出かける寸前、ウネさんから、船に乗るに際しての注意を受けていた。
「こまい船やが、船霊さんはちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
「ふなだまさん、ですか」
慌てて手帳に書き込む。
「ほう。この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊さんをつけて、仕事を終えるからねえ」
「船の、どこに?」
神棚のようなものがあればいいが、小さい船ならそんなものがあろうとは思われなかった。
「ほれは、誰も知らんのよ」
「は」
「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」
「それはお札のようなものですか」
「いいんや、女の子の髪やったり、櫛やったり、歯やったり、いろいろやねえ」

梨木香歩『海うそ』

私は小説が嫌いだった。

今では、「純文学」などというものを読む人も少なくなったが、私が若い頃は、「純文学」というのは崇高なものであり、これを読むと頭が良くなる、大学生なら近現代文学の有名な作品にはひと通り目を通しておくものだ、という雰囲気があった。だから昔は「現代日本文学全集」などという数十冊もある叢書が各家庭に置いてあったりしたものだ。それで高校生の頃、漱石や志賀直哉、太宰治などという作家の作品をいろいろ読んでみたりしたものだ。しかし、まずストーリーがつまらないし、もったいぶってはいるけれど、何も深いことは書かれていないように感じた。それで「裏切られた」と思い、大学生になってからは小説を毛嫌いするようになった。

あんなものを何日もかけて読むのは時間の無駄だと長年顧みることもなかったのだが、中年になると「純文学」というものに味わいのようなものを感じるようになった。人生経験のなせる業だろう。大学生ぐらいで「純文学」を読んでその味わい――作者の意図したおもしろさが理解できる人は相当老成しているのではないだろうか。私だったら若い人に純文学を読めとは勧めない。それよりは司馬遼太郎などの、読んで楽しく、知識が身につく小説を勧めるだろう。ともかく、若い人が小説に求めるおもしろさや知的な深さは「純文学」にはないだろうし、それはある程度の人生経験を積まなければ理解できないおもしろさなのだと思う(譬えるなら世界各国の美食を極めた人が、一周して卵かけごはんに舌鼓を打つようなものだ)。

最近読んだ梨木香歩氏の『海うそ』という作品もまた、味わい深い作品だった。昭和初期に地理学かなにかを研究している大学教員が南九州の小島に1月ほど調査に訪れ、そこに今もなお生きている日本の古い風俗、伝承などと出会うという話なのだが、冒頭の抜粋のような場面に出会うと、ドキドキする。近代的なインフラの未発達な草深い山奥に脈々と受け継がれている信仰。そして誰もがそれを当然のように受け入れている…。読みながらいろいろな疑問が湧いてくる。

「もし、船霊に挨拶もせずに船を出したらどうなるのだろうか?」
「船霊ってどうやって入れるんだろう?」
「女性の髪って誰のだろう?」
「いつから、どんないきさつがあってこんな風習が始まったのだろう?」

現代の視点で考えると、こんな奇妙な信仰を疑いもせず、誰もが自然に受け入れている異常な社会というのは、まるでSFか何かで出てくる異世界のようにさえ感じる。

isekai

しかし逆にこんなふうにも思えてくる、もしかしたら、このような信仰を持たない現代の我々の社会のほうこそが異常なのではないかと。歴史的に考えれば、おそらくこのような信仰は時代や場所を問わず、世界中のあらゆる所で見られたことだろう。非科学的な迷信だとしてこのような信仰が失われてしまったのは人類の歴史からすれば一瞬にも等しい極々最近のことである。100万年以上(?)にもわたる人類の歴史の中で真実だとされていたものがここ100年かそこらで「とるにたらない迷信」とされてしまったのだから、異常なのは今の社会のほうだという意見にも一理あるだろう。なにせ、存在することを証明するのはある程度の努力によって可能だが、存在しないことを証明するのは恐ろしく困難なのだから。

私にとって船霊のような存在が本当に実在するかどうかは大きな問題ではない。それは信仰なのだから、自分にとって好都合なら、実在すると信じるにやぶさかではない。アンドロのラケットにキネティックとかいうラケットがあってグリップの中に砂のような粒が入っていて、振るとシャカシャカ鳴るのだという。あれがグリップの振動になんらかの作用をもたらし、打球を安定させるか、威力を高めるか、そんな触れ込みだったと思う。廃盤になってしまったところを見ると、あまり効果を実感する人がいなかったのかもしれない。

同じように「卓霊さま」入りのラケットがあったらどうだろう?もし自分のラケットに卓霊さまが入っていたりしたら、卓霊さまの目をおそれ、なげやりなプレーや、緊張感のないプレーなどできないだろう。真摯に卓球に取り組むことができる。卓霊さまは卓球を真に愛する人のみを嘉するからだ。勝利したからといって自分の実力だなどと思い上がることもない。それはひとえに卓霊さまの御心にかなうプレーをしたためなのだ。逆に負けた場合は自分の心が卓霊さまの心に適わなかったからなのだ。独りでつらい練習をしているときも卓霊さまといっしょにがんばっていると思えば耐えられる。卓霊さまが本当に実在するかどうかなど関係ない。卓霊さまを信じることによってすべてがいい方向に向かうのなら、私は卓霊さまを信じたい。

福音がある。数年前にみまかられた卓球界の古老がこんなことを言っていたのだ。

「長年苦労を共にしたラケットには卓霊さまが宿る」と。

【付記】
コメントなどをされる前に前もって記しておくが、この記事は手垢のついた薄っぺらい近代批判であり、いつものくだらない筆すさびである。軽く読み流してほしい。