しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2020年06月

当ブログでは皆様からの寄稿を募集しております。卓球について意味のある主張を発表したい方はshirono.tatsumi◯gmail.comまで原稿をお寄せください。

コメントについて:
コメント欄は他の読者が読んで意味のある情報交換の場としてご利用ください。当ブログの方針(察してください)に沿ったご意見は公開します。返信しにくい場合は公開のみとさせていただきます。指導者ではないので、技術的な質問には答えられません。中傷等は論外です。なお、メールアドレスは公開されません。

もう一つの「理解」

最近、卓球技術動画が多すぎて、いくら見ても、あまり心に響かなくなってきた。
卓球youtuberの人たちもそれを感じているようで、「威力のあるフォアハンドの打ち方」のような単体技術の動画が減ってきたように思う。飽きられないように手を変え品を変え、毎日のように動画をアップするyoutuberも大変だなぁと思う。

「裏面バックハンドドライブ」とか「切れたツッツキ」とか、そういう技術動画を見て、自分の卓球に取り入れようとしても、あまり改善が見られない。やっぱり人の技術を自分の卓球に取り入れるためにはそれなりの継続・繰り返しが必要で、数ヶ月ひたすら取り組まないことにはなかなか身につかない。

論理的な説明というのには限界があって、ある程度までは自身の卓球の改善に貢献するが、実用レベルにまで落とし込むには感覚的な理解が必要になってくるのだろう。
「手打ちはダメ」「こうやって胸の向きを固定して、腕だけ動かしてスイングしても威力も安定性も出ない」
などと頭では理解していても、実戦でとっさに「非手打ち」ができるかというと、なかなかそうはならない。いつでも体幹によってスイングできるようになるためには相当な練習量によって身体に覚え込ませなければならないだろう。

論理的な理解と感覚的な理解というのがあって、両者が相補って技術は向上していくのだと思うが、理解の方法というのはつまるところ、この2つだけなのだろうか。

----------
思えば、私などは、先師寒松室老師の室内で、「隻手音声」の公案に参じて、前後七年間この公案に苦しんだあいだに、自然に久松先生の言われるようなところに突き当たりました。
秋月龍珉『無門関を読む』

秋月氏は著名な禅仏教の研究者である。そんな頭のいい人が「隻手音声」の公案を理解するのに7年間も費やしたというのである。「隻手音声」というのはウィキペディアによると、以下の公案である。

「隻手声あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がするか、それを報告しなさい。)

両手を叩いたら音がする。それは右手と左手の音が合わさったものだ。では右手と左手の音とはどんな音か…「ん?右手の音と左手の音?そんな音はない。なにをバカなこと言っているんだ。」と一笑に付すのは簡単である。しかしこれが禅の試験問題である公案ということになると、何か深い意味が隠されているにちがいない。ちょっと頭の切れる人ならいくつかの解釈をたちどころに出すことができるだろう。それが秋月氏ほどの頭脳を持った人なら古今東西の知識を博捜し、数十、数百もの答案を提出したに違いない。

私も初めのうちは、室内で禅問答のようなことを、あれこれ述べていました。そのうち何も言うことがなくなりました。それで白隠禅師の公案だということから、白隠禅師の書いたものの中に何かヒントがあるだろうと考えて、本を買って来て読みました。

ちょっと考えただけでは歯が立たない。それで腰を据えて考究しようと白隠の著作によって研究を始めたところ

「あんたも気の毒な人だ。生じっか本が読めるので、読んではカス妄想を仕入れてくる。ワシに振られる材料をせっせと仕込んできては、チリリンと振られるばかりだ」

あれもダメ、これもダメ、全て否定されてしまう。こんなことに頭を悩ましていても、何の意味もないと何度も思ったことだろう。が、

室内の老師を見ていると、何か分からぬが私の体験したことのないものを確かに経験していることがはっきり分かるので、やめるにやめられないのです。

これは論理的な頭の理解ではない、何か別種の理解の方法があるということである。そうこうするうちに

「何と言っても、何をしても、いけない」という境地に知らず識らずのうちに追い込まれました。

結局、氏はこの短い公案のために7年もの歳月をかけてようやく「見性」経験を得たということなのだが、この理解は論理的な理解では決してない。もちろん感覚的な理解でもない。ではどのような理解だったのだろうか。

(公案というものは)
「差別」の世界(「自我」を中心に、自他対立の世界)しか知らぬ我々に、差別の根底に「平等」の世界(「無我」の体験による、自他一如の世界)の存することを体認させる目的で用いられています。たとえで申しますと、「色」や「形」(差別)が存在しうるのは、「空間」(平等)というものがあるからでしょう。「空間」は「色」や「形」は有るようなあり方では無いものですが、その「無」なる空間があってはじめてその限定としての「有」としての色や形があり得るのです。

よく分からないが、例えばコンピュータの画面上に点を一つ打つためには、VRAMとそのアドレスという概念を前提として理解しておかなければならないということだろうか?卓球で考えれば、「速いドライブ」と「遅いドライブ」ということを考える前提として「時間」とは何かということを理解する必要があるということだろうか?いや、この程度の浅い、頭だけでの理解では決して辿り着けない、もっと深い理解であるに違いない。そうでもなければ氏が、その「理解」に7年も費やすはずがない。

