どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。
それから元気をとりもどして、とうとう目がつぶれるまで女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。
わしは何ひとつろくなことはしなかった。男ちゅう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけは皆、わしのいいなりになった。
わしにもようわからん。しかし、男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしゅうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。
そういえば、わしは女の気に入らんようなことはしなかった。女のいうとおりに、女の喜ぶようにしてやったのう。
【中略】
女っちゅうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。
卓球のラケットの使い方や足の動かし方などは目に見えるものだし、なんとか説明しようと思ったらできないことはない。しかし、打球の感覚というのは言葉ではどうしても説明しにくい。自分では打球感覚の面で大きな発見があったと感じても、それを言葉で他者に伝えるのはためらわれる。
「もしかしたら、この感覚は私だけの思い込みで、客観的にはそれほど大きな違いはないのかもしれない。」
「私にとっては新しい発見かもしれないが、多くの人はこのような感覚をすでに知っており、あえて大騒ぎするほどのことでもないのかもしれない」
こんなことをつい考えてしまい、記事にしようとしていたものを御蔵入りにしてしまうこともある。
しかし、今回あえてこの愚挙をなしてみようと思う。それほど私にとって大きな発見であり、私の卓球の安定性にもつながっているからだ。
バックスイングをボールの近づくスピードにシンクロさせて引いてみると安定する(前記事「シンクロ打法」)。速いボールには速く引き、遅いボールには遅く引く。これはボールとラケットとの距離感をどんなボールに対しても一定にするというもので、多くの人が指摘していることであり、理にかなっていると思う。
私が最近取り組んでいるのは、どんな性質のボールでも、ラバーに一定の圧力をかけて打球してみるということである。速いボールなら、ボールの中心を外し、ボールの向かってくる力を逃がすことによって、たとえばボールをスポンジに50%食い込ませる。もっと速いボールなら、ラバーをもっとボールの周縁にそっと当て、できるだけ力を逃し、やはりスポンジに50%食い込ませるようにする。逆に遅いボールなら、普通に打ってもあまりスポンジに食い込まないので、ボールの中心付近に厚く当て、やはり50%食い込ませるようにする。このように打球に応じてボールの向かってくる力を逃がしながら、常にスポンジを50%つぶすように打球する。こうすると、ボールが安定して弧線を描き、相手コートに入る。
しかし、機械でもないのに50%(感覚的なものなので、実際は80%ぐらいかもしれない)スポンジをつぶしながら打つなんてことができるのだろうか。できるとは言わないが、私はボールの気持ちを忖度することにしている。そうすると、ちょうどいい具合にスポンジがつぶれているように感じられるのだ。具体的に言うと、
「こんなに強く叩いたら、ボールも痛いだろうな。もう少しやさしく向かってくる力を逃がしてやらなければ」
といった具合である。
なんなんだ、そのポエムのような展開は!と興がさめてしまった読者もいるかもしれないが、自分が計測器具になったつもりで「50%スポンジがつぶれるように…」などと考えるよりもはるかにイメージしやすい。
ボールに人格を与えることによって、スポンジのつぶし具合だけでなく、さまざまなボールの「意向」にも目が向くようになる。
「ボールは今、前をこすられるのを嫌がっているのに、無理やり引きずりあげようというのは、ボールにしてみれば不本意なことだろう」
と、上から振り下ろすようなカットをこすりあげるのをやめて、ラケットに乗せるようにして軽く打ってみたり、
「このボールはずいぶん元気がないな、よし!ちょっと喝を入れてやろう。ただ、それでもあまり当てをきつくすると今度は逆に自暴自棄になってしまうおそれもあるな」
などといろいろボールに最大限配慮して卓球をするようになるわけである。ボールが喜ぶように打ってやろうと心がけると、不思議とボールが「言いなり」になってくれる。その中でも「スポンジ50%」は幅広いボールに効果があった。おそらくボールにとってもっとも気持ちいい当て方なのだろう。
しかし、私が喜ぶだろうと思ってやったことが、かえってボールを増長させたり、ボールに裏切られたりすることもある。それは私がボールの気持ちを見誤っていたということだ。複雑な回転がかかっている場合は、どうしても回転を見極めることができず、ポンと台の中央付近に落とさざるをえないこともある。ボールのことをもっと知らなければ。
世界中の すべての謎より 知りたい 君の心を
そういえば、E3-pingpongというサイトでカットマンの羽佳純子氏の講習会の記事を読んだことがある。
