう。しかし、それを20ぐらいのチェックポイントを設けて指導すれば、誰でも最短距離でゴールにたどり着くことができる。長い間、卓球を休んでいて「『感覚』がない」という社会人がいる。「感覚」を取り戻すために基本練習を長期にわたって繰り返し、やっと「『感覚」を思い出してきた」となる。しかし、その20ぐらいのチェックポイントを一つ一つクリアしていけば、長期間の基本練習や「感覚」のことを考えなくても、かつてと同じようなドライブが打てるようになる。卓球の「感覚」という言葉は必要なくなる…?
バルサミコ氏の解剖学に基づく打法の考察というのは、「感覚」という概念であいまいに捉えていたものを、論理によって洗いざらい明らかにすることかなと思う(徹底的にやろうとすれば相当な情報量になる)。
同様に「調子」というあいまいな概念も、論理によって白日の下にさらされることになる。「なんか今日はフォアドライブの調子が悪いなぁ」というとき、やはり数十のチェックポイントのうちのいくつかが満たされていないためにミスが起こったということが分かる。「今日は調子が悪い」ではなく、「ポイント3,6,8が今日はうまくできない」となる。結果があれば、当然、原因がある。不思議なことは何もない…。
そういえば東京に行ったとき、ジブリ美術館に行けばよかった
ただ、文系の私としては、もし卓球の打法の全てが解剖学的に記述され尽くしてしまうとしたら…一抹の寂しさを覚えるのである(単なる感傷であり、もちろん、氏の姿勢に批判的なわけではない)。
コメント
コメント一覧 (6)
といっても、ゆっくり教える時は感覚も交えて、一番教えたいところは条件付け、今度教えたいけどサラッと覚えて欲しいところは感覚を教えてごまかすようしています。
いくら条件づけたところで、それを常に頭に思い浮かべることは不可能ですから、一度言語で詳しく勉強して頭に体に叩き込んだら後は感覚的にわかればそれでいいと思います。理由が明らかで正しいと自信が持てる感覚ばかりであるなら、それは感覚的でありながら理論的です。ですから、曖昧な感覚を叩き潰した後には必ずクリアな感覚が生まれるものです。なかなかにシニカルですよね 笑
我々は理系ではありますが、患者とのコミュニケーションは究極的には言語の言い換え、至極文系です。解剖学用語も最終的には難しい言葉も簡単な言葉に言い換えて(例:血液ドロドロみたいな)打法を考察出来ればいいのですが、、解剖学用語は流石に無理でしたね、、
記事にして頂きありがとうございます。
私も こする感覚ができずミート打ちです。ボールを引きつけることができずラケットでボールをあてに行き前に飛ばしてしまいます。 引きつけて前に飛ばさないと思っていてもボールが来ると打ってしまいます。
コメントありがとうございます。
断りなく取り上げてしまい失礼しました。
実際のご指導ではもっと感覚的なものを織り交ぜるとのこと、とてもわかりやすそうです。言語的な説明を通って最終的には言語的な説明を忘れるというのは理想的ですね。
また訳のわからない文章を書いてしまいましたが、バルサミコさんの指導理論は他の方のアプローチとは違うなぁと感じて、それをなんとか表現してみようと思った次第です。多くの指導理論が経験から来る直観的なものなのに対し、バルサミコさんの場合は理詰めで、ポパーのいう反証可能性を有しているため、他者による補完も可能です。こういう流れが卓球指導において主流になれば、医学の世界でDNAや脳の仕組みが解明されつつあるようにいつかは打法の仕組みも全てが明らかにされるのではないかと思いました。もちろんそうなれば指導者も学習者もありがたいわけなのですが、なんというか、不安になってしまったんです。DNAの研究が進んで、生まれたときに寿命もある程度分かってしまうというニュースを聞いたことがありますが、それに近い不安かもしれません。脳の研究が進んだら、心の仕組みも解明されてしまうのでしょうか…。我ながら意味不明です。
今後ともどうぞよろしくおねがいします。
コメントありがとうございます。
私は指導者ではないので、よくわかりませんが、部活非経験者の女性の卓球を見ていると、低くて速いボールをミート打ちでバチバチ打ち合う人がけっこういます。あんなに速かったら、自分の打法を省みる余裕もないのではないかと、よけいな心配をしてしまいます。本人がそれで楽しければ、何も言いませんが、その人がもっと上達したいと思っているなら、「腕の力を一切入れず、ボールは高く、ゆっくり、やさしく、大きなフォームで打ったほうがいい」とアドバイスするかもしれません。ボールがラケットに当たってから振るような意識でゆっくりした山なりのボールでラリーを続けたら、ドライブの感覚も身につくのではないかと思います。
相手が パンパン打ってくるとこちらもパンパンと早打ちになってしまいます。
こういう練習に付き合ってくれる人を選ばないと摩擦のもとてす。価値観の違う人に何を言ってもむだです。