年をとり、世間のしくみが分かってくるにつれて、ふつうにあるものに対して感謝の念が湧いてくるものだ。
たとえば、気が向いたときに1時間500円ほどで利用できる卓球場。
年中無休のような感じでほぼ毎日営業している。
混雑して1時間待ちなどということはない。たいてい待ち時間なしで利用できる。
無料でボールやマシンを使わせてもらえるところもある。
こんな安価な料金では、テナント料や電気代、水道代等の必要経費などを差し引いて手元に残るもうけなどほとんどないだろう。卓球場経営は一種のボランティアのようなものに思える(前記事「卓球教室経営」)。
ありがたや。
大会運営などもそうだ。
大会の役員さんたちは自身は試合にも出ず、朝イチの台出しから全試合終了後の掃除まで一日ずっと体育館にいなければならない。それだけでなく、試合会場を確保したり、組み合わせを決めたりと、試合当日以外にもいろいろ集まらなければならず、時間をとられる。よく知らないが、給料など出ないだろう(多少の謝礼などはあるかもしれないが)。そういう人たちの割に合わない努力によって私たちは何も考えずに大会などに出場して卓球を楽しめるのだ。
ありがたや。
中高の部活の顧問の先生も大変だ。
最近、部活に対する教員の関わり方が問題になっているが、まったく手当がつかないにもかかわらず、部活に顔を出し、試合の時は休日返上で試合を見に行き、練習試合の申し込みやスケジュール調整といった煩雑な作業もこなさなければならない。そんなブラック企業顔負けの職場で先生たちは疲れ切っている。その労力に対して感謝の念を抱く生徒がどれだけいるのだろうか。少なくとも私が中学生の時は全く感謝していなかった。
ありがたや。
卓球がもし、ビデオゲームのように一人で上達できるスポーツだったらと想像してみる。ビデオゲームなら、自室にこもって一人でひたすらプレーすれば、かなりの程度まで上達することができるだろう。卓球もそのように一人で上達できるとしたら、自分のことだけ考えて、自分の時間を自分のためだけにつかって、自分の練習だけをすればいいことになる。チームメイトやパートナーが行き詰まっていようが、どれだけ下手だろうが、全く意に介さないだろう。自分だけが上手ならいいのだ。しかし、幸いにも卓球は自分ひとりでは上達できない(サービスは例外だが)。どうしてもパートナーや指導者の協力がなければ上達できないようになっている。
「エースの座は絶対に渡さん!」
「他のメンバーとの実力差がどんどんつけばいい」
などの思う一方で、ほんとうにその通りになると、部活で練習相手がいなくなり、かえって自分の首を絞めることになるのでどうしても他のメンバーの実力も引き上げなければならないのがエースである。
卓球は練習環境があるかどうか――自分と同じぐらいのレベルの選手がいて、切磋琢磨できるかどうかが上達に大きく影響すると思われる。そのようなパートナーがいることのありがたさに私たちはもっと感謝すべきである。もし自分と同レベル以上の人が一人もいなかったら、いくら練習しても、今以上の上達は望めないだろう。
しかし、実際は練習相手に感謝し、相手の上達を考えて練習している人は少ないように見受けられる。自分さえ上達すればいいという「ビデオゲーム的」な考え方である(ちなみに私はビデオゲーム悪玉論には与しない)。
たとえば、フットワーク練習で、ブロックで回す役回りのはずなのに、バックハンドで強打を打ってくる人である。相手のフットワーク練習のはずなのに、自分がバックハンドで決定打を打つ練習をしたいのだろう。そうすると、フォアで動いている方も対抗して強打を打つことになり、お互いに強打を打ち合って、ラリーがほとんど続かず、練習にならないだけでなく、気まずい雰囲気にもなってしまう。
ぐっちぃ氏のブログでそのような人が全国の中学校にたくさんいるらしいことがわかる。
ぐっちぃ氏のこの記事の主張はもっと広く浸透させるべきである。お互いが譲り合って練習すれば、いいサイクルができて、どんどん上達するのに、とにかく強打を打つ練習ばかりしたがる人がいるために、チーム全体の上達が妨げられてしまう。
中級者以下の卓球人が上達するためには一発強打の練習ではなく、ゆるいボールで延々と前後左右に動きながら一定のコースで打ち続けるシステム練習が最も効果的なのである(前記事「いつもの練習」)。
https://youtu.be/Q4kuCDp0bcA?list=PLmigB0unuYOtJzXKk3sYCg_h1Ivt_eoc0&t=27
一般的な部活ではここまで質の高いシステム練習はできないだろうが…。
バックでブロックしてもらって、こちらがドライブを打つ練習で、こちらが一発強打で気持ちよく打ち抜いてしまったら、3~5球程度でラリーが終わってしまい、フットワークの練習にならない。ボールを打っている時間よりもラリーが中断している時間のほうがはるかに長いのである。
