多球練習などを体力の限界まで続けたとき、腕が痛くなってくるときがある。
よく言われるのだが、これは腕に力が入っている証拠である。腕だけに力を入れて打つのは間違っている。身体全体を効率よく使わなければならない。

そうだ!腰だ!腰を使って打たなければ。

池上嘉彦『「する」と「なる」の言語学』はすでに古典だが、示唆に富む書物である。そこには言語のみならず、文化の違いをも説明しうる興味深い考察やエピソードが紹介されている。

「春めいてきた」
「春が来た」

という近い内容の2つの表現があるが、前者は言語的にぼんやりしたとらえどころのない表現である。「何が」「どうしたか」がぼんやりしているのだ。つまり個別的に言えば、「気温が暖かくなる」「氷が溶ける」「花が咲く」「小鳥が楽しそうにさえずる」…これらを総合的に感じて「春めいてきた」というわけである。一方「春が来た」というのは言語的には明確である。現在の状況から一つの主体「春」を選び出し、「春が」「来た」という主体の移動として表現するのである。英語でSpring has come.と言った場合、もちろん後者の言語的に明確な表現になる(おそらく日本語の「春が来た」は漢詩などの翻訳的な表現に由来するのだろう)

日本語が全体を未分化のまま、総合的に表現しがちなのに対して、英語では全体の中から一つの主体を切り取り、その単独の行為として表現することが多いというのが池上氏の主張である。(だから日本語は主語や目的語の省略が頻繁に起こり、英語は名詞の単複にうるさい、といった議論にまで発展するのだが、本筋とは関係ないので割愛する。)

また、オイゲン・ヘリゲルEugen Herrigelが弓の師匠に「無我」の境地を尋ねる次のような問答も興味深い。

そこである日、私は師匠に尋ねた。
「もし矢を射るのが『私』でないというならば、一体どのようにして矢は放たれることができるのでしょうか。」
「『それ』が射るのです。」
「そのお答えならもう既に何度か承っています。だから改めて言葉を変えて質問させていただきますが、『私』というものがすぐそばに控えていてはいけないというのに、どうして私が無我の境地で矢の放たれるのを待つことができるのでしょうか。」
「『それ』が張りつめた状態で満を持しているのです。」
「でも、この『それ』とおっしゃるのは一体誰なのでしょうか、何なのでしょうか」

矢を射るとは、いったい何なのだろうか。「我」を空しくすれば、「それ」が矢を射るのだという。あるいは別の部分では「熟れた果実が枝から落ちるさま」だという。池上氏は自らの同じようなエピソードも紹介している。

アメリカに留学していた頃、始めて日本の映画を見たアメリカ人の学生が刀を構えた二人の武士がにらみ合ったままいつまでも切り合いを始めないのが実に奇妙だと語っていたのを思い出す。二人の武士は「何もしていない」(not doing)と映るのである。(しかし、勝負はその間に決まっている。そして何かが起こったと思う時は、の一瞬の閃きと徐々に体勢を崩して行く一方の武士の姿によってすでに決まった結果が顕在化されるだけのことなのである。)

つまり、「結果」というものは、表面化した「結果」だけを表しているのではなく、それ以前の様々な個別の行為や思索の極まりまでを含み、それが極まった時にはもう「なるようにしかならない」ような自然さで現れる。

これを読んで私にも思い当たることがある。日本語では自分の近況を報告するとき、

「結婚することにしました

よりも

「結婚することになりました

という言い方を好む。これを聞いた外国人に「あんたら、本当に結婚する気あるのか!」と呆れられた覚えがある。しかし後者の表現は結婚の意志がないというのではなく、結婚という結果に至るまでにいろいろな経緯があり、自分一人の意志だけではなく、相手の意向やその他もろもろものドラマを経て「おのずから」結婚が決まったということを表しているのだろう。

卓球に引き換えてみると、腕を振ろうとして振るのではなく、腕を振らざるをえないように全身を「持っていく」ことが確実なショットを放つコツなのだと思われる。

ここで冒頭の「腕が疲れる」というところに戻ってみる。
卓球のショットは指、手首、腕、肩、腰、脚などを総合的に使った運動である。しかし私たちは英語的な表現のように、全体の中から一つの主体(主に腕)を選び、そこに意識を集中させて、それを単独で働かせようとがんばってしまう。そうなると腕に力が入ってしまい、腕だけを「振る」ことになり、腕以外の部分に意識が行かなくなってしまう。

上手なショットは、むしろ腕の力を抜き、「腕を振る」という結果に至るまでには身体のさまざまな部分が動いて、結果として身体全体が腕を押しやることなのである。

そのためには腕ではなく、腰を使って打たなければならないと言われているが、そうやって腰の一点に意識を集中し、腰を回そう、回そうとすると、かえってうまく打てないような気がする。それは腕を腰に置き換えただけなのだから。

それよりも上半身と下半身の複数の部分に同時に力を入れたほうが自然に腕が「振れ」、腰が「回る」のではないだろうか。

たとえば、上半身に関してはフリーハンドと肩を使うのがもっとも有効だと思われる。

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仮面ライダーが「変身」するとき、フリーハンドは鋭く後ろに引っ張られる。これによって反対側のラケットハンドがおのずから「押し出」される。その力を利用してラケットハンドの肩を回すのである。
他にも、よく指導書などに書かれているのは、「フリーハンドで向かってくるボールをキャッチするようにして、フリーハンドを前に出す」ということである。私は水泳のクロールのイメージも近いのではないかと思う。

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水面下で片腕をフンっと掻けば、もう片方の腕がズバっと出てくる。

下半身ではどうだろうか。私はいろいろ試してみたが、右脚をズバっと伸ばしてみるのが有効だと感じた。

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この写真は伸ばしている脚が逆

上の写真では左足を伸ばしているが、そうではなく、フォアハンド時に右足をズバッと斜め後ろに伸ばすと、上半身と下半身が反対方向にねじれ、自然に右腕が前に伸びる(野球拳の振り付けが近いのだが、適当な画像が見つからない)。ただ、こんなに豪快にフリーハンドや脚を使うと、連続攻撃に間に合わないので、ある程度時間的な余裕がある場合に限られるだろう。

【まとめ】
身体の一点だけを使う「する」ショットよりも、身体全体を使う「なる」ショットのほうが望ましい。
「腕を振る」のではなく、「腕が振れる(可能ではなく、自発の意)」ようにフリーハンドや肩を使い、「腰を回す」のではなく、「腰が回る」ように上半身と下半身の複数の部位に力を入れて、反対方向にねじってみる。むしろ、腕や腰の力を抜いたほうが、それらを素早く回せる。特に後者について、多くの人が腰を使おうと腰に意識を集中して努力しているが、私はそうやってあまりうまく腰を回せたことがない。腰に力を入れて「回す」のではなく、上半身と下半身の連合によって上から下から身体をねじることによって腰が「そうならなければならない」自然さで「回る」のだと思う。