しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2019年05月

とある練習風景。

10分ぐらいに時間を区切ってお互いに練習したい課題での練習。

「バックドライブからの展開を練習したいので、こちらのサーブをバック側につっついてください。それをそちらのバッククロスにバックドライブを打つので、そこからオールでお願いします。」

相手が格下で、あまり強く打つとラリーが続かないから、ほどほどのスピードの安定性重視のバックドライブからゆるくラリーを続ける。こういう練習をして、だんだん慣れてくると、相手の人は、つっつくと同時に回り込んで、こちらの打ったバックドライブに対し、フォアでカウンターを試みてくる。

「ありえない…。」

実戦で、こちらのバックドライブを回り込んで前陣でフォアカウンターするというのは一か八かの博打行為である。そんなショットが決まる可能性は相当低い。初心者に毛が生えたような人に限ってこういうありえない行動を取る。もちろんそんなショットが入るわけがない。しかし10球に1球、偶然入ることがあって、その「成功」がますます相手を勇気づけ、その「練習」に駆り立てる(その時間はこちらの課題練習の番なのに)

カウンターなんて私のレベルでそうそう打てるものではない。あれはたまたま相手の打つコースをうまく誘導でき、球種やタイミングが予想どおりだったときに限って打っていいショットであって、初中級者がふだんから打つようなシロモノではない。

私は常にそう思い、自分を戒めてきた。たとえ相手に「打たれる」と分かっている瞬間であっても、私は手堅くブロックで対応すると決めている。胸のすくようなスーパーショットが10球に1度決まるよりも、50%以上の確率でブロックしてラリーを続けるほうがよっぽど生産的ではないか。カウンターなんて打つのも打たれるのも大嫌いである。

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嫌い、というか私の苦手なものはダブルである。ダブルではラリーが続く気がしない。シングルならある程度ラリーが続き、卓球らしいプレーもできるのだが、ダブルとなるとろくにラリーが続かない。なんてことのない台上のツッツキをミスしてしまったり、シングルなら確実に止められるドライブもブロックミスしてしまったりする。
そもそも一つのボールを二人で交互に打つなんて不自然すぎる。ボールを2球使ってラリーを続ける(もちろんシングルで)という曲芸を見たことがあるが、ダブルというのはそのような曲芸に近い超絶難度の種目だと思うのである。

コーナーのたびにドライバーとナビゲーターが運転を交代しながら走るラリーというのが想像できるだろうか。

rally

ドリブルを1バウンドずつ2人で交互に行いながらプレーするバスケというのは競技として成立するのか?

卓球のダブルというのは、そのような曲芸じみた不自然なことを行っているのであって、上級者のような熟練した技術がなければ「卓球」として成立しない。初中級者には難易度が高すぎる。神経を集中させ、一瞬の判断の遅れが命取りになる卓球で、1球打つごとに打ち手をパートナーに渡し、自分は休む。反対に自分が休んでいるところへ唐突に打ち手が回ってくる。こんなこと、できるほうがおかしい、ダブルはシングルの息抜き、仲間との絆を深めるためのレクリエーションの一環。そう思っていた…。

先日の練習で久しぶりにダブルでゲーム練習をすることになった。
かわり映えのしない、いつもの下回転ショートサーブからゲームが始まる。それを相手が無難につっついて私の打つ番になるのだが、フォア前ぐらいに返球されるかと思ったら、バック奥に深くつっつかれてしまい、つまって私がミス。はぁ~、こんなツッツキでポイントが決まってしまうなんて情けない。次も同じようなショートサーブから始まる。今度はほとんど切らないナックルサーブだったのだが、相手が払うようなそぶりを見せたので、ブロックで止めようと思ったが、反応が遅くて、また私のミス。パートナーに申し訳ない。そうこうやっているうちにだんだんダブルのタイミングに慣れてきて、凡ミスが減ってきたのだが、どうしてもこちらから攻められない。相手が先に攻めてきて、こちらはそれをなんとか棒球で返すことしかできない。まるで役割が固定しているかのような試合である。相手は一方的に攻める役、私たちはそれをなんとか拾い続けて相手のミスを待つ役。全く勝機が見いだせない。「先に攻めなければ」とは思うのだが、ミスしないようにするのが精いっぱいで、どうしても攻められない。
ダブルは、台上の段階は非常に窮屈でイヤである。そういう心理もあってか、上回転のラリーになってから、つまり4球目以降は私もパートナーも少し台から距離を取って展開していることが多い。そのポイントもそんな展開だった。相手が3球目で先にボールを起こし、上回転のラリーになると、すぐに私は一歩下がり、相手のドライブに備えていたのだが、冷静に見てみると、相手のドライブはそれほど速いボールではないことに気づいた。相手も交互にボールを打ちながら動いているので、ポジショニングがしっかりできていなかったり、予測外のボールが来たりして、万全の姿勢で打てないことが多いからである。

