先日、葬儀に参列して信州の親戚とお話しする機会があった。
初老の仲の良さそうな夫婦で、ご主人はおおらかで人の良さそうな人、奥さんはとても控えめでおとなしい人だった。奥さんの控えめな人柄を褒め讃えると、
「でも、こう見えて亭主をよくひくんですよ」
「『ひく』って『惹きつける』ってことですか?あるいは『尻に敷く』ということですか?」
「いや、そういうことじゃなくて、『亭主を立てる』というか…そのぉ…なんて言ったらいいずら?」
どうやら信州で「ひく」というのは、「操る」といった意味らしい。正面から要求したり主張したりするのではなくて、うわべは夫のやりたいようにやらせるが、最終的には妻が夫を意のままに操るというイメージが近いようだ。そのように妻にいいように「ひかれて」、夫の方はまんざらでもなさそうだった。こういう頭のいい奥さんは、どんな環境でもうまく世を渡っていけるのだろうと感心させられた。相手に不満を持たせるどころか、嬉々として従わせてしまうのだから。
大橋宏朗『先生、できました!』(卓球王国)は、『卓球3ステップレッスン』を『卓球王国』で連載していた中学校の先生、大橋氏の教育エッセイである。大橋氏の長年の中学校での授業および部活指導の経験から、気づいたいろいろなことが短い文章で綴られている。一つの記事が1000字ほどなので、空き時間にリラックスして読むことができる。
思春期の難しい時期の子供をうまく導いてやることは、きれいごとばかりでは済まないだろう。怒鳴ったり、傷つけ合ったり、ストレスのたまる仕事だと思うが、大橋氏は子供たちを「ひく」のに長けているように思われた。大橋先生の指導の中核には「共感」がある。
「子どもに教えてあげているんだ」という姿勢では、子どもたちとの共感的な関係は絶対に生まれません。教師と生徒たちが教え合う、助け合う関係を築かなければいけません。【中略】部活動でも、「この技術はこうやるらしいぞ。誰かできる人はいないか。ちょっと見せてくれないか。」と言うと、「それをやりたい。やらせてください」と言ってきます。
共感というのは互いにできることを補い合い、子供たちに主体性を持たせるだけではない。生徒の失敗を教師が許すとともに、教師の失敗を生徒が許せる、堅い信頼関係にもとづく感情である。そしてそれが教師への過剰の依存をなくし、自分で考えることにつながるのだという。
ときどき仕事ができないのに周りといい関係を築いている人がいる。逆に仕事をすべて完璧にこなしているのに周りに疎んじられている人がいる。何でもキチッとしている人が周りに疎んじられているのは、相手を許すことができず、このような「共感的な関係」を築けていないのだろう。
また、大橋氏は生徒の自尊心を重視している。
子どもたちによって、「好きになる」ことがとてつもない可能性を引き出すことにつながります。子どもの可能性は「いかに好きにさせるか」がキーポイントです。【中略】好きになると虫の種類や、卓球メーカーのカタログの写真や説明文を暗記することさえ楽しみであり、苦にならないものです。
私は小学校3年生くらいの頃、学校の図書館にあった百科事典の「あ」から順番に、全部ノートにただ、書き写していました。傍目には変な子だけど、ある先生がそれを見て「おまえ、えらいな」とほめてくれました。写した内容は忘れたけれど、ほめられたことは今でも覚えています。
もし私が教師の立場で大橋氏の上の行動を見たら、どうするだろうか。
「やみくもに覚えることは意味がない。知識というのは考える過程で自然に身に付くものであって、無理に詰め込んでもどうせ忘れるだけだぞ」
とか言って、代わりに事典中のおもしろそうな項目を探して、それについて講釈などをしてやるかもしれない。
しかし、そんなことをしたら「君のやっていることは無意味なんだ」というメッセージを送ることになってしまう。それは子供の自尊心を傷つけることになるかもしれない。大橋氏はまず「好きになる」を伸ばすことが第一なのだという。たしかに私にも覚えがある。熱心に取り組んでいたことが認められたときの喜びというのは記憶に残りやすく、積極的に自分を高めようとする自信につながったと思う。「これだけは人に負けない」という自尊心がさらに「好きになる」を伸ばし、相乗効果をもたらすと思われる。
そもそも大橋氏の持ち味というのは卓球部の指導力の高さだと言われている。世間の強豪校の指導者が威圧感や緊張感を背景に指導しているのに対し、大橋氏は生徒の自主性に任せ、上手に生徒を「ひいて」いる点が並みの指導者と違うのである。なかなか思い通りに動いてくれない子供たちを上手に「ひく」ためには叱責や体罰などで子供たちを隷属させるのではなく、伸び伸びと子供たち自身に何をすべきかを考えさせることだという。