それから元気をとりもどして、とうとう目がつぶれるまで女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。
わしは何ひとつろくなことはしなかった。男ちゅう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけは皆、わしのいいなりになった。
わしにもようわからん。しかし、男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしゅうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。
そういえば、わしは女の気に入らんようなことはしなかった。女のいうとおりに、女の喜ぶようにしてやったのう。
【中略】
女っちゅうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。
「 土佐檮原の乞食」『日本残酷物語』より
卓球のラケットの使い方や足の動かし方などは目に見えるものだし、なんとか説明しようと思ったらできないことはない。しかし、打球の感覚というのは言葉ではどうしても説明しにくい。自分では打球感覚の面で大きな発見があったと感じても、それを言葉で他者に伝えるのはためらわれる。
「もしかしたら、この感覚は私だけの思い込みで、客観的にはそれほど大きな違いはないのかもしれない。」
「私にとっては新しい発見かもしれないが、多くの人はこのような感覚をすでに知っており、あえて大騒ぎするほどのことでもないのかもしれない」
こんなことをつい考えてしまい、記事にしようとしていたものを御蔵入りにしてしまうこともある。
しかし、今回あえてこの愚挙をなしてみようと思う。それほど私にとって大きな発見であり、私の卓球の安定性にもつながっているからだ。
バックスイングをボールの近づくスピードにシンクロさせて引いてみると安定する(前記事「シンクロ打法」)。速いボールには速く引き、遅いボールには遅く引く。これはボールとラケットとの距離感をどんなボールに対しても一定にするというもので、多くの人が指摘していることであり、理にかなっていると思う。
私が最近取り組んでいるのは、どんな性質のボールでも、ラバーに一定の圧力をかけて打球してみるということである。速いボールなら、ボールの中心を外し、ボールの向かってくる力を逃がすことによって、たとえばボールをスポンジに50%食い込ませる。もっと速いボールなら、ラバーをもっとボールの周縁にそっと当て、できるだけ力を逃し、やはりスポンジに50%食い込ませるようにする。逆に遅いボールなら、普通に打ってもあまりスポンジに食い込まないので、ボールの中心付近に厚く当て、やはり50%食い込ませるようにする。このように打球に応じてボールの向かってくる力を逃がしながら、常にスポンジを50%つぶすように打球する。こうすると、ボールが安定して弧線を描き、相手コートに入る。
しかし、機械でもないのに50%(感覚的なものなので、実際は80%ぐらいかもしれない)スポンジをつぶしながら打つなんてことができるのだろうか。できるとは言わないが、私はボールの気持ちを忖度することにしている。そうすると、ちょうどいい具合にスポンジがつぶれているように感じられるのだ。具体的に言うと、
「こんなに強く叩いたら、ボールも痛いだろうな。もう少しやさしく向かってくる力を逃がしてやらなければ」
といった具合である。
なんなんだ、そのポエムのような展開は!と興がさめてしまった読者もいるかもしれないが、自分が計測器具になったつもりで「50%スポンジがつぶれるように…」などと考えるよりもはるかにイメージしやすい。
ボールに人格を与えることによって、スポンジのつぶし具合だけでなく、さまざまなボールの「意向」にも目が向くようになる。
「ボールは今、前をこすられるのを嫌がっているのに、無理やり引きずりあげようというのは、ボールにしてみれば不本意なことだろう」
と、上から振り下ろすようなカットをこすりあげるのをやめて、ラケットに乗せるようにして軽く打ってみたり、
「このボールはずいぶん元気がないな、よし!ちょっと喝を入れてやろう。ただ、それでもあまり当てをきつくすると今度は逆に自暴自棄になってしまうおそれもあるな」
などといろいろボールに最大限配慮して卓球をするようになるわけである。ボールが喜ぶように打ってやろうと心がけると、不思議とボールが「言いなり」になってくれる。その中でも「スポンジ50%」は幅広いボールに効果があった。おそらくボールにとってもっとも気持ちいい当て方なのだろう。
しかし、私が喜ぶだろうと思ってやったことが、かえってボールを増長させたり、ボールに裏切られたりすることもある。それは私がボールの気持ちを見誤っていたということだ。複雑な回転がかかっている場合は、どうしても回転を見極めることができず、ポンと台の中央付近に落とさざるをえないこともある。ボールのことをもっと知らなければ。
世界中の すべての謎より 知りたい 君の心を
そういえば、E3-pingpongというサイトでカットマンの羽佳純子氏の講習会の記事を読んだことがある。
強く当てる状態を羽佳選手は「喧嘩する」という表現を使っていました。
なるほど、上手い表現です。
強く当ててしまう選手に対して、
