前記事「必要にして十分」を読み返してみて、「そういえば、同じような主張を以前したかもしれない」と思い、過去の記事を探してみたのだが、見つからない。「下書き」を探しみたら、やっぱり以前、同じような記事を書いたのだが、結論が出なかったので、そのままお蔵入りにしていたのだった。このままお蔵入りにしてしまうのも惜しいので、「必要にして十分」と主張が重なるが、公開しておこうと思う。

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京都市のパンの消費量は日本一だということである。
プチメック

言われてみれば、京都には有名なパン屋があちこちにある。私の周りにもパンが好きで、新しい店ができるたびに、わざわざバス代を使ってまで食べに行くなんて人もいる(一人ではない。複数である)。

その中の一人、中年女性のDさんは細身で運動などには縁のない方で、2階への移動にもエレベーターを使うほど体力のない人なのに、職場から歩いて15分ほどの距離に有名なパン屋ができたと知るや、徒歩15分の労力をいとわず、早速仕事帰りにパンを買いに行ってきた。

「あそこの店のクロワッサン、めちゃおいしかった~」

翌日こんなことを嬉々として話してくれるのだが、私には理解できない。行列のできるパン屋かしらないが、なぜ運動嫌いのDさんが歩いていったのか。その有名なパン屋の食パン(一般的な神戸屋の食パンの倍以上した)というのをおすそわけにもらったのだが、たしかにおいしかった。しかし、私はDさんに問いたい、「どうしてそこまでして、おいしいものが食べたいのか」と。価格や量などが全く同じ条件で、おいしさ70点とおいしさ90点のものがあれば、私だって後者を選ぶ。しかしDさんが買ってきたパンはふつうのパンよりもはるかに高く、量は少ないのである。また、コンビニのパンがまずくて食べるのに難儀するというのなら、理解できないこともないが、コンビニのパンだってふつうにおいしいではないか。しかしDさんは「ふつうにおいしい」の上の「とてもおいしい」の上の「かなりおいしい」ぐらいでないと満足できない性質らしい。

「栄養があるから」

という理由なら納得できる。最近、身体の調子が悪いので、栄養のあるパンを食べると、調子がよくなるといのなら、私も毎日食べたいものだ。

「コストパフォーマンスに優れているから」
という理由も納得できる。昼ごはんに500~600円ほどのコンビニ弁当を食べるよりも、100円なり200円なり安いのならば、一か月ほどで、ラバーの1枚でも買える節約になるからだ。

「どうしてそこまでしておいしいパンを食べたいんですか?」
Dさんにそんな失礼な質問はとてもできないが、返ってくる答えはなんとなく見当がつく。

「おいしいからに決まってるじゃない! おいしいものを食べたいというのに何か理由が要るわけ?」

しかし、おいしいパンを食べるためにお金と手間をかけて、その対価が一瞬の快感というのではむなしいではないか。その快楽のために費やしたものを他のことに向けることができれば、もっと人生を豊かにしてくれるもの(たとえば卓球とか)との出会いもあったかもしれないのに…。

しかし、Dさんに言わせれば、ただボールを打ちあっているだけの卓球に入れ込んでいる私のほうがもっとむなしいのだろう。蓼食う虫も好き好き。結局はそういうことだというのは私だって分かっている。分かってはいるが、不可解である。

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絶好の打点で全力でドライブを決めた時の爽快感は何物にも代えがたい。

しかし考えてみると、なぜわれわれ卓球人はボールに威力を出すことにあれほどまでに心血を注ぐのだろうか。

われわれはともすると、「なぜ」という論理的な問いを後回しにして、「どうやって」という手続き的な問いを優先してしまいがちである。

高いラケットに高いラバーをあれこれ合わせてみて、ボールの威力の出る組合せを探ったり、接着剤の厚塗りをしてみたり、ラケットの側面にサイドバランサー(パワーテープ)を貼ってみたり、身体全体を使って力強く打球してみたり、はたまた筋トレなどをしてみたり。これらはいずれも「どうやって威力を出すか」という問いを追求した結果なのである。

Dさんに言わせれば、「草卓球レベルでそこまでして速くて重いボールを打つ必要なんてあるわけ?」となるだろう。

なにを言っているんだ。たとえ愛好家レベルの卓球においても威力のあるボールは絶対に必要である。これが打てなければこちらのドライブ等を相手に簡単に止められてしまい、勝てる試合も勝てなくなってしまうし、なんといっても打っていて爽快なのだから。

「私だって同じ条件で70点のボールと90点のボールが打てるなら、もちろん90点のボールのほうがいいと思うけど、90点のボールを打つためにミスが3割増えたり、打った後に体勢が崩れるんだったら、70点のボールでミスなく次のボールに素早く対応できた方がいいんじゃない?」

Dさんならそんなことを言いそうである。
もしかしたら、高い用具を買い、ミスが増える危険を冒し、体勢を崩しながらも、(私の出せる最大限の)90点の威力のあるボールを打つ必要なんてあるのだろうか。私が威力のあるボールを求めるのは結局のところ「打っていて爽快」という一瞬の快楽のためなのだろうか。

むしろ、積極的に威力を出さない卓球のほうが勝ちやすいのではないだろうか。

威力と早さと安定性を高いレベルで実現できている人なら、あえて威力を殺すような卓球をする必要はないが、私の場合は威力を求めることによって他のいろいろなことを犠牲にしてしまうのである。それならとりあえず威力を捨て、安定性と早い卓球を志向し、それができるようになってから威力を求めればいいのではないか。一度威力を全く考えない卓球というものを実践してみたらどうなるのだろうか。