新年度が始まって、新しい環境にとまどっている若い人も多いのではないだろうか。
期待に胸を膨らませ、新しい出会いや自分の可能性の開花を信じて入学・入社したものの、なんだか想像していたのと違う…。

homura


まわりの人の生き生きとしていること、まるで春の満開の桜を前に楽しく花見をしているようだ。

それにひきかえ私ときたら、ポケ~っと何も分からず、独りだけオロオロしていて、やることなすこと裏目に出る。

周りのみんなは才知にあふれているのに、私独りだけついていくのがやっとだ。

あいつらは本当にすごい…私独りだけが愚図なんだ。
あいつらはなんでもソツなくこなすのに、私独りだけが何をすればいいか分からず、気が利かない。
上司や先輩に叱られてばかり。

私の人生なんて海の藻屑のように浮いたり沈んだり…止まることなく転がり続けるだけ。何ひとつ築き上げることもない…。

周りはみんな才気煥発、私独りが頑迷で垢抜けない…

こうしてストレスがたまり、うつ状態に陥ってしまう人も多いのではなかろうか。

自分の若いころを振り返ってみると、一番のストレスは

「自分はどうしてこんなことも分からないのか」

というプレッシャーだったような気がする。周りのみんなはキチッとしていて、自分がすべきことに邁進している。一方、私は取り残され、何をすべきかさえ分かっていない…。

そこで自分自身を追い込んで、無理に環境に合わせることになるのだが、当然摩擦や齟齬が生じてくる。それに耐えられる人はうまく環境に適応し、このプレッシャーを克服できるかもしれない。一方、耐えられない人は挫折し、去っていく。

一体元凶はなんなのか。

「分からない」という気持ちである。この気持ちがときには自らを滅ぼすことになる。

しかし、今、思い返してみると、「分からない」という気持ちはもっと大切にしたほうがよかったのではないかと思う。分かっていないのに、無理に分かっているふりをして素通りしてしまうと、何かに気づくきっかけを失うことにもなる。

「分かる」というのは根性でがんばったからといってできるものではない。いつの間にか自らのうちに兆すものだ。
その機が訪れるまではひたすら待たなければならない。「こんなにがんばっているのに分からないなんて自分には才能がないんだ」などと卑下することはない。「分からない」ということは、人よりもそれだけ問題を深く捉えているということなのだから。

私は「腰を使って打つ」ということがいまだによく分からない(前記事「ロケット理論」「しっくりくる説明」等)。腰を使って打つとは何なのか、手打ちとどう違うのか、どんな場面で有効なのか、そもそも「手打ち」と「腰で打つ」は截然と区別できるものなのか…。この「分からない」という気持ちがあるからこそ、私は向上できると思う。「分からない」という気持ちはきっと自らを一段高めるよすがになるはずである。

壁にぶつかって行き詰まっている人は、いたずらに自らを責めるのではなく、「分からない」という気持ちをもっと活用し、問い続けてほしい。遅すぎるということはない。人生は十分に長い。わずか10年で世界チャンピオンと肩を並べるほど上達した樊振東選手のような人もいるのだから(前記事「問題意識」)。遅咲きになるかもしれないが、それだけ大きな問題を掘り当てる可能性があるのだ。

「分かる」人なほもて、結果を残す。いはんや「分からない」人をや。

【追記】140419
私の場合「腰を使って打つ」が分からないのだが、他にも「肩を使って打つ」や「前腕を使う」といったテーマを数年単位で追い求めれば、きっとライバルに差をつけられるのではないだろうか。身体の使い方というのは奥が深く、1週間やそこらで理解できるとは思えないからである。