「ボールと喧嘩してはダメ」「まだボールと喧嘩しているヨ」
と、注意していました。
私の言いたいことは、たぶんこのようなことなのだ。それが当ての厚さ・薄さだけでなく、もっと広くボールの意向に沿うべきなのだ。冒頭のエピグラフの言葉を借りれば、ボールの「気に入らんようなこと」はせず、ボールの「いうとおり」に、ボールの「喜ぶようにして」やろうということだ。そうすればボールは「ついてくる気になる」のだろう。スイングスピードがどうの、打点がどうのといった理屈ではなく、とにかくボールの「気持になって」ボールをかわいがり、いたわってやる。そうすればボールは自然に自分を「ゆるすもん」なのである。
もちろんボールだけでなく、女性も粗末にせず、いたわってあげなければならないことは言を俟たない。
【付記】
昨日、ぐっちぃ氏のブログを見たら、新体連の全国大会(於京都府立体育館)のために、なんと四条の産業会館で練習していたらしいのだ。あぁ、それを知っていたら、是が非でも駆け付けたのに…。
しかし、考えてみれば、集中して練習しているときにわけのわからんオジサンに駆けつけられても迷惑なだけか。
私は土曜にもかかわらず、仕事で応援に行けないが、WRMの上位進出を祈っている。
もちろんボールだけでなく、女性も粗末にせず、いたわってあげなければならないことは言を俟たない。
【付記】
昨日、ぐっちぃ氏のブログを見たら、新体連の全国大会(於京都府立体育館)のために、なんと四条の産業会館で練習していたらしいのだ。あぁ、それを知っていたら、是が非でも駆け付けたのに…。
しかし、考えてみれば、集中して練習しているときにわけのわからんオジサンに駆けつけられても迷惑なだけか。
私は土曜にもかかわらず、仕事で応援に行けないが、WRMの上位進出を祈っている。
コメント
コメント一覧 (6)
ボール『痛っ!もっと優しくしろ下手くそ‼』なんて声が聞こえてきそうです(笑)
そんなこと言われたら私は絶対ボールと喧嘩します(笑)
打球感覚は表現がとても難しいですね
私の最高のボールが出るときは『薄くぶち当てた時』です
擦ってるのかぶち当てたのかどっちか分かりませんね(笑)
試合ではボールより相手の気持ちが分かれば試合で非常に有利ですね
相手の気持ち>ボールの気持ち>自分のわがまま
この順位で考え私は試合をしています
いかに自分のわがままを抑えられるかが大事だと思います
コメントありがとうございます。
対戦では相手の気持ち――狙いを知りたいとは思うのですが、私のレベルでは、とりあえずミスなくボールを入れるのが精一杯で、ボールの気持ちを知ろうと思った次第です。
試合での優先順位、覚えておきます。
今回のしろの様は「そこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ」という感じでしょうか?常にテーマを考えブログを更新し続けているとそんな自分にためらってしまうような心境もでてくるのですね。まさに兼好法師の心境ですね。
さて、本題ですが数年前のことカンブリア宮殿でタマス(バタフライ)が取り上げられテナジーラバーの開発話が紹介されていました。その中でボールがラバーに当たる瞬間を超高速カメラでとらえた映像があったのですが、ボールが当るとシート裏のツブが傾くことで本当にラバーにボールが食い込む状態になり、さらに変形したシート(傾いたツブ)が復元しようとする力でボールにスピードと回転を与えるしくみになっていたのです。今まで純粋にシートの表面摩擦力だけで回転が生じていると思い込んでいた私にはラバーに込められた高度な技術に驚きを感じました。また、テナジーラバーは、シートとスポンジの構造にこだわり玉持ちをよくすることを目標に開発した高性能ラバーであることもわかりました。なので玉持ちをよくすることを心がけて打てばラバーの性能が発揮されることになります。そのためにはボールをラバーに正面衝突させて弾くのではなく擦るように当ててシート裏のツブを傾けさせボールがラバーに食い込ませる必要があるのです。だからしろの様の主張は間違っていないと思います。ただラバー開発者から見ればラバーも生き物のように大切に扱ってほしいと思うかもしれないですけどね。
コメントありがとうございます。
テナジーを扱った番組があるとのこと、観てみたかったです。
そのようなイメージが脳内にあれば、回転をかけるときに大いに役立つのではないかと思います。
今回の記事は、主観的に過ぎ、説得力に欠けますが、私の中では非常に意味のある内容だったんです。
そういえば、兼好というのは出家名で、吉田兼好とか、卜部兼好という名前は厳密には間違いらしいですね。オウコウマニアさんの仰るように兼好とか兼好法師というのが正しいということを知人が言っていました。
私はしろの様が提示してきたテーマについて自分なりに考えた意見を申しいるだけなので後出しジャンケンしているようなものです。私は未完成であってもゼロから提案する方がたいへんなことだと思います。徒然草(今でいうブログですね)の兼好法師もテーマを自分で探しながら現代にも通用する傑作エッセイ集を書き上げていたと思います。そんなすぐれたエッセイの中にも出来栄えのいい章と消化不良的な章もあるのですから、気になさらずどんどん続けていただきたいと思います。
ご返信ありがとうございます。