昔、空に向かって銃を撃つシーンを映画か何かで見て、「あの撃った弾はどうなるのだろう?」と疑問に思っていたが、やはり落ちてきて、大けがをするらしい。そして弾丸に使用されている鉛が溶け出すと、環境にも悪影響をもたらすという。

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戦死した仲間の弔いのために空に向けて銃を乱射する人たち

撃ちっぱなしというのはよくない。撃ったら、ちゃんと責任をもって処理しないと。

卓球でフォアハンドを打つ時、バックスイングをとってから、左前方方向にスイングする(右利き)わけだが、そのときのエネルギーはどこに行くのだろうか。あまり意識していない…。放ったエネルギーはどこかで受け止められるべきである。受け止め先をしっかりと意識することでプレーにキレが出てくるのではないだろうか。私は生じたエネルギーをどこで受け止めているのだろうか。身体全体で?左足で?フリーハンドかもしれない。

初めて逆ふりこサービス(YGサービスという語は使わないことにした)に挑戦した時、非常に違和感を感じた。
いつも慣れている方向と逆なので、力が入らないのだ。



力を入れる方向がいつもと逆だから、力が入らなかったのだろうか。今、思い返すと、力を入れることはできたのだが、受け止めることができなかったのだと思われる。何度も練習して、手のどのへんで力を受け止めるかが分かったら、素早く手首を利かすことができるようになったのだ。不思議なことにこの受け止め先を意識するかしないかが、力の発動にも大きく影響するようだ。

この経験から、力というのはきちんと受け止めなければ発動しないものではないかと思うようになった。もしかしたら力を受け止めるというのは力を出すことと同じぐらい大切なのでは?

これは古典文法の係り結びの法則を思い出させる。

係り結びって何だ?といまだによく分からないが、自己流に解釈して、ダラダラと続く和文において、係りによって緊張を生じさせておき、結びによって文を円満にまとめ、文章に区切りを入れるというある種のレトリックなのかなと思う。現代語で言えば、「たしかに~。しかし~。」に近いイメージである。係り結びには「係り結びの流れ」というものもある。簡単に言えば係り結びの失敗――係りで提起されたテーマが結びで解決されず、不完全燃焼のまま、次の文につながっていくという首尾の不一貫のことである。

 「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ、都の人はこと受けのみよくて、実なし。」と言ひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、己は都に久しく住みて、慣れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。…」


はじめの「こそ」は「頼まるれ(信用できる)」で切れている。が、後の「こそ」は「らめ」で切れず、「らめども…」とそのまま続いてしまっている。こういう表現にはキレが足りないように感じる。

卓球でも係り結びに似たような法則があるかもしれない。
小さなスイングで速いボールを打つためには、スイングの勢いをしっかりと受け止めればいいのではないだろうか。逆に全く力を受け止めず、打ちっぱなしにすると、前につんのめってしまう。左足(あるいは他の部分で)でしっかりと力を受け止めなければならない。

pendra uke
『卓球王国』の「鬼のペンドラ」より。「左足で踏ん張り、力を逃さない」とある。

他のスポーツなどの力自慢――たとえばラグビー選手などが卓球のボールを打っても、初めはそれほど強いスマッシュが打てないような気がする。ずっと非力な卓球選手のほうが鋭く強力なスマッシュが打てるのではないか。何が違うのだろうか。もしかしたら力を受け止める「結び」を意識しているかどうかで差が出てくるのかもしれない。そしてこの「結び」は反動への契機となるのだろう。私は今、反動に夢中である。反動を効果的に使うことによって今までできなかったことができるようになってきたのだ。この反動についてもいずれ記事にまとめたいと思っている。