「ブロックのつもりで待っていると、ちょっと時間を持て余すかもしれない。あのボール、カウンターできるんじゃなかろうか。」

私は中陣とまではいかないが、台のエンドから1メートル以上離れていたので、相手のドライブをカウンターする時間的な余裕があった。そこで相手が打つ姿勢になったのを確認すると、そのボールを狙ってカウンターを打ってみたのである。入った!この試合で初めてこちらから攻められた!
もしかしたら、ダブルでは相手のドライブをカウンターで狙っていけばいいのではないだろうか。それからは、私は相手が起こしてくるボールをほぼすべてカウンターで狙うことにした。もちろん打てない場合やミスする場合もあったのだが、カウンターを狙っていくと、おのずとタイミングを早くしなければならなくなる。相手が打った瞬間にバックスイングを完了させておかなければならない。そのように打つ姿勢、心的態度が早まると、たとえカウンターが打てなくても、ポジショニングも早くなり、ボールに届く位置まで素早く移動できるようになる。
今までは「打たれるんじゃないか…」とビクビクしながら、なんとか相手のボールに合わせるのに精いっぱいだったのが、カウンターを狙おうと待っていると、こちらから攻められるチャンスが増えてくる。ダブルってこういう心の持ちようが有効なんじゃないだろうか。いや、ダブルに限らず、シングルでもすべてカウンターを狙う心構えでいれば、判断が早くなり、急に相手に打たれてもしっかりブロックできるのではないか。

レベルが高くなれば、そうそうカウンターなど打てないだろうが、心構えとしていつでもカウンターを打つつもりで待っていると攻めるチャンスが増えてくるのではないかと思う。

ちょっと前のWRMやっすん氏の動画。



女子離れしたとんでもなく強い選手だなと思ったら、最近までエクゼディの選手で、今はコーチをやっている人だった。どおりで強いはずだ。
田中彩能




お名前は田中彩能氏。この動画は全日本上位レベルの選手がこれまでどのような練習をしてきたかをインタビューしたものである。

中高――仙台育英時代は、ひたすら基本練習をしていたのだという。この時期は身体の効果的な使い方を習得する期間だったと言えよう。ミスせずに延々とラリーを続けるような練習だったのだという。
もちろんゲーム練習もあったが、それよりはフットワーク練習、サーブからの展開、レシーブからの展開の練習がメインだったようだ。インターハイで団体優勝するようなレベルの人たちでさえ(だからこそ?)基本練習ばかりしているのである。それに対して私のような草卓球レベルの人間はオール練習やらゲーム練習ばかりしている。何かがおかしい…。私は何か大きな間違いを犯しているのではないだろうか。私が遅々としてなかなか上達しないのは「身体の効果的な使い方」を身につけていないせいではないのだろうか。

大学は早稲田で、そこでは特定の指導者に習ったわけではなく、自分で考えながらチームメイトに教えてもらいつつ練習していたらしい。
今までは指導者の言うとおりに卓球をしていたが、大学では自分で勝てるスタイルを築き上げなければならない。田中選手はバックハンドが得意だったのだが、バックで決めるスタイルではなく、あえてフォアで決めるスタイルに変えたのだという。

なぜそんな回り道をするのか。バックが得意なら、バックで決めるスタイルが一番勝てるはずなのに。

それに対するやっすん氏のコメントがよかった。得意な技術(バックや台上、ブロック等)を決定打として使うのではなく、チャンスメイクとして使うのは、非常に有効なスタイルなのだと。なるほど、確かに何もないところからチャンスを作るのと、打てるボールを確実に決めるのを比べると、前者の方が難しい。それで得意な技術をチャンスメイクに使うというわけである。

社会人になってからは日本リーグ所属のエクセディでプレーするようになった。

そこで監督(あるいはコーチ?)に言われたのは、ガッツいてすぐに攻めようとせず、ある程度「距離をとって」ゆっくり打ったほうがいいということだったという。

つまり、少しでも早く攻めたい、相手つけ入る隙を与えたくないというのは誰もが思うことだが、無理な速攻をしかけるのではなく、少し間をとって打つようにしたということである。

田中選手はそれを実践することによって自身の卓球が大きく変わったのだという。

曰く「相手が見えるようになった」と。

今までは自分の技術――ドライブの威力とか、コースの厳しさとかを向上させるのに精一杯で自分のことしか見えていなかったのだが、ゆっくり打つようにしたら、相手の考え、相手の狙いといったことがよく分かるようになったということだろうか。