練習相手のことをもっと考えて、ブロック役になったとき、できるだけ相手の練習になるような返球を心がければ、相手も上達し、その相手と打つ自分も上達する。そうして相乗効果でお互いにどんどん上達していくのである。
卓球は一人では上達できない。ふだん当たり前に存在するパートナーがいなければ自分の上達もないということを肝に銘じてパートナーの上達を手助けするような練習をするべきだ。それが「情けは人のためならず」で、結局は自分に返ってくるのだから。
------------------
この間の練習で台上からの展開を練習したかったので、
「ショートサーブを出すので、その後はオールでおねがいします」
という課題練習をさせてもらったのだが、相手が練習中の新しい技術を試そうと、安定しないフリックだのチキータだのをずっと打ってきて、うんざりした。この練習中の8割のポイントが「こちらのサービス」→「相手のミス」というパターンで終わってしまい、「こういう自分の練習のことしか考えない人しかいない環境で耐えている人もいるんだろうな」と想像し、つい説教じみた記事を書いてしまった。
たとえば、気が向いたときに1時間500円ほどで利用できる卓球場。
年中無休のような感じでほぼ毎日営業している。
混雑して1時間待ちなどということはない。たいてい待ち時間なしで利用できる。
無料でボールやマシンを使わせてもらえるところもある。
こんな安価な料金では、テナント料や電気代、水道代等の必要経費などを差し引いて手元に残るもうけなどほとんどないだろう。卓球場経営は一種のボランティアのようなものに思える(前記事「卓球教室経営」)。
ありがたや。
大会運営などもそうだ。
大会の役員さんたちは自身は試合にも出ず、朝イチの台出しから全試合終了後の掃除まで一日ずっと体育館にいなければならない。それだけでなく、試合会場を確保したり、組み合わせを決めたりと、試合当日以外にもいろいろ集まらなければならず、時間をとられる。よく知らないが、給料など出ないだろう(多少の謝礼などはあるかもしれないが)。そういう人たちの割に合わない努力によって私たちは何も考えずに大会などに出場して卓球を楽しめるのだ。
ありがたや。
中高の部活の顧問の先生も大変だ。
最近、部活に対する教員の関わり方が問題になっているが、まったく手当がつかないにもかかわらず、部活に顔を出し、試合の時は休日返上で試合を見に行き、練習試合の申し込みやスケジュール調整といった煩雑な作業もこなさなければならない。そんなブラック企業顔負けの職場で先生たちは疲れ切っている。その労力に対して感謝の念を抱く生徒がどれだけいるのだろうか。少なくとも私が中学生の時は全く感謝していなかった。
ありがたや。
卓球がもし、ビデオゲームのように一人で上達できるスポーツだったらと想像してみる。ビデオゲームなら、自室にこもって一人でひたすらプレーすれば、かなりの程度まで上達することができるだろう。卓球もそのように一人で上達できるとしたら、自分のことだけ考えて、自分の時間を自分のためだけにつかって、自分の練習だけをすればいいことになる。チームメイトやパートナーが行き詰まっていようが、どれだけ下手だろうが、全く意に介さないだろう。自分だけが上手ならいいのだ。しかし、幸いにも卓球は自分ひとりでは上達できない(サービスは例外だが)。どうしてもパートナーや指導者の協力がなければ上達できないようになっている。
「エースの座は絶対に渡さん!」
「他のメンバーとの実力差がどんどんつけばいい」
などの思う一方で、ほんとうにその通りになると、部活で練習相手がいなくなり、かえって自分の首を絞めることになるのでどうしても他のメンバーの実力も引き上げなければならないのがエースである。
卓球は練習環境があるかどうか――自分と同じぐらいのレベルの選手がいて、切磋琢磨できるかどうかが上達に大きく影響すると思われる。そのようなパートナーがいることのありがたさに私たちはもっと感謝すべきである。もし自分と同レベル以上の人が一人もいなかったら、いくら練習しても、今以上の上達は望めないだろう。
しかし、実際は練習相手に感謝し、相手の上達を考えて練習している人は少ないように見受けられる。自分さえ上達すればいいという「ビデオゲーム的」な考え方である(ちなみに私はビデオゲーム悪玉論には与しない)。
たとえば、フットワーク練習で、ブロックで回す役回りのはずなのに、バックハンドで強打を打ってくる人である。相手のフットワーク練習のはずなのに、自分がバックハンドで決定打を打つ練習をしたいのだろう。そうすると、フォアで動いている方も対抗して強打を打つことになり、お互いに強打を打ち合って、ラリーがほとんど続かず、練習にならないだけでなく、気まずい雰囲気にもなってしまう。
ぐっちぃ氏のブログでそのような人が全国の中学校にたくさんいるらしいことがわかる。
