いわゆる啓蒙思想は、宗教を「迷蒙」とみなし、それを「啓(ひら)いて」理性の光のなかに真理を「明らか」にすることを理想に掲げた。ヨーロッパは、自らの基礎であったキリスト教から自らをどれだけ解放できるか、その壮大な実験を十八世紀に行ったと言える。自然は、神の力が眼前に働いている現場でもなく、また神の手で、創造の最初に何から何まで計画に従ってしつらえられ、それ以降その計画通りに働いてきた神の作品でもなくなった。
【中略】
このような、すべての基盤と根拠を人間に置こうとする立場、神のような超越に由来するものをとりあえずいっさい否定し、すべてを人間から出発させるという立場、これが十八世紀ヨーロッパが立脚しようとしたものであり、われわれはそれを「近代ヒューマニズム」と名づけることができる。
村上陽一郎「科学技術と比較文明」


前記事「黎明期から…」で腰を使った打法で安定性が高まったと述べたが、腕を意識的に使わないようにして、腰に力を入れて打つという打法から、初動は腰を回し、打球時には腰の力に前腕の力を加えるとさらに威力が増すことが分かった。そしてバックハンドの場合は前腕ではなく肩に力を入れて、肩を回すように打つという打ち方も効果的に思えた。

アルフィーニ夫妻
油絵の創始者とされるヤン・ファン・エイクの作品(15世紀)

さらに下回転を打つときは、頂点前の打点と頂点後の打点でずいぶんドライブの質が変わることも分かった。頂点前なら速く鋭いドライブが打て、頂点後ならしっかりと回転のかかったドライブが打てる。

「打点」

中学生の頃はこの要素を考えずに感覚的に適当な打点でドライブを打っていたのだ。上手な人がどんなボールでもミスなくドライブできるのは、決して偶然ではなく、球質に応じた打点でドライブを打っていたからなのだと、そのときに初めて理解した。

これで私のドライブが安定するかと思ったが、そう単純ではなかった。実戦では打ちやすい下回転ではなく、深くて速い下回転のボールがくると、どうしてもミスしてしまう。どうして深い下回転はミスするのか。おそらくボールと身体との距離が近すぎて、力のこもったスイングができないのだという結論に達した。そこで、深いボールが来た時にはやや下がって身体との十分な距離を確保し、さらにボールが頂点を過ぎ、落ちてきた打点で上方向に擦り上げるというドライブで安定性が向上することが分かった。ボールとの距離という要素を考慮にいれることによって多くのミスが防げることがわかった。そして十分な距離を確保するためには細かいフットワークによる適切なポジショニングの必要性を痛感した。

「ポジショニング」

ボールがこちらのコートでバウンドしてからポジショニングをしても遅い。相手が打った瞬間、あるいは打つ直前にポジショニングをスタートさせなければならない。そのためには相手がボールを打った瞬間、どういう軌道を描いてどの辺りに落ちるかを瞬時に予測しなければならない。

さらにスイングの方向やブレードのどの辺にボールを当てるか、ボールの球面のどこを触るかによっても安定性が変わってくると気づくようになった。ペンホルダーの場合はグリップにもプレーが大きく左右され、シェークに比べて面が真正面を向きにくい(特に裏面)ことから、体の向き等で調整しなければ安定したボールが打てないことも分かった。

「向き」

この、ボールを打つときの身体の向きというのが安定性を大きく左右すると思っている。シェークなら真正面を向いてまっすぐにボールを打ちやすいのかもしれないが、ペンホルダーでは少し斜めを向かないと前にボールを打ちにくい。というのは、ペンホルダーで真正面を向いてボールを打つと、ボールの右側(フォアハンド時)を触りやすいからなのだ。向きとボールの接触面とは不可分の問題である。たとえば下回転をドライブしようとして引っかからず、ボールが落ちてしまうのは、向きの調整で解決できる場合が少なくない。

バッコスとアリアドネ
ルネサンス期の最後を飾る画家ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」(16世紀)

私の卓球の「ルネサンス」以前は非常に少ない要素で卓球を考えていた。ブレードの角度やフォーム、その日の打球感覚、相手との相性などで安定性が決まるものだと思っていた。上手な人は理想的なフォームで、機械のように正確な角度調整とタッチを持っているから上手なのだと思っていた。しかし、実際はそうではなかった。打球の安定性には数多くの要素を整える必要があり、それらすべてを適切に整えることによってどんなボールでも安定して返球できるということが分かってきた。卓球のミスにはすべて原因がある…こんな当たり前のことに中年になってようやく気づいたのだった。そのミスに理性の光を当てることによって原因が浮かび上がってくる。あれこれ試行錯誤して原因を特定し、それを上手な人はどうやって回避しているのか。そんなことを考えながら練習するのが楽しくてたまらない。

フラゴナール
フラゴナール「ぶらんこ」(18世紀)

これが私の卓球の「近代」である。

「打点」「ポジショニング」「向き」という要素を挙げてみたが、安定性を向上させるには、私がまだ気づいていない多くの要素を整える必要があるだろう。そして以上をまとめると、打球には「準備」がセットにならなければならないということである。

初心者は目の前に来たボールを何の準備もなしに思い切り打ってミスをする。私が中学生のころも同じだった。目の前のボールを反射的に強打していた。しかし、打つ前には必ず準備が必要だったのだ。ミドル深くにボールが来たら、まずポジショニングをして詰まらない位置まで移動し、ボールのどの辺に触るかによって向きを変え、次に体重を右足にかけ、適切な打点を狙って腰を使ってフォアドライブを打つというように安定した打球をするためには打つ前に準備が必須なのである。
準備→打球、また準備→打球といったサイクルがうまく機能しているときはミスをしない。それがうまく行かず、準備なしで打球してしまうとミスをする。上手な人はどんなボールが来ても、準備ができるのだと思う。どうすれば常に準備できるのか。そういうことを現在模索中である。

ここまでをまとめてみると、個人における卓球史というのは、はじめは打球そのものや、打球した結果のほうにばかり目が行く。たとえば美しいフォームだったり、ブレードの角度だったり、スピードのあるボールだったり。それが次第に結果を生み出す準備のほうに目が行くようになる。そして適切な準備さえできれば安定した卓球ができることが分かり、どうやって準備するかを工夫するようになって、個人の卓球が大きく進歩するという発達史が一般的なのではないだろうか。