名選手が必ずしも名コーチではないという言葉があるが、名選手が到達した境地というのは論理では説明できない部分が多々あるのかもしれない。フットワーク練習を毎日行い、「どんな身体の使い方がいいのか」「どうすれば威力のあるショットが打てるか」などというさかしらが脳内から消え失せるほどの猛練習を10年も続けて初めて理解できる境地というものがあるのかもしれない。只管打坐ならぬ只管打動である。

道元

達人の域に達した選手の卓球に対する理解というのは言葉にして人に説明できないような理解のしかたであり、それこそが最も根本的な理解の方法なのではないか。論理的な理解でもない、感覚的な理解でもない、それ以外の理解というものがあるのではないか?ゾーンというのはもしかして…などと考える今日このごろ。

文明の病――テレワークの弊害

今回は卓球には関係のない無駄なお話。
--------
世の中、テレワークが真っ盛りである。
コロナウイルス流行の副産物としてテレワークの普及が挙げられる。
これまでぼんやりと「ネットを使えば、わざわざオフィスに行く必要はないのではないか」などと思っていたものの、実際にそれをやってみようなどという職場は稀だったはずだ。それがいざテレワークを余儀なくされてみると、意外に便利だと多くの人が感じたのではないか。
teleworking

「これならわざわざ電車に乗って職場に行かなくてもいいんじゃないか?」
「いや、むしろ、職場に行くよりも、在宅勤務の方が仕事がはかどるんじゃないか?」

などと私も思ったのだが、テレワークには問題も多いということに気づかされた。

職場のチームの人とメールで意見を交換していると、キツイことを書かれたりすることがある。自分の意見を全否定され、他の人もそれに倣い、否定してくるので、自分ひとりが孤立してしまったかのように感じるのである。

文言の細かい部分も気にかかる。
「そこは『てください』ではなく、『ていただけないでしょうか』だろ!」
「何が、『私だったらこうしますけど』だ!その『けど』はなんなんだ、自分が模範だとでも言いたいのか!」

そして相互不信に陥り、
「価値観の違う人間に何を言っても無駄だ。あいつらとはもうこれ以上関わりたくない…。」

挙句の果てに必要最低限の事務連絡しかしないような冷たい関係になってしまう。

こんなことはテレワークではしょっちゅうである。この間も私のウェブミーティングの呼びかけに対し、「その時間帯は都合が悪いので、参加しかねます」「今、どうしても集まる必要性がありますか?」などとつらい返信が相次ぎ(その「かねます」ってなんなんだ?感じワル!)、私もうんざりして召集を取り下げたのだが、その後、感じの悪い回答をよこした、にっくき一人が私に電話をかけてきたのである。

「この間のウェブミーティングの件、どうもすみませ~ん。どうしても外せない用事があったもので~。」

その声を聞いて、私の彼女に対する敵愾心は解消された。あれだけぬぐいがたく心の奥底にこびりついていた感情が一瞬にして蒸発したのである。

なんだ、別にイヤな奴でもなんでもないじゃないか、彼女。テレワークになってから、「ついに本性を現したな!」などと思っていたが、話してみたら、以前の信頼のおける彼女のままであった。電話の声を聞いただけで人の評価がこんなにも変わるなんて我ながら驚きであった。

最近、人気女子プロレスラーが自殺?したというニュースが話題になっているが、言葉というのは本当におそろしい。自殺した彼女に中傷メッセージを送った犯人たちも、軽い気持ちで「キモい」だの「消えろ」だの書いていたのだと思うが、それを受け取った相手は恐怖心や憎悪を掻き立てられ、それらの感情は時間が経つにつれて増幅していくものである。音声を伴わない字面だけのメッセージというのは、多くの場合相手にネガティブな印象を残してしまいがちである。

日本語の場合、丁寧さを表す敬語表現が豊富で、文末に「ね」とか「よ」などの終助詞がつくので、他言語に比べて自分の態度や気持ちなどを伝えやすいはずである。それでもメールのような音声を伴わないコミュニケーションの場合は誤解や相互不信に陥ることがままある。これらの主観的な表現に乏しい英語や中国語では、どうなのだろうか?

仕事帰りの一杯、という昭和の習慣が少なくなってきたのは喜ばしいことだと思っていたが、顔を合わせて腹を割って話す機会がなくなってしまうと、それによってうまく回っていた人間関係も回らなくなってくる。一見無駄に思える行為を排除して、効率の良さやエッセンスだけを追求すればするほど、私たちの精神的な健康はむしばまれていく。効率というものは、無駄な行為があって初めて成り立つものなのかもしれない(前記事「膾炙練習」)。卓球でも効率のいい練習メニューをこなすだけでなく、利き手と逆の手でラケットを握ってみたり、トリックショットなどのゲームをやってみるという「無駄な」練習も必要だろうし、ときにはみんなで遠足に行ったり、昼ご飯をいっしょに食べたりという機会も必要だと思う。そういう経験があって初めて有益な練習というのが意味を持ってくるのだと思う。

テレワークは効率性というものを意識させてくれると同時に無用の用の存在というものも気づかせてくれた。ネット上のコミュニケーションは今後も有効性を持ち続けるだろうが、これが行き過ぎると人々を深刻な人間不信に陥らせることになるだろう。


最新記事
記事検索
プロフィール

シロノ タツミ

カテゴリ別アーカイブ