しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2019年10月

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早田ひな選手のポジティブさ

「負けて落ち込むということが無い」そう切り出す早田の達観した考え方、挫折の乗り越え方からは、学ぶところが多い。

「勝って得るものより負けて得るものの方が多いと思っているんです。実際、負けて見つかった課題で取り組むべきことは、勝ったときの倍以上ある気がします。そして、『これができたら次はこの選手には勝てる』と思いながら練習することで、次の試合にうまく入っていけると思います」。

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最近の練習で非常に調子が悪く、落ち込んだ。
体が思い通りに動かない。ボールがとんでもないところに飛んでいく。

「ラバーを替えたせいだ」「湿気のせいかも」などとも考えたのだが、そのような不安定な原因ではなく、自分に根本的に欠けていた点があったと認めるべきなのだ。

試合に負けて「これで自分の課題が見つかった」「自分の問題点を洗い出しておくことができてよかった」とポジティブに考える早田選手の態度に見習うべき点は多い。

惜しいひな
ドイツオープン1回戦で陳幸同選手にフルセットで惜しくも敗れたときの早田選手。

そういえば、前記事「苦しみはみほとけ…」 で同じようなことを主張したことがあった。まさに失敗は成功の母である。

ただ、いつもいつも失敗ばかりだと、さすがにうんざりしてくる。ときどきはうまくいかないと、そうそうポジティブにはなれない。「あれも問題」「これもできていない」と問題が山積みの私の卓球のような場合はどうすればいいのだろうか。前記事「苦しいけど、次の電柱…」で述べたようにすべての課題を前にして途方に暮れるのではなく、目の前の課題だけを見て、それを一つずつクリアしていくというのがいいだろう。

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今朝のニュースで千葉県の人が大変な目に遭っていると知り、心配である。大雨で家を損壊したり、車を失ってしまった人も多かったようだ。心よりお見舞い申し上げる。


折合還帰炭裡坐

若い頃、西田幾多郎と鈴木大拙に憧れた。
あれこれ本を読んでみたが、全く歯が立たなかった。

考えて見ると、人間ほど不思議な存在はない。自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫をする。何のための一生かと怪しまざるを得ぬ。「動く」もの、すなわち「働く」ものから、「見る」ものの世界に飛び入りしたのは好いが、またその「見る」ものを独立の存在と見て、それを「働く」ものから隔離してしまうことになった。公案禅の奴となったものは、この種の人々の一例である。「働く」ものから出て「見る」ことのできた人は、今一度「働く」ものの中に却来しなければならないのである。「折合還帰炭裡坐」(折合して還って炭裡に帰して坐す)とあるではないか。自分はこの句を愛する。(鈴木大拙による『公案』(ちくま学芸文庫)の序)

「自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫をする。」という文句が身につまされる。

コーギーもブルドックもシェパードもチワワも犬である。私たちはそれを誰かに教わらずとも直観的にみんな「イヌ」と理解できる。あれだけ姿形が異なっているにもかかわらずである。なぜ見た目があれほど異なっているのに同じ「イヌ」だと思うのか。それはわれわれがイヌのイデアを持っているからだとプラトンは言った。人は理想的で完璧な「イヌらしいイヌ」というイメージを脳内に持っていて、そのため多種多様なイヌを「イヌ」だと認識できるのだという。このイデアこそが真実在であり、イデアを知ることが知の完成形だと考えられた。正義のイデア、美のイデア、真実のイデアといった抽象概念にもイデアを設定し、それをあれこれ考えることが哲人の仕事となった。

だが、そんな小難しいことを考えなくても、朝起きて、食事をして、働いて、家族と過ごすという平凡な人生の中にだって真実はあるではないか。まさに「花は紅、柳は緑」なのである。

私たちはふつうに卓球をしていると、おかしなことを考え始める。

「もしかしたら、今話題のラケットを使ったら、自分の潜在的な可能性を引き出せるのではないか。」
「はずまない粘着ラバーを使って、自分の卓球をイチから見直そうと思う。」

用具ではなく、他のところに問題があるのはうすうす気づいているのだが、用具を替えることで何か自分の卓球が改善されるのではないかという考えに取り憑かれ、あれこれ用具を替えることに没頭し、自分の本当の問題の解決を先送りしてしまう。私もよくこんな「わな」を自ら作ってその中で「もがき苦しむ」。

また、

「ドライブを打つときに肩甲骨を使うと、威力が倍増するらしい。」
「地面反力を使って自分の筋力以上のボールを打たなければ。」

こんなことも私はよく考える。体の使い方とか、ラケット面の角度とかをいろいろ考えては試してみる。しかし、何らかのコツを掴まえたと思ったとたんにそれは手のひらをすり抜けていく。こういうことの繰り返しである。

