英語が小学校から正式な「科目」となるらしい。
英語は長期間勉強すれば――勉強時間が長ければ長いほど上達するものだろうか。
小学校から英語の授業を増やすことになれば、絶対数でみれば英語が上手になる子供の数が増えるかもしれない。しかしそれほど英語に興味がない子供―英語がきらいな子供には負担を強いるだけでしかない。また英語を科目にすることによって他の科目の学習時間が削られ、より「薄っぺらい」日本人が生みだされることになるかもしれない。しかも小学生に対する英語教育なんて初めの10年ぐらいは模索期だろうから、わざわざ時間を作っても学習効果はほとんどないだろう。ネイティブを呼んで、歌って踊ってお遊戯するために他の授業時間を削っていいものだろうか。一部の英語好きの子供のために大多数の子供が余計な「学習」を強いられることになるのではないか。

外国語なんてダラダラ長期間勉強するよりも、短期集中で勉強したほうが効果があるに決っている。10年以上英語を勉強しているはずの大部分の日本人が日常会話もままならない一方で、日本に2~3年留学している外国人――それまで日本語をまったく勉強したことがない――の多くが日常会話程度なら全く問題ないレベルまで上達し、一部は大学での専門的な勉強にも対応できているのをみると、小学生に英語「学習」を強いるよりも、大学生に対して1年ぐらいの留学を必修化したほうがよほど効果があり、経済的だと個人的には思う。

そもそもどうしてこんなに世間は英語、英語と騒いでいるのだろう。どうやら「国際交流」「国際化」というのがその理由らしい。しかし「国際化」というのは本当に必要なことなのだろうか。

ヨーロッパで「国際化」というのを進めた結果、貧しい国から裕福な国に、着の身着のままで労働者が殺到した。その結果、その国の社会保障に負担がかかり、多くの摩擦が起こっている。ドイツでも、スウェーデンでも外国人排斥運動が盛んらしい。フランスでもアフリカ系移民との間の深刻な摩擦に悩まされている。こんな憎しみを生むぐらいなら、われわれはむしろ「国際化」をできるだけ「防ぐ」べきなのではないだろうか。

「国際化」というのはいったい何なのだろうか。道を歩いていたら外国人とすれ違ったり、道案内することが「国際化」なのか。職場や学校に外国人がふつうにいることが「国際化」なのか。そんなことのためにたくさんの憎しみの連鎖が生まれるのなら、なんのために「国際化」とやらをしなければならないのか。

世間では「国際化」という言葉を膾炙しているが、私は現在の形の「国際化」には多くのデメリットがあると思っている。しかしそれでも1点メリットがあることは認めざるを得ない。自らを相対化できることである。

もし外国人の存在がなかったら、私たちは自分たちが「すみません」的な言葉を多用しているということにも気づかないし、政府を批判できることが当たり前でないということにも気づかない(例えば、サムソノフの母国、ベラルーシでは大学の教室の隅に警官がいると聞いたし、ミャンマーでは院政期のカムロのような者が街なかに放たれ、政府の批判をしている人がいないかどうかチェックしているらしい)。それどころか「日本文化」や「日本的」といったことが何かも分からない。空気のように身の回りにあること、あるいは自分の持つ所与の性質が何かを気づかせてくれるのが外国人の存在なのである。

卓球の話に当てはめてみると、たとえば、まったく用具を替えない人は自分の用具がどういう長所と短所――特質をもっているか意識できない。だからといってかつての私のように用具をコロコロ替えるのでは、わけが分からなくなってしまう。性質のかなり違う二つの用具を使い分けることによってメイン用具の特徴が逆照射されるに違いない。よく弾む用具を使っている人が守備用ラケットを使ってみることによってはじめて「弾み」を意識できるようになる。

また、硬式卓球しかしていない人は硬式卓球がどのようなスポーツなのか分からない。じゃあ柔道をやってみようというのは飛躍しすぎだ。あまりにも性質が違いすぎるので細かい違いに気づきにくいだろう。そこでラージボールである。ラージと硬式卓球は多くの共通点をもっているが、多くの差異も内包している。硬式卓球とラージは「適度な距離」なのである。

ラージボールを敬遠する人は「勘が狂うから」と判で押したように答える。しかし、この「適度な距離」こそが硬式卓球をより深く理解させてくれるよすがにはならないか。たとえば、最新のひっかかりのいい高性能ラバーなら、ブレードをかなり寝かせても、軽くひっかけるだけで入ってしまう。しかしそれが当たり前なのではなくて下回転のかかったボールというのは、ブレードを立て気味にして打つ、あるいは上方向にこすらないと落ちてしまうものだということをラージは教えてくれる。逆に言えば硬式卓球でボールが「落ちない」ということを意識するためにはラージをしてみるのが一番の近道だということだ。ラージでドライブを安定させようとすることを通じて、どのような打ち方が落ちにくいかが分かる。
さらにラージはボールの減速が激しいので、打球する前に考える余裕が生まれる。どのような打ち方がボールの「摂理」に適うのか、よく考えながら打てる。それらは程度の違いはあれ、硬式のボールにも応用できる感覚だ。ラージをすることは「勘が狂う」のではない、ボールに対する勘を対象化し、より深く鋭いものにしてくれるのだ。

ラージボールは硬式卓球に対する理解を妨げるのではなく、逆に理解を深めるものだと信じている。逆もまたしかりである。