フットワーク練習しようとしても片方のブロックで回す側がバック強打で振り回したりどっちが打ってるのかわからない状態で一発の打ち合い同士になりシステム練習のラリーにならない状態・・・
ぐっちぃ氏のこの記事の主張はもっと広く浸透させるべきである。お互いが譲り合って練習すれば、いいサイクルができて、どんどん上達するのに、とにかく強打を打つ練習ばかりしたがる人がいるために、チーム全体の上達が妨げられてしまう。
中級者以下の卓球人が上達するためには一発強打の練習ではなく、ゆるいボールで延々と前後左右に動きながら一定のコースで打ち続けるシステム練習が最も効果的なのである(前記事「いつもの練習」)。
https://youtu.be/Q4kuCDp0bcA?list=PLmigB0unuYOtJzXKk3sYCg_h1Ivt_eoc0&t=27
一般的な部活ではここまで質の高いシステム練習はできないだろうが…。
バックでブロックしてもらって、こちらがドライブを打つ練習で、こちらが一発強打で気持ちよく打ち抜いてしまったら、3~5球程度でラリーが終わってしまい、フットワークの練習にならない。ボールを打っている時間よりもラリーが中断している時間のほうがはるかに長いのである。
練習相手のことをもっと考えて、ブロック役になったとき、できるだけ相手の練習になるような返球を心がければ、相手も上達し、その相手と打つ自分も上達する。そうして相乗効果でお互いにどんどん上達していくのである。
卓球は一人では上達できない。ふだん当たり前に存在するパートナーがいなければ自分の上達もないということを肝に銘じてパートナーの上達を手助けするような練習をするべきだ。それが「情けは人のためならず」で、結局は自分に返ってくるのだから。
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この間の練習で台上からの展開を練習したかったので、
「ショートサーブを出すので、その後はオールでおねがいします」
という課題練習をさせてもらったのだが、相手が練習中の新しい技術を試そうと、安定しないフリックだのチキータだのをずっと打ってきて、うんざりした。この練習中の8割のポイントが「こちらのサービス」→「相手のミス」というパターンで終わってしまい、「こういう自分の練習のことしか考えない人しかいない環境で耐えている人もいるんだろうな」と想像し、つい説教じみた記事を書いてしまった。
コメント
コメント一覧 (6)
社会人チームは、「週の半分ほど練習できる人」や「週に一度しか練習できない人」が混在します。しかも、仕事終わりで途中参加する人も珍しくありません。
僕なんかは練習が少なく、練習はじめの乱打(フォア打ちなど)はフォームの確認からはじめたいのですが、いきなり相手にガンガン打たれるとちょっと困ってしまいますね。
少し慣れるまで、相手には上手い具合に「加減球」を打って欲しいのですが、実力が下の人間からはの要求というのは、なかなか難しいものです。
野球の話になってしまいますが…プロでさえキャンプイン直後はバッティングピッチャーの緩い球を打ってフォームをつくるのになあ…なんて思ってしまいます。
加えて、ラケット、ボールなど用具を大事にする。練習場の整理整頓等、卓球に付随する事柄には常に謙虚さと感謝の念を持ちたいものです。
もし、20代の頃の自分にタイムスリップしたら私はその自分を説教してますね。きっと。
我々は趣味で卓球をやっているに過ぎないので
相手のことを思いやった練習をしないとダメですよね
しかし相手の練習でも自分勝手な練習ができるような
図太い性格の持ち主がきっと上位の選手になれるんだと思います
しろのさんの意見は正しいと思ってますので誤解はしないでください
コメントありがとうございます。
練習時間の少ない人にとってフォームの確認は大切ですよね。
私のまわりの上手な人は格下の人に合わせてくれる人がほとんどですが、いきなりガンガン打たれるというのは、お気の毒ですね。思いやりのある練習相手にめぐりあえるといいですね。
コメントありがとうございます。
私も若い頃にもっとしつけができていればと思うことが多いです。
礼儀とか道徳とか、そういうものを若い頃に持ちあわせていなかったばかりに多くのすばらしい出会いを逃してしまったように思います。
子供や若い人にはうるさい説教に聞こえるでしょうが、当たり前のことを当たり前にきちっとできることこそが幸運を呼び込むことを伝えたいです。
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、他の人を蹴落とすぐらいのエゴイズムがある人はたしかにのし上がっていきますね。しかし、本当の上位に行く人はそうでないタイプの人も多いような気がします。神巧也選手などは、人格的にもすばらしい人だと感じます。直接会ったことはないので、推量に過ぎませんが。