ネットで味のあるラケットの写真を見つけた。

写真家 高橋和幸のブログ

これで現役?というのだから驚かされる。
普通の人はラケットを台にぶつけた傷が複数できて、深さが数ミリに達し、側面がボロボロになってくると、「もう寿命かな」などといってラケットを替えてしまうだろう。しかし、このラケットは数ミリどころか数センチは「減っている」だろう。
これほどの状態になってまで手放せなかった理由が何なのか知りたい。

A) 使いやすい、あるいは非常に性能がいい
B) このラケットでかつて好成績を残した
C) とくに理由はない、なんとなく

こんなところだろうか。

Aは性能的な理由
Bは個人の思い出的な理由
Cは理由がない

というもの。

私は最後の理由のような気がする。
というかこの人には

「ラケットの見栄えが悪くなってきたから替えよう」

とか

「ちょっと自分に合わないから、替えてみよう」

という発想自体がなかったような気がする。

「使えなくなったら、替えるもんでしょ?ラケットって」

とか言いそうな気がする。自分に合う、合わないとかを考え、新素材とか、独特の形状とかいうのに注目し、傷がついたとか、上板がちょっと剥がれたといった見栄えとかを気にして、しょっちゅうラケットをコロコロ変えている自分が恥ずかしい。

自分の可能性を最大限に引き出したいという人が用具に活路を見出して、模索するのなら、用具をいろいろ替えるというのも分かるのだが、私程度のレベルで、ろくに用具を使いこなしていないうちに、次から次へと替えるというのはどうなのか?私的には「何か違う」という感じがする。

もちろん、最近は「用具マニア」という人たちがたくさんいて、いろいろな用具を試して楽しんでいることにケチを付けるつもりはないし、そんな権利もない。

ただ、私は

「このコルベルは、卓球を始めたときからずっと使い続けてるんです。ラバーは両面マークV(中)で、年に一回貼り替えています」

みたいな人にどうしようもなく弱いのだ。なんだかそんなラケット見ると、やさしい気持ちになる。涙が出そうになる。

「与えられたもので満足する」
「それ以外の選択肢があるなどとは思ってもみない」


そんな人に私はなりたい。

【追記】
卓球王国のブログでゆう氏も同じようなことを書いている。

「ミスを用具のせいにするんじゃない」

もう、用具を替えるのはやめようかな。