このような意見を聞いて現場の指導者は「子供たちにはそんな甘いやり方は通用しない」と言うかもしれない。しかし、大橋氏は実際にそのやり方で何度も生徒たちを全国大会に出場させているのだ。なんらかのヒントがあるはずである。
私の個人的な見解だが、子供たちの自主性を尊重しつつ、上手に導いてやれるかどうかは、子供たちに指導者を「ひいている」と思わせられるかどうかにかかっているという気がする。つまり子供たちに自分たちの方が「ひいている」と思わせられれば、指導者は上手に子供たちを「ひける」のではないかと思う。
私は精神年齢が低いからか、大橋氏の教育論がいちいち自分にも当てはまるような気がしてならない。「いい年をして」とか「いつまでも子供じゃないんだから」のように頭ごなしに自分を否定されるのが嫌いである。大人だってガマンばかりするのは嫌だし、「正しい」ルートではなく、時には道草や回り道をしたいときもある(前記事「卓球書代用考(育児書)」)。この本に書かれていることは子供たちの扱い方にかぎらず、大人にも有効な「指導法」なのではないだろうか。
初老の仲の良さそうな夫婦で、ご主人はおおらかで人の良さそうな人、奥さんはとても控えめでおとなしい人だった。奥さんの控えめな人柄を褒め讃えると、
「でも、こう見えて亭主をよくひくんですよ」
「『ひく』って『惹きつける』ってことですか?あるいは『尻に敷く』ということですか?」
「いや、そういうことじゃなくて、『亭主を立てる』というか…そのぉ…なんて言ったらいいずら?」
どうやら信州で「ひく」というのは、「操る」といった意味らしい。正面から要求したり主張したりするのではなくて、うわべは夫のやりたいようにやらせるが、最終的には妻が夫を意のままに操るというイメージが近いようだ。そのように妻にいいように「ひかれて」、夫の方はまんざらでもなさそうだった。こういう頭のいい奥さんは、どんな環境でもうまく世を渡っていけるのだろうと感心させられた。相手に不満を持たせるどころか、嬉々として従わせてしまうのだから。
大橋宏朗『先生、できました!』(卓球王国)は、『卓球3ステップレッスン』を『卓球王国』で連載していた中学校の先生、大橋氏の教育エッセイである。大橋氏の長年の中学校での授業および部活指導の経験から、気づいたいろいろなことが短い文章で綴られている。一つの記事が1000字ほどなので、空き時間にリラックスして読むことができる。
思春期の難しい時期の子供をうまく導いてやることは、きれいごとばかりでは済まないだろう。怒鳴ったり、傷つけ合ったり、ストレスのたまる仕事だと思うが、大橋氏は子供たちを「ひく」のに長けているように思われた。大橋先生の指導の中核には「共感」がある。
「子どもに教えてあげているんだ」という姿勢では、子どもたちとの共感的な関係は絶対に生まれません。教師と生徒たちが教え合う、助け合う関係を築かなければいけません。【中略】部活動でも、「この技術はこうやるらしいぞ。誰かできる人はいないか。ちょっと見せてくれないか。」と言うと、「それをやりたい。やらせてください」と言ってきます。
共感というのは互いにできることを補い合い、子供たちに主体性を持たせるだけではない。生徒の失敗を教師が許すとともに、教師の失敗を生徒が許せる、堅い信頼関係にもとづく感情である。そしてそれが教師への過剰の依存をなくし、自分で考えることにつながるのだという。
ときどき仕事ができないのに周りといい関係を築いている人がいる。逆に仕事をすべて完璧にこなしているのに周りに疎んじられている人がいる。何でもキチッとしている人が周りに疎んじられているのは、相手を許すことができず、このような「共感的な関係」を築けていないのだろう。
また、大橋氏は生徒の自尊心を重視している。
子どもたちによって、「好きになる」ことがとてつもない可能性を引き出すことにつながります。子どもの可能性は「いかに好きにさせるか」がキーポイントです。【中略】好きになると虫の種類や、卓球メーカーのカタログの写真や説明文を暗記することさえ楽しみであり、苦にならないものです。
私は小学校3年生くらいの頃、学校の図書館にあった百科事典の「あ」から順番に、全部ノートにただ、書き写していました。傍目には変な子だけど、ある先生がそれを見て「おまえ、えらいな」とほめてくれました。写した内容は忘れたけれど、ほめられたことは今でも覚えています。
もし私が教師の立場で大橋氏の上の行動を見たら、どうするだろうか。
「やみくもに覚えることは意味がない。知識というのは考える過程で自然に身に付くものであって、無理に詰め込んでもどうせ忘れるだけだぞ」
とか言って、代わりに事典中のおもしろそうな項目を探して、それについて講釈などをしてやるかもしれない。
