先日、「卓球以外のことも考えてみたほうがいい」と言われ(前記事「ボールを当てる位置」)、たまには読書でもしようと図書館を訪れた。
といっても、足は自然とスポーツ関連図書の書棚へ。
あいにく卓球書の新しいのは見当たらない。卓球書でないなら、かさばる本は読みたくない。持ち運びに便利な新書か文庫がいい。新書本で何か卓球関係の本、いや、他のスポーツ関連の本でもあるかと思って探してみたのだが、「これだ!」というものは見つからなかった。
しかたがない。たまには卓球に関係のない読書でもしてみようか。
昨今の新書本は本当に多彩で、あらゆるテーマを網羅しており、知的好奇心をいくらでも満たしてくれそうである。若いころは私もこういう本に興奮したりしたのである(前記事「「用具愛」からの解放」)。しかし、年を取ると、新しい知識を得たいという意欲に乏しくなる。新書本の棚を見ても手に取ろうという気にさせる本がない。東京の繁華街を歩いていて、人の多さに酔ってしまうということがあるが、それと同じようにびっしり並んだ本の背表紙を見ているだけで、本に酔ってしまいそうである。
文庫本の棚を見て、ちょっと気になる本を見つけた。
山田美妙の『いちご姫・蝴蝶』(岩波文庫)である。
山田美妙は、名前は言文一致との関連でよく聞くが、作品は読んだことがなかった。若いころ、読んでみようと思ったこともあったのだが、文庫本では読めず、全集などにあたらなければならなかったので、めんどくさくてあきらめた覚えがある。しかし最近は岩波文庫で手軽に読めるのである。
この1冊だけ借りて、早速冒頭に収録されている「武蔵野」という短編を読んでみる(なお、あとで気づいたのだが、青空文庫でも手軽に読むことができた)。
南北朝時代を題材にした坂東武者の話で、何てことのないストーリーの話なので、若い人には楽しめないかもしれないが、中年が読むと、その当時の価値観や表現が偲ばれて興味深く読むことができる(前記事「卓霊さま」)。長さ的にも手軽に読めるので、いい読書をしたという満足感を覚えた。
そこに登場する秩父と世良田という親子の武者は南朝に志があり、新田義興の陣に加わろうと武蔵野を縦断し、鎌倉へ参じるというのが前半のストーリーである。スタート地点がどこなのかはっきりしないが、近めに見積もって、今の千代田区あたりから鎌倉まで徒歩で向かうというのは、現代の私には信じがたい難業に思える。約70キロの距離である。手ぶらで70キロ歩くというのなら、私でもなんとか歩けそうだが、鎧具足に身を固め、弓矢を背負い、太刀を佩き、さらに食料や水、その他の日用品などを携帯しながら歩くとなると、いったいどのぐらいの重さになるのか。ネットで調べてみると、鎧だけでも2~30キロはあったという。
さらに舞台は戦乱の世なので、あちこちに伏兵が潜んでいる。道路も貧弱だっただろうが、あえて人の歩かぬ道なき道を行かなければならない。
このごろのならいとてこの二人が
その苦労はいかばかりだったか。が、当時の人にはこの程度のことはちょっと骨は折れるが、日常の延長にあったことなのかもしれない。
当時の武者の生活に思いをはせると、
重装備で一日に何キロも歩かねばならず、ときには山道を歩いたり、ときには全力疾走をしなければならなかっただろう。そんな日常を送っていると、ほんのわずかな身体の使い方の差が生死を分けることもあったに違いない。歩くときもただ足で歩くのではなく、上半身をうまく使えば疲労が少ないとか、刀を抜くときの肘や肩の使い方とか、そういう身体の効率的な使い方――「技」を豊富な経験から学び、それらが軍内で共有され、年長者から年少者へと伝えられていく。命がかかっているのだから、その習得には真剣にならざるをえない。
最近、古武術の卓球への応用が注目を集めているが、古武術の「技」というのは、あるいはこういうところに起源があるのかもしれない。
こう考えてみると、近代以前の社会では当たり前だった身体の使い方が、現代の私たちには失われてしまっているという気がしてならない。最近の都会の小学生はスキップができない子も珍しくないという話を聞いたことがある。これは極端な例にしても、重い荷物をもって長時間歩いたり、走ったりという経験が少なくなった現代は効率的な身体の使い方の伝統も途絶えてしまっているのではないか。私の亡くなった祖母は信州の山間の生まれで、戦前の話だが、ふもとの工場に通勤するために朝、薄暗い時間に出発して、数時間かけて山道(というか、半分、獣道)を歩いたのだという。毎日、朝晩にハードなトレーニングをするようなものである。こんなことを数年も続けていれば、いやでも疲れにくい、効率のいい動き方が身につこうというものだ。そういう経験の豊富な古老と山歩きでもしてみたら、多くの発見があるのではないかと思う。
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