前回は上級者の意識と行動とのズレについて述べた。
上級者は(おそらく)意識の整理を先に済ませておいて、あとは打つだけという状態にして行動を区切る。
台上からの展開を具体例で示すと、

1「あっサービスが来た」→2「ツッツキの姿勢」 【打つ前に次のアクションを予約しておく】
3「打球」→4「ボールが飛ぶ」→5「相手の打球に備えて戻る」【戻りのことを意識しながら打球】
 
これは言い方を変えれば、

意識が行動に一歩先行している

ということではないだろうか?

どんなボールが来るか、自分のブレードの角度やどのぐらいの厚さで当てるか等を予め整理しておき、次のタスク(打球)を「予約」しておいて、自分のメタ意識は既に相手の反応や次の行動をどうするかに向けられている。打球は意識下で行う。意識上は次の相手の行動に集中している。心と体が裏腹である。これをジュディー・オングの名曲の歌詞を借りれば

「好きな男の~、腕の中でも~ 違う男の、夢をみる~ 」



ということである。

前回は台上からの展開を例にこのズレを紹介したのだが、これは上級者の他の行動にも当てはまるだろうか。
たとえば打球からフットワークへの展開である。
私たちは打球と動きの区切り方を次のように考えているのではないか。

【打球パート】
「重心を右へ(バックスイング)」→「右足で踏ん張る」→「重心を左へ(打球)」→「左足で踏ん張る」

ここまでがセットである。ここを区切りにして、たとえばフォア側へ移動しようとして

【移動パート】
「重心を右へ」→「左足を右足に寄せる」→「重心を左足に」→「左足で踏ん張りつつ右足を出す」

のようにひとまとまりの動作として捉えているのではないだろうか。

しかし、上級者においては「打球パート」の途中から意識はすでに相手の動きの観察のほうに移っているのではないだろうか。

【打球パート】
1「重心を右へ(バックスイング)」→2「右足で踏ん張る」→【ここ(打球前)で意識は相手の対応に向けられる】
3「重心を左へ(意識下で打球)」→4「左足で踏ん張る(意識下で)」


【移動パート】
【相手の打球がフォア側に来ると察して】5「重心を右へ(右足を軽く出す)」→6「左足を右足に寄せる」→【この時点で意識は自分の打球に】7「重心を左足に」→8「左足で踏ん張りつつ右足を出す」

言葉では分かりにくいが、打球の直前で区切りが来て、その後の行動は意識下で行われる。そしてメタ意識は相手の動きに集中して、次のボールがフォア側に来ると察したら、5以降のフォア側への移動パートに移る。
移動パートでもその半ばで意識はすでに次の自分の打球へと移っている。

このような打球からフットワークへの連繋だけでなく、あらゆる場面で上級者はアクションの半ばで区切りを入れ、残りのアクションを意識下で行なっているのかもしれない。

子供のときは物語の世界に没入することができたが、大人になると、完全に感情移入することは難しくなり、話の流れを追いながらも、作者がこの作品でどのようなメッセージを伝えようとしているかにも自然と意識が向いてしまう。心理学のことはよく知らないが、こういう並列的な意識の使い方(単純な運動を意識下に任せて、より複雑な認知処理に意識を集中させる)が上級者の流れるようなプレーに大きく与っている気がする。

打球するときは、打球に集中し、移動するときは移動に集中するというのでは、あらゆる運動に遅延が生じてしまう。意識と運動を切り離すのが素早いプレーに必要だというのが私の今の見解である。