『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(ちくま新書)という本を読んだ。

「何かを考える」こと

は誰でもすることだが、

「「何かを考える」とはどういうことかを考える」こと

はふつうの人はしない。しかし後者は非常に大切なことだと思われる。なぜなら前者がうまくいかないとき、なぜうまくいかないかを考えるにはまず、考えることそれ自体について理解していなければならないからだ。この本は専門外の人間にも分かるように脳のしくみについてとても丁寧に書いてあって楽しく読めた。ネタバレになってしまうが、はじめの部分(第1章)の内容について以下に簡単に述べたい。

世の中に色がなかったらどうなるだろうか。

マンガのように白黒になるという意味ではない。全部白、あるいは透明で輪郭さえもない。そうすると、字が読めない。字は背景との色の差によって表現されているのだから。それどころか本があることさえも分からない。というより、色がなければ―あるいは全て同じ色だったら何も見えない。
脳の働きの最も基本的なものは区別することだという。私たちは色の違いによって、あるいは音や匂い、味、手触りの違いによってまずモノを区別している。
しかし、色や音が違っていても区別できるとは限らない。現に私たちはカラスの声を聞いても全部同じに聞こえるし、木の葉を見ても、全部同じに見える。しかし、もちろん注意してみればそれぞれが違っていることは明らかで、見る人が見れば区別できるのだ。この本によれば、たとえば羊飼いは飼っている羊の顔を覚えており、顔で個体を区別できるのだという。

こういうことが卓球でもある。
高校生や大学生のレベルの高い大会であまり注意しないで観客席から見ると、どれも同じようなプレーをしているように見える。カットマンやペンホルダーの選手はさすがに少し違って見えるかもしれないが、主流のシェーク裏裏ドライブマンならあまり区別できない。卓球非経験者なら、それが顕著だろう。違いが分からないということは、「見えない」ということだ。つまり「見ているのに見えない」のだ。
私のようなヘタクソがプロの試合を見ても、あまり違いがわからない。それで細かいところまで注意深く観察してみる。すると少しずつ「違い」が見えてくる。しかし「見える」といっても表面的なことでしかない。「この選手はボールのスピードが速い」とか「バックハンドでの得点率が高い」とかその程度のことだ。その「意味」が分からない。

脳の働きの第一が区別だとしたら、第二は認識だという。認識とは知覚したことを記憶の中のイメージと同定することだと思われる。
たとえば友達に貸したハンカチを返してもらったとする。そのハンカチで顔を拭いた時、「あれ?いい匂いがする」と思う。それは明らかに自分で洗濯したときと違う香りだった。その香りについて自分の記憶の中に何もなければ「違う」「いい香りだなぁ」だけで終わりだ。しかしその香りについて自分の記憶の中に適合するものがあれば「これはダウニーの香りだ!」のように同定できる。これが「分かる」ということだろう。
授業で次々と新しいことを教えられ、必死でそれらを頭に入れようとするが入らない。新しいことというのは新しいだけあって結びつくべき記憶がない。だから頭に入らない。そうではなくて、その新しい知識を何か似たような記憶に結びつけることができたとき、はじめて「分かった!」となるのだ。
卓球の例で考えてみると、自分の打ったドライブがきれいにブロックされた時、いつもの練習相手のより速くてコースが厳しいと感じるだけでなく、「あっ!これはマツケンがよく使うブロックと同じだ!」と感じるようなものだ。
そのような結びつけるべき記憶をたくさん持っている人は理解力が高いと言える。

上手な人と試合をして、なんだかわけがわからないうちに一方的に打たれて終わったというのでは、何も「見え」なかったということだろう。「いつものように自分が攻めるチャンスが作れずに、先に打たせてしまった」のように「いつもと違う」と感じるのが第一段階で、「あれはワルドナーがよくやる戦術に似ている」と認識するのが第二段階といえる。このように同定すべき―あるいはそれに準ずる記憶があれば、卓球がよく「分かる」のではないかと思う。

話は変わるが、私には数年前に卓球の神が降りたことがある。

どうして神が降りたのかさっぱり理由がわからない。神様のいたずらだったとしか思えない。

それは当時、中国人の元プロ選手に週1度指導を受けていたときのことだ。その先生を相手にフォア打ちを始めたとたん、突如として神が降りた。ラケットが軽く、スイングが速くなった気がする。軽く振ってもボールが狙った場所にまっすぐ飛んでいく。力をほとんど入れていないのにボールをしっかり捉えている感触がある。その経験はいわば「身体全体で一つのリズムを奏でている」とでもいうべきものだった。
その後、ドライブを打った時も気持ちよく入り、スピードが乗っている。いったいどういうことだ?用具を替えたわけでもないし、普段と違ったフォームを試してみたわけでもない。本当に突然の出来事だった。私は先生に「今日はいつもと全然違って心地よく打球できるのだが、いつもと何か違っていないか?」と尋ねてみたが先生にも分からなかったらしく「手首が使えているのかな?」ということだった。

そして次の週に練習した時には神は去っていた。いつもと同じボールしか打てなくなっていた。

今でもあの経験が忘れられない。あんなに心地良くボールが打てるなら、卓球が楽しくてたまらないだろう。きっとプロの選手はこのような打球感を自分のものにしているのだろう。ほんの2時間程度だったとはいえ、あんな経験ができたのは、後にも先にもその時だけだった。

あのときの打球感をぼんやりと覚えている。それは確かに記憶の中にある。おそらくその打球感を再び感じることができたなら「あの時の神だ!」と認識できるだろう。

私はいまでもあの時の「神」に再びめぐり会えることを夢見てあれこれ模索している。そしてそれがかなったとき、あの打球感を自分のものにできるのではないかと思う。

【追記】2013/6/18
書きながら考えていたので、自分の中であまりコトガラが整理できておらず、支離滅裂な記事になってしまった。
とりあえず最後の部分のまとめが欠けていたので補足したい。

目の前の現象を区別(分節)し、それを記憶の中の同等物に結びつける(同定する)という活動が認識だとしたのだが、多くの場合、 区別はできても、同定ができない。それで意味がわからない。
しかし、最後の例で考えると、通常とは逆に結びつけるべき記憶を持っているけれど、それを当てはめる現象に出会えないという 珍しいケースもある。その出会えない現象を卓球の神と表現したわけである。

見ているけれど、区別できないことを「見ているのに見えない」と表現した。それに対して区別できるけれど、それがどんな意味かわからないことを「見えるのに分からない」と表現した。私たち中級者は注意して観察すれば「見える」。しかし「分からない」。これが我々の課題だと思われる。