しかし、そんなことをしたら「君のやっていることは無意味なんだ」というメッセージを送ることになってしまう。それは子供の自尊心を傷つけることになるかもしれない。大橋氏はまず「好きになる」を伸ばすことが第一なのだという。たしかに私にも覚えがある。熱心に取り組んでいたことが認められたときの喜びというのは記憶に残りやすく、積極的に自分を高めようとする自信につながったと思う。「これだけは人に負けない」という自尊心がさらに「好きになる」を伸ばし、相乗効果をもたらすと思われる。
そもそも大橋氏の持ち味というのは卓球部の指導力の高さだと言われている。世間の強豪校の指導者が威圧感や緊張感を背景に指導しているのに対し、大橋氏は生徒の自主性に任せ、上手に生徒を「ひいて」いる点が並みの指導者と違うのである。なかなか思い通りに動いてくれない子供たちを上手に「ひく」ためには叱責や体罰などで子供たちを隷属させるのではなく、伸び伸びと子供たち自身に何をすべきかを考えさせることだという。
このような意見を聞いて現場の指導者は「子供たちにはそんな甘いやり方は通用しない」と言うかもしれない。しかし、大橋氏は実際にそのやり方で何度も生徒たちを全国大会に出場させているのだ。なんらかのヒントがあるはずである。
私の個人的な見解だが、子供たちの自主性を尊重しつつ、上手に導いてやれるかどうかは、子供たちに指導者を「ひいている」と思わせられるかどうかにかかっているという気がする。つまり子供たちに自分たちの方が「ひいている」と思わせられれば、指導者は上手に子供たちを「ひける」のではないかと思う。
私は精神年齢が低いからか、大橋氏の教育論がいちいち自分にも当てはまるような気がしてならない。「いい年をして」とか「いつまでも子供じゃないんだから」のように頭ごなしに自分を否定されるのが嫌いである。大人だってガマンばかりするのは嫌だし、「正しい」ルートではなく、時には道草や回り道をしたいときもある(前記事「卓球書代用考(育児書)」)。この本に書かれていることは子供たちの扱い方にかぎらず、大人にも有効な「指導法」なのではないだろうか。
コメント
コメント一覧 (6)
私の経験でも、先生が私の可能性を無限大と考えていたかはまず置いておいて笑、練習、試合と勝つために常に本気で生徒にぶつかってくる先生でした。私は、ほんの一時期でしたが集中して卓球に取り組めたことを先生に感謝しています。
コメントありがとうございます。
野田学園ぐらいになると、技術的なことよりも、精神的な指導が大きく結果に影響するんでしょうね。
許ッシンさんの先生のお話、心温まりますね。
感謝の言葉は、それが自分に向けられたものでなくても、読んでいて気分のいいものですね。
逆に恨み言は、自分に向けられたものでなくても、嫌な気分になりますが。
どうなんでしょう?「あの人は卓球を知らない」も読みました。
中国ではトップ選手でさえコーチから問題があれば直ぐ指摘されると言いますし、水谷選手も新たにコーチに頼んだキューさん?からチキータなどを指導され「今までに無かった感覚云々」と言って今まで感覚が掴めなくて上手くいかなかった技術の向上に成功しています。
それなら野田学園の選手には「よく卓球を知っている」コーチから見たら技術的に指導する余地が一杯あるという事になるのではないかと思っています。小中学生に指導していた私としては、そうなりたかったのですが、とうとうなれませんでした。
一流のコーチや監督がどんな指導をしているのか、非常に興味がありますね。
野田学園の橋津監督にしても、邱建新コーチにしても、指導している選手よりも、失礼ながら、技術的には劣っているかと思います。青森山田高校の吉田監督や、東山高校の今井監督は多くの選手から尊敬されていますが、一体どのような卓球理論、指導論を持っていたのか、興味深いです。選手たちよりも技術的な知識が豊富だったのでしょうか。
水谷選手のお話だったと記憶してますがドイツ時代のコーチ・アミジッチ氏はどのような練習をしたら勝てるかを明確に示してくれる!というような内容の話をしていました。
また、一方で健太選手が初めて海外留学した時、フォアハンドを徹底的に直されたという記事を卓球レポートで読んだことがあります。この頃はもう結構活躍していて、健太選手の技術特集が組まれたことがあり、切り替えにおけるバックハンド、フォアハンドの説明があり、読んで納得していたのにそのフォアハンドを修正された事を読んで驚き、一流は素人にはわからないようなハイレベルな技術水準要求があるのだなと思いました。
ご教示、ありがとうございます。
水谷選手も信頼を寄せているアミジッチ氏は、高度な卓球理論を持っていたんですね。
自身が強くなくとも、どうすれば強くなれるかを知っている人が名コーチということでしょうか。