先日、初級者の女性と練習して、また「指導」をしてしまったのだが、彼女の卓球を見て急に目が覚めた。「炭裡に帰して坐す」に如かずと。

「台上のチャンスボールを打つときは、しっかりと台の下に足を入れ、ボールを引きつけて、手でうつのではなく、少しでも腰を使って打ちましょう。面の角度を伏せてはいけません。タッチは弾くようなタッチで。スイング方向は下回転の影響を受けないように斜め上方にラケットを振り切って、その後は…。」

この説明が正しいかどうか怪しいものである。しかし、とにかく私のできる限りの「指導」をしてみたのだ。
彼女は緊張しながら私の送る台上のちょっと浮いたボールをフリックしようとするのだが、何度やってもミスである。ミスの原因は私の「指導」が間違っていたからというよりも、打つ直前まであれこれ考えすぎて、打点を頂点より落としてしまっていたということに尽きる。

軽い下回転のかかった、浮いた台上のボールを打つには、高い打点こそが大切であって、その他のことは大して重要ではない。私の説明などすべて忘れて、ボールの頂点を見定めて軽く撫でるように打てばボールは台に入るはずだったのだ。もし私が要らぬ「指導」などしなければ、彼女は自分でいろいろ試してミスせず台上のボールを打てるようになったはずなのである。

私の「指導」というのはつまるところ、「花は紅に見えるけれど、本当にそうだろうか?実は黒なのではないか?」などと言っているのに等しい。

用具でも、打法でも、考えすぎるのは失敗の素である。そんなに難しく考えなくても、当たり前のことを続けていれば、おのずから正解に辿り着ける。いろいろな正解があるのだから。



張一博選手の上の動画を見て、印象的だったのは「打つ前に角度を決めて」というくだりだった。

一博1

一博2

一博3

「(フリックでは)最後の最後で角度を調整するのはダメ」

これは私のことを言われているようだと感じた。私は打つときにいつも新しいことを試そうとして落ち着かない。「こうやったほうがもっといいショットが打てるのではないか?」などと打つ直前まで考えている。ひどいときは打ちながら考えている。だからラケット面も安定しないし、戻りも遅くなってくる。

「折合して」というのは、文脈からすると、あれこれ難しいことを考えるというような意味に解釈できるが、そんなことをしていても、結局は家に「還って」、「炭裡」の前に座って晩飯を作っている自分がいるというわけである。高いボールは高いうちに打てばいいし、打った後は速やかに次のアクションに移ればいい。そこで「この花は黒いのではないか?」などと考えて、花の色をあれこれ吟味するのは「自分で作ったわなの中に飛び込んで、自分でもがき苦しみ、またそれから飛び出る工夫」なのである。

こちらが打てば、すぐにボールが返ってくるから、それにそなえて移動すると同時に準備して、余裕を持って高い打点で打球する。こういう当たり前のことが「折合して」ばかりいると見えなくなってくる。


インソールの穴――卓球選手の「勲章」

アンドロのクロスステップというシューズが話題になっている。

なんでも、今までのシューズと全然違って、足がよく動くようになるらしい。私もこれを履けば少しは足が動くようになるのだろうか。ちょっとほしいとは思うが買うわけにはいかない。私が今履いているシューズは特に不具合もないし、まだまだ十分履けるのだから。しかも、スペアのシューズもあって、交互に履いているのだが、一向に履きつぶれない。いったいどのぐらい履いているだろうか。少なくとも丸3年は履いているはずである。そして次にはアシックスのシューズ、バタフライのシューズ、フットサルのシューズなどの新品のシューズが控えており、とても新たにシューズを購入するなんて考えられない。

シューズって丈夫だなぁ。以前履いていたTSPの安いシューズも何年履いてもつぶれず、薄汚れて、臭くなってきたのでようやく捨てたのだった(ちなみに靴のニオイには熱湯が効くらしい)

平野友樹インソール

賢二選手のブログで見つけたのだが、これは平野友樹選手のインソールということである。大きな穴が平野選手の練習量の多さを物語っている。痛々しいというか、ここまで見事に穴が開いていたら、かえって清々しい感じである。いわば卓球選手の「勲章」である。平野選手が何年もこのインソールを使い続けたとは思えない。おそらく数か月、いや、もしかしたら数週間かもしれない。平野選手が足のどの位置に力を入れているかがよくわかる。私は今までインソールにこんな大きな穴を開けたことがない。

平野選手は身長167㎝、体重63㎏ということだから、私よりもずっと小柄で体重も軽い。それなのにどうしてこんなに大きな穴が開くのだろうか。毎日数時間質の高い練習をしているのだから当然だと思われるかもしれないが、私だって3年以上同じシューズを履いているのである。ここまで立派な穴は開かなくても、申し訳程度の控えめな穴の一つや二つ開いてもいいではないか。しかしそんな私のシューズはそんな「勲章」とは無縁である。きっとフットワークがいい選手はみんなインソールにこんな立派な穴を開けているのだろう。

