最近、神経をつかうことが多くて、なんとなく落ち着かず、情緒不安定であると自覚している。そこで仏教の瞑想法を試してみることにした。しかし、この手のトピックは怪しげな本が多いので、比較的堅い出版社の本を探してみたところ以下の本に出会った。

ブッダの瞑想法』(春秋社)

簡単に内容を紹介すると、私たちの苦しみは妄想によってもたらされる。動物はやがて訪れる自分の死に怯えることはない。人間だけがそのような妄想に支配されているのだ。死だけではない。私たちは現在何の不足がなくても勝手に妄想を作り出し、それに怯える。

「結婚できないのではないか」「妻は私を愛していないのではないか」「就職できないのではないか」「失業するのではないか」「日本は不況を抜け出せないのではないか」

そのような妄想(恐怖・瞋恚)を取り払い、心安らかに生きるにはどうすればいいのだろうか。自分の創りだした妄想にとらわれて、自分が今、やらなければならないことから目を逸らすようなことになってはいけない。妄想に惑わされないようにするためには、イマ・ココの自分をそのまま受け入れることに尽きる。そうすれば、今自分がやるべきことは何かが見えてくるのだ。では、どうやって自分をそのまま受け入れることができるのだろうか。それは、自分の感覚・感情・判断をきめ細かく観察し、対象化することである。

たとえば、上司に無理な要求をされたとする。ふつうなら言いようもない怒りに支配され、それがずっと後を引く。しかし、そうではなく、そのときの自分の感情や行為を一つ一つ言葉(内語)にしてつぶやくことこそヴィパッサナー瞑想法と呼ばれる方法論で、妄想にとらわれないための対処法なのだ。

「[そんなことできるわけない]と思った」「腹を立てている」「[拳を]握った」「[分かりました]と言った」「呆れている

心のなかで実際に言語化するのは太字の部分だけである。このように自分を対象化して冷静に見つめ、それを言語化し、確認することによって怒りの感情が消えていく。「あぁ、腹を立てているな。でもそんな感情に飲み込まれてしまっては、不快な気分になるだけだ。平常心を保つことだ。」と達観できる。

感覚を対象化する方法として本書では、たとえば歩行による瞑想法が紹介されている。
歩くときの足の裏の感覚をつぶさに観察し、つぶやくのだ。

「[重心が]移った」「[かかと]着地」「[拇指球]接地」「[拇指球が]圧迫された

のように。そうやって自分の身体に生起する感覚を心静かに味わうと、足裏の感覚に集中できる。集中することによって妄想をしないようになる。ただし、言葉にして確認するのはあくまでも手段であって、真の目的は感覚を味わうこと、それ自体である。

こうして自分の感覚や感情の動きを一点に集中して味わうと、自分がいかに多くの感覚を無意識に経験しているかに驚かされる。歩くというこれ以上ないほどの日常的な行為がこれだけの豊かな感覚が支えられていたのかと驚かされる。ふだん気にも留めないそれらの感覚に心を向けると、不思議と心が静かになっていく。

この方法論を卓球に応用できないものだろうか。
卓球技術研究所の「イチ・ニ・サン」メソッドに以下の記述がある。

修行に用いられる瞑想法は
「いまの瞬間に完全に注意を集中する」ためにおこなわれますが、
この「イチ・ニ・サン」メソッドもそれはまったく同じです。

たとえば、地面に足が着いたことだけを
感じながら歩く瞑想法がありますが、
「イチ・ニ・サン」メソッドとその内容はほとんど同じです。

瞑想はゆっくりした動作や心の動きを対象にするが、卓球は一瞬の感覚なので、言語化が間に合わない。しかし感覚を味わうことはできる。言語化することは手段であって、真の目的は感覚することなのである。できるだけゆっくりラリーをし、感覚をラケットの一点に集中すれば、ふだん気づかない打球感覚のバラエティーを味わうことができる。味わうという点からすれば、ボールスピードの遅いラージボールのほうがより適しているだろう。卓技研の「イチ・ニ・サン」メソッドはボールのリズムに集中して感覚を研ぎ澄ますのだが、私は打球感や筋肉の動きに集中する瞑想法というのを提案したい。ゆっくりラリーをしながら「こすった」「弾いた」「右腰に重心を移した」「肩の筋肉が動いた」のように自分の体の感覚をいちいち観察するのである。そうすることよって雑念が晴れ、集中できるし、スイング時に身体をどのように動かしているか意識化できる。同時に身体を動かしていないときの静けさも感じることができる。ただ、意識の対象が広範に渡ると、集中できないものである。そこで対象を限定し、下半身の筋肉の動き、上半身の筋肉の動き、ラケットの打球感と、気分によって中心対象を移していくのがいいと思われる。そうすることによってふだん気づかない自分の盲点に気づくことができるかもしれない。

しかし、ゆっくりしたラリーに相手を付き合わせることになるので、現実的にこのような瞑想法を実践するのは難しいのではないか。いや、何も実際のラリーで試すことはない。素振りでもいいのだ。私の例で言えば、これを素振りで実践することによってフォアスイングのとき、右足に重心を十分移さずに打球していたことに気付かされた。そして右足に十分重心を乗せて、しっかり右足を蹴ってスイングすると、腕が疲れないということが分かった。卓球瞑想法は精神集中という点だけでなく、技術的な欠点を浮かび上がらせるという効果も期待されるのだ。
また、球撞きでインパクトに感覚を集中させるという方法も手軽で取り組みやすい。何の目的もなく球撞きをしていると、飽きる。しかし打球感を味わい、心を集中させるという目的をもって球撞きをすると、不思議と球撞きが楽しくなってくる。

【まとめ】
卓球瞑想法には二つのメリットがある。
一つは筋肉の動きをつぶさに見つめることによって自分の身体の使い方に穴がないかどうかをチェックできるというメリットである。
もう一つは精神を集中する訓練になるということである。卓球をしていて、「相手がミスばかりする」とか、「自分が安定しない」といった雑念を払い、1球1球に集中して打球すると、そこには豊かな感覚世界が広がっていて、それを味わうことによって心が満たされていく。何も、すごいラリーが続かなくても、打球感を味わう喜びというのは、それ自体で卓球の意味となりうるのである。
自分の身体と膝を突き合わせてじっくり対話するという機会を持ってみると、意外な発見があるかもしれない。

【追記】130904
「妄想」というのはネガティブな感情なので、排除すべきである。しかしこれがポジティブな思い込みの場合はどんどんそれに乗っかるべきである。例えば「よく分からないが、自分は何かすごいことを成し遂げそうな気がする!」という思い込みにそのまま乗っかれば、自分の能力以上のことを達成できるかもしれない。
ヴィパッサナー瞑想法は自分が進むべき道を見失ってしまった時に限って、役に立つのではないかと思う。