「地区で常勝のあのチームは、顧問の先生が経験者で、いろいろ指導してくれるから強い。ウチはいい指導者がいないから、強くなれない…。」

こんなことをボヤいてしまう中高生が多いのではないだろうか。
たしかに卓球は我流で上手になることはむずかしい。しかし、昔と違ってインターネットやDVDなどの情報が豊富なので指導者がいなくても強くなることは十分可能だと思う。

またまた私の昔話で恐縮だが、私の学生時代の先生は超一流の研究者で、ちょっと変わり者だった(前記事「物言えば唇寒し秋の風」)。あるとき、先生に「先生のような優秀な方は、学生時代にそうとういい教育を受けたんでしょうね」と聞いてみたことがある。しかし、実際は正反対だった。

私の師匠は授業らしい授業もせず、ゼミで学生に発表させて、そのデキが悪いと激怒し始めるという、どうにも困った男でね。自分はろくに研究もせず、コーディネーターのようなことばかりやっていて、学界では大きな顔をしていたが、研究者としては二流だったよ。あいつから教えてもらったことなんて何もなかった。

「じゃあ、先生はどうやって今の能力を身につけたんですか?独学ですか?」

他大学の同じ年代の大学院生と毎月研究会をやっていたんだが、思えばあれが一番自分の勉強になった。身内の人間との研究会だと、つい馴れ合ってしまうが、他大学の学生の前で発表するとなると、緊張もする。もし箸にも棒にもかからないような発表をしてしまったら、ウチの大学の名折れだし、そうでなくとも、あっちは偏差値的に格上の大学だから、下手な発表をすると、「やっぱり○○大学だから…」と思われてしまう。私はそれがガマンならなかった。偏差値が高いことと、研究能力は関係ないと証明したかった。それで必死でがんばった。それこそ寝ても覚めても、研究発表のことばかり考え、一字一句にまで気を配ってレジュメを作った。内容だけでなく、表現や構成に関しても、「この書き方だと、誤解を与える」とか、「単なる事実の羅列であって、論がない」などと互いに厳しくツッコミあった。仲良く勉強しましょうという雰囲気ではなく、毎回、本当の真剣勝負だった。他大学の学生の着眼点や論理、問題の整理の仕方など、敵から学ぶことも多かった。

それから、他大学の先生にこんなことも言われた。
研究書とか、論文なんかをたくさん読むのは意味がない。博学を誇る研究者も多いが、学説なんてすぐにひっくり返るものだ。知識なんかよりも大切なことがある。他人の説に乗っかろうとするな、自分の目でみて、本当に自分で納得するまで考えてみろ。分かりきっているはずのことでも、意外に分かっていないことが多いものだ、と。
この視点こそが研究の真実だと思う。

強くなるかどうかは結局、自分なのだ。いくら優れた指導者の下で効率的な教育プログラムを受けても、安穏としていてはダメである。自分の尻に火がついていなければ、大して進歩しない。「憤せずんば啓せず、非せずんば発せず」である。

また、xia氏がブログでこんなことを書いていた(「目標は全国制覇」)。

僕の経験上、強豪校ってのは技術指導とかほとんどありません。

多分ですけど、技術ってのは移り変わっていくものだし
流行り廃りもある。
重要なのは自分で技術を習得することや
技術の取捨選択をする
「自分で決める」
「決めたことを実行する」
こういった気持ちを育てることだと思います。
 
研究と同じではないか!
強豪校では指導者が練習メニューを考えるのではなく、自分で練習メニューを考えなければならないのだ。なぜなら自分が強くなるかどうかは自分の問題なのだから。誰かに頼るは、自分で苦しみ、もがいた後である。まずは自分でやれるだけやってみなければならない。「ウチのコーチは全然ダメだ」などと愚痴を言う前に、他校でやる気のあるライバルに声をかけて、練習会を毎週やってみたり、戦術検討会や技術研究会を開いてみるのも良いだろう。

「あいつ、すげぇな。たとえ卓球で結果が残せなかったとしても、きっとどこかで頭角を表すぜ」
「嚢中の錐とは、まさにあいつのことだ」

などと評判になり、優秀な人材が自然に集まってくるに違いない。

現代では、『卓球王国』、『卓球レポート』、技術DVD、youtube等、活用できる素材はいくらでもある。指導者が教えてくれるのを待つのではなく、これらを有志とともに主体的に研究、実践してみることでしか強くなることはできないのだ!

と声を大にして言いたいところだが、私は卓球が下手だし、こんなふうに人をまとめた経験もないので机上の空論と言われればそれまでだが、けっこういいところを突いていると自分では思っている。

先日、練習からの帰り道、「タフになれ!」と書かれたTシャツを来ていた女の子を見て、こんなことを考えてみた。中高生のみなさん、自分の力をもっと頼んでみませんか。