地域の社会人のクラブに来ている初心者の女性がフォア打ちが安定しないということなので、私がいろいろアドバイスをすることになった。初心者だし、フォア打ちだし、私でも直せるだろうと高をくくっていたのだ。

「棒立ちだから、やや前傾したほうがいいですよ」
「スタンスが狭すぎます」
「もう少し脇を閉めて」
「ラケットが下から出すぎています。もっとスイングをコンパクトにしてバックスイングを引かないで」
「肘と手首を使いすぎています。そこは動かさずに胃袋のあたりに力を入れて、胃袋で振って下さい」
「打球点が遅いです。バウンド後はボールを見ないで。バウンドする点にラケットをぶつけるタイミングで。」
「こすりすぎです。もう少し当てを強く」

思いつく限りのアドバイスを頭から足先に至るまで細かくやってみたのだが、女性はかえってフォームがおかしくなってしまい、明らかに以前よりもフォア打ちが不安定になってしまっていた。

結局

「すみません…。今までのアドバイスはすべて忘れてください。1点だけ。打球点が遅いので、そこにだけ気を付けたほうがいいですよ。」

面目ない…えらそうに指導なんか買って出たくせに、それが逆効果だったなんてみっともなすぎる。たとえはるかに格下の相手であっても、指導するというのは難しいものなんだなぁと思い知らされた。

私はそれからどうして自分の指導がうまくいかなかったのかを反省してみた。…そして私は学習者の考える余地を完全に奪ってしまっていたというのが最大の原因だったと結論した。

私が与えたアドバイスの中にはいくつか当を得ているものもあったに違いない。しかし、私がいろいろ言いすぎるものだから、彼女は自発的に考えたり、試したりすることをやめてしまい(いわゆる思考停止)、すべて指導者の言いなりになってしまったのだ。諸々のアドバイスの中には矛盾するものも含まれており、それらが互いに邪魔をして打ち方がおかしくなったのではないかと見当を付けている。

『卓球レポート』でフィギュアスケートの佐藤信夫コーチの記事を興味深く読んだ。

壁にぶち当たったのはジュニアの指導を始めてからである。
体格も性格も、モチベーションも違う子どもたちに、自分の体に染みこんだノウハウをたたき込もうとした。【中略】離れていく選手もいたし、親と対立したこともあった。「ずいぶん遠回りしました」と、本人は振り返る。
【中略】
教え子の一人である村主は「佐藤先生の凄いのは『待てる』こと」だと言う。
「キャリアのある人ほど、自分が思う正解を選手に押し付けてしまいがちです。」
答えまで教えてしまうと、その選手は人として成長できませんから
「城島充の取材ノートから」18『卓球レポート』2016-6

nobuo


最後の村主選手の「答えまで教えてしまうと、人として成長できない」という言葉が心に響いた。

壁にぶち当たったときに「正解」があると言われたら、誰でも飛びついてしまうだろう。自分でいろいろ長い間試行錯誤してまちがった答えに辿り着くよりは安全な「正解」をそのまま習ったほうがいいに決まっている。しかし、その安易さが落とし穴なのではないだろうか。

吉村真晴選手は中学時代、先生が見ていないときは「すぐロビングを上げたり、横回転を入れたり、試合で使わない『魅せる技術』ばかりやっていた」と振り返っている。そしてこの「遊び」が今の吉村選手のプレーに確実に生きていると述懐している(「私の戦型、私の個性」『卓球王国』16年7月号)。遊びの中には「どうやったらより効果的に相手をビックリさせられるか」といった要素があり、それは先生に教わるものではなく、自分でいろいろ試して探さなければならない。

これは自分の卓球にも当てはまるのではないだろうか。卓球の雑誌やネットの動画等で、「正解」は世に溢れている。しかし、これらをつぶさに調べて学んだところでそれほど自分卓球が上達したという実感はないような気がする。これらの「正解」が無意味だと言っているのではない。時機が来ていないのにあれこれ教え込んでも効率が悪い。まずは自分で試してみて、壁にぶち当たってみることが必要――「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」なのである。
私も自分でいろいろ試してみるよりも、つい「正解」に飛びついてしまうのだが、そういう知識は頭の片隅に置いておくだけにして、まずは自分でいろいろ試行錯誤してみるべきなのだ。

私が初心者を指導するときにははじめに「打球点が遅れていますよ」とだけ言えばよかったのかなと思う。彼女は問題点を指摘されて、どうやったら打球点が遅れないようになるのか自分でいろいろ試行錯誤してみることだろう。そうやって自分で問題を解決できるのなら、それに越したことはないが、おそらくそれがうまくいかないことのほうが多いだろう。そこで次に「ボールがバウンドして頂点に達してから急いでバックスイングを引いても間に合わないと思いますよ」のようにもう少しヒントを与える。この繰り返しによって学習者は自分で考えることもできるし、大きく迷わずに正しい道を歩めると思う。

先日知人にこんなエピソードを聞いた。

「大学時代に『つまらない』『眠くなる』と言ってみんなに敬遠されていた授業があったんですが、私はおもしろいと思ったんです。そこで授業の後に先生に『先生の授業はとても分かりやすくておもしろいです』とコメントしたら、先生は『学部生に分かりやすいと言われるような授業を私はするようになってしまったのか…我ながら情けない』と言っていました。」

分かりやすく明快なのが正義というこのご時世にあってなんという時代錯誤!とはじめは思ったが、村主選手の言葉を思い出すと、この先生の言い分にも一理あると感じた。分かりにくい指導というのも、しっかりした裏付けがあれば有効なのだ。