もうそろそろ私の現役シューズにも引退していただきたいと思う。そのためにもなんとしても「勲章」を刻み込んだ上で引導を渡したい。

私のフットワークは、人と比べて踏みにじる力が弱いのだと思う。平均的な踏みにじる力が100だとすると、私は50~60ぐらいで、足裏全体でやさしく床をとらえているから穴も開かないのだろうと思う。拇指球や親指に力を集中させて、平均レベルの「踏みにじり」を数ヶ月も続ければ、きっと私でも穴を開けられるに違いない。

というわけで、これからはしっかりと踏ん張ってフットワークをしようと心に決めたのだった。

が、こんな動画があったのを思い出した。



なんと、踏ん張ることによってフットワークが遅れていくので、移動時はあまり踏ん張ってはいけないというのである。ただ、xia氏は打球時は別かもしれないと言っているので、打球時にはある程度踏ん張っても良さそうだ。しかし、打球時でも無理に踏ん張ると、戻りが遅れて、フットワークも遅れていきそうな雰囲気である。

古武術卓球の布袋氏の動画を見ても、移動時にがんばって床を強く蹴るよりも、軽く上方向に足を上げるだけというフットワークを推奨している。



一体どういうことなのだろう?
平野選手のフットワークは踏みにじる力が非常に強いから、フットワークも速いのだという前提があって、そのために踏みにじる力を高めようと思っていたのだが、卓球では踏みにじる力が強すぎると、かえってフットワークに支障をきたすということのようだ。

となると、今まで通り、あまり踏みにじらずにフットワークをしたほうがいいということになる。
下の動画にあるようにまずは1、2、1、2、というリズムで戻りを早くするということからやってみようかと思っている。



足が動くと上が動くわ
「足が動くと、上が動くわ」

ピンレモさん、また動画に復帰してくれると嬉しいのだが。

足惜しみ――私なりの省エネ卓球

サッカーで自軍のキーパーがボールを敵の陣地に向かって大きく蹴り上げたとき、そのボールを追いかけて全力で走るというのはサッカー選手にとってふつうのことだろう(たぶん)。ボールを敵に奪われたくないからである。

ロングキック

卓球ではどうだろうか。

「バック側に来たボールを回り込むのはリスクがあるから、バックハンドで打とう」

「台から離れると、ストップされるから、あまり下がらないでおこう」

私は足を使うことに消極的である。なんとかして足を使わずに済む方にばかり考えを巡らせてしまう。省エネ? そのセーブしたエネルギーを私は一体どこに使うというのか。試合が終わっても体力は十分すぎるほどに残っている。プロの選手のように台の端から端まで何メートルも連続で素早く動くというわけではない。回り込みの数10センチ、バック側からフォア側までの2~3メートルを1回だけ。このぐらいなら中年でもなんとか動ける範囲ではないだろうか。その労力をどういうわけか私は惜しむ。

「相手のサーブがバック側に来た。台から出そうだ。間に合わないかもしれないが、全力で回り込んでみよう。」

「相手のレシーブはストップかもしれない。あるいはチキータで打ってくるかもしれない。前に出るか、後ろに下がるか、どっちだ?その判断は一瞬だ。短距離走の選手がスタートの合図と同時に全力で走り出すのといっしょだ。」

1球ごとにこんなふうに感覚を研ぎ澄ませ、判断が下されると同時に前後左右にダッシュする。こんな卓球をしていたら、1試合でクタクタに疲れてしまうだろう。しかし、スポーツというのは本来そういうものじゃないだろうか。そのぐらい全力で取り組んでこそ清々しい達成感を味わうことができるのだ。1試合終わって、大して汗もかかないというのでは卓球の楽しさも半減だろう。

回り込んではみたものの、間に合わず不自然な姿勢で棒球を送ってしまった。こういう経験から私は「なんとかして回り込まずに済ませたい」と思うようになったのだろう。しかし、こぼれ球を追って、必死で走ってみたものの、奪取できずに敵にボールを奪われてしまったサッカー選手が「全力で走って損した。これからは、こぼれ球を取りに行くのはよそう」などと考えるだろうか。スポーツというのは何度失敗してもあきらめずに全力で走りまわってボールを追いかけるものではないか。

そう考えると、私はなんとつまらない卓球をしてきたことよ。卓球は手よりもむしろ、足をよく使うスポーツだったのだ。

山中教子氏も言っていたではないか、「ちゃんとボールのところまで体を運んで、タイミングを合わせて、しっかり入るように自分の体で打てばいい」と(前記事「動作の楽しみ」)。ちゃんと足を使って動くことが卓球の前提なのである。

よし、これからは「足惜しみ」をせず、一瞬一瞬、全力で足を使うぞ!

