「文は人なり」

という言葉がある。
文章を読めば、書いた人の考え方や性格が分かるという意味である。
フランスの数学者・博物学者ビュフォンの言葉なのだという。辞書では次のように説明されている。

文章を見れば書き手の人となりがわかる。
[補説]フランスの博物学者ビュフォンの言葉から。(『デジタル大辞泉』より)

直感的に「怪しい」と感じた。前後の文脈が全くなく、意味もぼんやりしている。フランスのバリバリの理系の学者がこんな文学者のようなことを言うものだろうか。
ネットで調べて見ると、案の定、上の辞書の定義は原文のビュフォンの演説からかなり飛躍した通俗的な理解だということが分かった(「文体というわかりそうで…」)。

他のページでも同じようなことを述べている。

文章のすぐれた著作だけが後世に残ることでしょう。知識の量や事実の特異さ、発見の新しささえ不滅を保証いたしません。これらの要素はそなえていても、些細な物事ばかりを対象とし、趣味も気品も天才もない文章で書かれていれば、やがて著作は滅びます。なぜなら知識や事実や発見は、簡単に取り除かれ、運び去られ、もっと巧みな手で活用されて価値を増しさえするからです。これらは人間外のものですが、文体は人間そのものです。(And your bird can sing

この太字部分が「文は人なり」のフランス語原文の翻訳ということなのだが、演説全体の翻訳はネット上では見つからなかった。この翻訳は申し訳ないが、下手だと言わざるをえない(学術的翻訳はあえて逐語訳にするという方針なのかもしれないが)。この文章を読んでも、意味が頭にスッと入ってこない。分かるような、分からないような、もどかしい気分になる。

知識とか事実とか新発見とかは、容易に整理し、変形し、たくみな手腕で、作品にまとめることが出来る。それらが人間の外にあるからだ。しかし文体は人間そのものである le style est l'homme même.、だから文体は、持ち上げ、運び、変質させることは出来ない。(『現代小説作法』)

こちらの大岡昇平の翻訳のほうが分かりやすい(こちらも大岡の原文に当たっていない孫引きなのはご容赦いただきたい)

ビュフォンの言ったことは「文章を見ればその人の人柄が分かる」という世間一般で行われている解釈ではなく、学術論文において、事実や真理はそれだけを切り取って利用することもできるが、文章の個性やセンスというものは書いた人から切り離すことはできないということである。おそらくビュフォンの言いたいことは、「だから自分の書いた論文が忘れられないようにするために、論文に新発見を記すだけでなく、文章も磨きましょう」という主張につながると思われる。我々が一般的に使っている「文は人なり」という言葉はどうやら高山樗牛が広めた理解らしい。

それはそうと、ビュフォン的な意味での「文は人なり」を卓球で考えるとどうなるだろうか。
チキータという技術は開発者(あるいは普及者)とされるコルベルから切り離して「整理し、変形」され、進化を続けている。チキータという技術はみんな知っているし、よく目にする技術になってしまったので、今やコルベルの個性とは言えないだろう。このように個々の技術というものは「人間の外」にあるので、簡単に盗まれてしまう。プレイヤーから切り離せないものがそのプレイヤーの本当の個性と言える。

私たち一般レベルの卓球でも、やはり個性のある卓球をする人というのはかっこいいと思う。私もできることなら卓球で自分の個性を表現したい。だが卓球において他の人がまねのできない個性というと、どのようなものかよく分からない。

よく言われるのがワルドナーのプレーは個性的でマネができないという意見である。ワルドナーの卓球を見て、卓球の個性がどういうものなのか考察してみたいと思う。

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卓球 天才ワルドナー


1999 WTTC (45th) MS-QF: Jan-Ove WALDNER Vs KONG Linghui


The Greatest Grand Slam Champion-Jan Ove Waldner

なるほど。たとえビデオの画質が悪く、顔が判別できなかったとしても、ワルドナーがプレーしていたら、それと分かる気がする。ふつうのプレイヤーとはかなり違ったスタイルに見える。上の動画で見たワルドナーの印象を思いつくままに挙げてみると、

・いつも力が抜けており、ガツガツしていない。自分から先手を取るのではなく、先に相手に打たせてから反撃するようなポイントが多い。
・緩急がある。打点を落としてゆっくりしたやわらかいショットを打った後に早い打点で鋭いショットを放つ。
・台上が多彩。
・ミスが少ない(リスキーなショットを打たない)。
・ブロックが固い。
・コース取りが厳しい(ボールコントロールがうまい)。
・サービスエースが多い。

といったところだろうか。

ウィキペディアによると

「ワルドナータイム」と呼ばれる的確でゆったりとしたワルドナーのプレーは、しばしば「天才的」と評される。

らしい。

おそらく上に挙げたワルドナーの特徴は体系をなしており、切り離せないものである。
柔らかいタッチが得意だからこそミスが少なく、相手に先に打たせても確実にブロックできるのは、その前のボールで相手に全力で打たせない場所にボールを送っているからであり、それを多彩な台上技術が支えており、厳しいコース取りや逆モーションなどで相手を崩しているため、相手の連続攻撃を防ぎ、次にこちらが攻撃に転じることができるのだろう。その前提として相手の位置や姿勢を細かく確かめながら打球しているのではないかと想像される。

これだけいくつも特徴が挙げられるというのはたしかに天才なのかもしれない。

ワルドナーはどのようにしてこのプレースタイルを獲得したのだろうか。
生い立ちに秘密があるに違いない。『卓球王国』で公開されている『ワルドナー伝説』を読むと、子供のころから「きかん坊」で、試合で負けて泣くことが多かったという。また、みんな一緒に規則正しく練習をするのが嫌いで、コーチの指示に従わず、ゲーム練習や遊びっぽい卓球(逆手卓球とか)を好んだのだという。やはり天才は子供のころから人と違っているようだ。このようなワルドナーの人間的な個性がワルドナーの卓球の個性を形成したと言えるだろう。

あれ?なんだかおかしな方向になってきたぞ。

「文は人なり」は本来「文章の個性は盗まれない」という意味で、「文章を見れば人柄が分かる」というのは通俗的な意味だった。それで「卓球は人なり」は「卓球の個性は盗まれない」という意味で理解しようしていたのだが、一周回って(?)いつの間にか「卓球を見れば人柄が分かる」という意味に近づいてきてはいないだろうか。結局、「文(卓球)は人なり」をつきつめていくと「文章(卓球)から人柄が分かる」という意味になるということなのだろうか。なんだか訳がわからなくなってきた。

ここまでがんばって書いてきたのだが、この先、文章がグダグダになるのが目に見えているので、今回はこのへんで終わりにしたい。この文章から私の人となりが見透かされそうで心配である。

上の語釈が、私がたどってきたような流れを見越して書かれたものだとしたら…『大辞泉』畏るべし。