自分の試合のビデオを友人と観ていたとする。
4ゲーム目のある場面で、友人が私に「どうしてここでミドルにドライブを打ったの?」と聞いてきたら私はどう答えるだろうか。
「なんとなく」
「いや、特に何も考えていなかったと思う」
のような回答しかできないのではないだろうか。

同じ質問をプロの選手にしてみたら、おそらくほとんどのショットに対して何らかの理由を説明してくれるのではないだろうか。
プロの棋士は勝負の後に「感想戦」ということをするらしい。コマを初めの状態に戻して、対局をもう一度なぞりながら、お互いにどうしてその手を打ったかといったタネ明かしをするらしい。棋士は全ての手を覚えている。つまりすべての手を理詰めで打っているということだ(前記事「プロフェッショナル 仕事の流儀 棋士 羽生善治の仕事」)。
卓球の場合もプロなら似たようなことができるのではないだろうか。「2ゲーム目の5-5の場面でわざと少し甘いレシーブをバックに送ったのはカウンターを狙っていたのだ」などと節目節目でどのような戦術を使ったのか全て記憶しているに違いない。

私のプレーは一打一打に根拠がない。行き当たりばったりで打ちやすいところに打っているにすぎない。一方、上級者はおそらくほぼ全てのショットが理詰めで構成されているのではあるまいか。国際大会などの解説を聞いていると、一流選手はそれぐらい頭を使いながらプレーしているとしか思えない(前記事「二人の若き才能」)。

どうして私はそのように根拠に裏付けされたショットが打てないのだろうか。それにもやはり理由があったのだ。

掛け算について考えてみよう。「9☓9」を「81」と答えるとき、いちいち計算をしているわけではない。しかし小学2年生の時に初めて掛け算に触れたばかりのときはきちんと計算をしていたかもしれない。
「9が9つあるということは、まず9が2つあれば、18で、9が3つあれば、27で…」
ときちんと計算し、
「最後に9が8つあれば、72だから、それに9を足したら81だ」
のように。それが次第に9が9あれば81になるということを経験的に、あるいは「掛け算九九」として暗記し、途中の計算をスキップしていきなり81という結論を出してしまう。

ファーストフードの店員さんのことを考えてみよう。仕事を始めたばかりの頃はきちんと考えながら接客していたに違いない。
「まず、はじめにあいさつ。次に注文を聞く…イヤイヤ、店内か持ち帰りかを確認したほうが手間が省ける。次に注文を聞く。それから、会計…じゃなくて商品のオーダーを入れて、商品を渡してから会計…イヤイヤその前にキャンペーン商品の売り込みをしないと」
のように接客の流れを最適化するために頭を使い、ときには順番を間違えたりしたに違いない。しかし、数ヶ月もすれば、何も考えずとも客を前にしたら口と身体が自動的に動き、気持ちはすでに次の客に向いていることだろう。考えずとも接客ができるということは、他のことを考えながら接客ができるということだ。だから接客をしながら店全体の雰囲気や混み具合などにも目が行くことだろう。客の注文を受けながら「あっ!あんなところに使用済みのトレーが放置してある。すぐ片付けなきゃ!」のように。新人さんは目の前の注文のことで精一杯だが、ベテランは注文を受けつつも、いろいろなことにまで頭を回す余裕がある。

私の場合は試合中、目の前のボールをどう処理するかで手一杯なのである。どんな回転がかかっているか、ブレードをもう少し傾けるべきか、回りこんで間に合うかどうかといった技術的なことしか考える余裕がない。
一方上級者はボールが来た瞬間、過程をスキップして結論まで自動的に行ってしまっている。だからボールを処理しつつも、そのポイントがどう展開するか考えられるし、相手の位置や相手のラケットの角度にまで目が行く。同様にフットワークが悪いというのも同じ原因に帰すると思われる。上半身が自動的に動く人なら、下半身をどう動かせばいいかに気を回せる。あるいは下半身も自動的に動いているのかもしれない。

すべてのボールを打ち終わるまで考え続けている、それが私が戦術を考えることができない原因なのである。打球に頭を使っているようでは、戦術などおぼつかない。私でもフォア打ち程度なら、ほとんど何も考えず、身体が自動的に動いている。そのように安定して、血肉となって身についている技術を使っている場合なら、頭を他のことに回す余裕が出てくる。逆に言えば、試合中の技術的なことを、身体が自動的に動くぐらい安定させなければ、戦術まで頭が回らない。「卓球の虫」(前記事:『まんがで読破 昆虫記』)にならなければ、上級者にはなれないのだ。