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そのような覚悟で先日の練習に臨んだのだが、現実はやはり厳しかった。

相手のサービスが台から出るか出ないかを少しでも早く察知し、2球目で回り込んでドライブをかける、3球目も同様に台から出るか出ないかに神経を集中し、回り込みなり、バックドライブなりで先手を取るという卓球をしてみたところ、50~60%ぐらいの確率でうまく先手がとれ、いい展開になった。しかし、1ゲームを終わった頃には集中力が切れ、足も重くなってきた。

1試合でクタクタになるどころか、1ゲームでクタクタだ。こういう卓球でこそ「省エネ」をすべきだったのだ。相手のサーブを2球目で全部回り込むつもりで待つのは体力的に厳しい。そこで相手のサーブの2本のうちの1本は回り込むつもりで待つ――つまり、足を使うのを惜しむのではなく、攻撃的な姿勢を間引くことにしたのである。3球目も2本に1本は無理をせず、ツッツキなどを厳しく送って相手に軽く打たせて、カウンターを狙うようにする。これでうまくいくかどうかまだ検証中だが、そのうち判断が早くなれば、体力への負担も減り、ほどほどに「エコ」な卓球になるのではないかと思われる。


節制は勝利のもと

どうして自分は東山高校卓球部を出ていないんだ。いや、別に東山高校でなくてもいい。どうして関西学生リーグ1部や2部の大学の卓球部を出ていないんだ。そんなことを試合後に考えたりもする。強豪校出身の学生の卓球、それはたとえレギュラーでなかったとしても、彼らの卓球は私たちの卓球とは全く次元が違う、ということを試合に出るだびに思い知らされる。私が一生卓球を続けても到達できない地点に彼らはいる。

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試合
イメージです。

先日久しぶりに試合に出て、さんざんな結果だったのだが、明らかに私の卓球とは次元の違う卓球をしている大学生たちがいた。ほとんどフォアで動き回り、台から離れて豪快な打ち合いをする卓球である(といっても全日学とかに出られるレベルではない)
そういう生きの良い学生たちに60代の老練な片面ペンのオジサンが勝ってしまったりするのも、卓球のおもしろいところである。

試合後、そのオジサンと話をする機会があって、どうしてあんな化け物(私のレベルから見ると)みたいな学生に勝つことができるのかを聞いてみた。

オジサン曰く、
「そらぁ、ボールの威力とかはとんでもないで、回転もすごいしな。我ながら、あんなドライブ打たれて、ようブロックが止まったもんや。サーブもめっちゃ切れてるんや。ちょっと触ったらピュンと飛んでまいよる。それをあっちは回り込んで、フォアドライブでズドンッや。」

「しかしな、あいつは自分がサーブにどんな回転をかけてるか分かってへん。とにかく目一杯切れば切るほどいいと思っとるから、こっちのレシーブが予想したところに返ってこーへんで、びっくりしたりしよる。オレは自分がサービスにどんな回転をどのぐらいかけとるかちゃんと把握しとるから、レシーブもどんなもんが返ってくるかだいたい分かる。それでミスが少なくなる。あいつはそういうところがまだ分かっとらんさかい、オレに負けるんや。」

サーブは切れていれば切れているほどいいし、ツッツキもドライブも、回転がかかって、スピードが速ければ速いほどいい、と私は思っていたのだが、強すぎる回転や速すぎるボールは時には自分のプレーを損ねかねない諸刃の剣になりうるのである。自分の対応できる範囲を超えた回転やスピードは、こちらの想定を超えた返球を招いてしまい、時にはミスにも繋がる。

この話を聞いて思い当たることがある。

私も同じようにサーブに回転をかけすぎて、相手のレシーブがこちらのエンドぎりぎりの高いボールだったり、自分のかけた横下回転サーブをつっつかれて、回転がそのまま返ってきてしまい、打とうにも打てなかったり、ということがある。全力のドライブを打ったはいいが、体勢が崩れてしまい、次のボールに対応できなかったり、台上で低くて速いフリックを打ったが、コースが甘く、鋭いブロックが返ってきて返球できなかったり。というか、そもそも自分の限界近いボールを出そうとすれば、ミスする可能性もおのずから高くなる(前記事「軽打礼讃」)。

練習のときは夢中になって限界近くまでスピードやスピンを追求するのもいいが、試合の時は節制をこととすべきである。自分の限界からある程度マージンをとることで、相手のボールも予想しやすくなり、ミスも減る。自分の打ったボールが相手にどのような影響を与えるのか、相手がどのようなレシーブをしやすいのかを把握できないようなショットは試合においては慎まねばならない。


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