これはなんだか人生にも通じるものがある。

社会人になると、基本的に仕事はそれぞれの人に任されている。上司や先輩も忙しいので、向こうから手取り足取り教えてくれるわけではない。自分でできる仕事を探して、自分で方法を探りながら、責任をもってやらなければならない。社会人になったばかりのころは、絶対にミスできないと思いつめて、毎日あれこれ準備をしたり、忘れていることがないか必死で確認したりしていて余裕がない。ストレスがたまり、つい周りの人に厳しくあたってしまうこともある。

それが中年になると、仕事の全体像も見えてきて、ミスも少なくなる。心の余裕が生まれてくる。そうすると、周りの人たちのことを思いやる余裕も出てくる。余裕を持ちすぎてミスすることもあるが、「なるようになるだば」と気楽に構えている。若いころには全く見えなかったことが、中年になるといろいろ見えてくるようになる。

いい動画を見た…茶店で霧がかった富士を見た太宰治の気分である。

卓球動画は技術動画や試合動画が多いが、それ以外の方向性を探ったものとして、トップ選手に今までの卓球人生を語ってもらう「むらじの部屋」がある。「むらじの部屋」も非常に内容が濃く、勉強になるが、今回の「やっすんの部屋」もいい動画だった。わずか15分程度の動画なのに満足度が高い!次回作が楽しみである。


ずいぶん昔に大会に出たときのこと。

「次の相手はメチャクチャ強いカットマンですよ。」

そんなことを聞かされて、攻撃型の強い人でなくてよかったとホッとした。

同じ強い人なら、全く攻撃させてもらえず一方的にやられるよりも、ある程度攻撃させてもらえるカットマンのほうがマシだ。どうせ負けるだろうが、少しはカット打ちの練習になるかも、などと思っていたのだが、いざ対戦すると、その「カットマン」はなんと私との試合中に1~2本しかカットを引かなかったのである。サーブは取れないし、レシーブでこちらが打ちにくいところに打っても結局先手を取られて一方的に打たれて惨敗である。あれが本当にカットマンなのか…?

その人は大会の終盤で歯ごたえのある相手にはしっかりカットを引いていたのだが、実力差がありすぎる相手には普通の攻撃型の選手のようにふるまっていた。イメージ的には陳衛星選手のような感じだった。こういう人が強いカットマンなんだろうな。

chen weixin

私の周りには、いわゆる前陣速攻型のペン表の人がいるのだが、その人は型通りの人で後ろに下がらずドライブを打たず、フォア主体である。後ろに下がって攻撃したときやドライブを打ったときなどは「またやっちゃった」と反省している。

「いやいや、中陣からの攻撃も威力がありましたよ。ドライブも裏ソフトの人と違って回転量が読めないので、案外効果があるんじゃないですか?」

とコメントしてみると、ペン表のいいところがなくなってしまうので、できるだけ下がらず、ミート打ち主体でゲームメイキングをしたいのだそうである。なるほど、たしかに前陣の早いピッチでバシバシ打っていくのは表ソフトらしくてかっこいいとは思うけれど、前陣でも中陣でも攻撃できて、ドライブも打てて、スマッシュも打てたほうがいいのではないだろうか。上手な人なら「対ペン表対策」というのがしっかりできているので、型通りの戦術だと老獪な相手には「型に嵌められて」しまうのではないか。

私はたぶん「ペンドラ」という戦型に分類されると思うが、フォア主体でちょっと下がって大半のポイントでドライブを打つという型通りの卓球では意外性がなく、格上には勝てないと感じる。それよりはドライブも引くけれど、台上やスマッシュでも得点したいと思う。

「趣味がないのが不安だから、何か趣味を持ちたい」とか「好きなアイドルの一人もいないのはちょっと…」という人の心理に似ているのかなと思う。自分には戦型がない、というのが不安だから、既存の「ドライブ主戦型」「ペン表速攻型」「カット守備型」などといった型にできるだけ自分を近づけたいという心理の人が多いのかなと思う。

型から離れてしまうと、きっと何か不都合もあるんだろうとは思うが、どんな相手にも一つの型で戦うのではなく、相手のタイプに応じて型を少し変えられるような卓球ができればと思う。冒頭のカットマンのように。といっても私が相手によって戦型を完全に変えて、カットマンとして戦うというのではなく、ペンドラという型のままでも、ときにはその型から離れ、相手によっては台上の細かい展開を工夫したり、あるいは自分から先に攻めずに、先に相手に下回転を起こさせてスマッシュしたりと、そういう戦型の幅のようなものが私の卓球にもあればと思う。




「しろのさんはマスターズとか出はらへんのですか?しろのさんならチャンスあるんじゃないですか。」
などとおだてられて、うっかり「マスターズ予選に出てみようかな?」などという考えが頭をかすめたことがあるが、よく考えたら、チャンスなどあろうはずがない。ああいう全国大会につながっている大会には東山卓球部のOBをはじめ、化物のように強い人が出てくるのだから。

東山高校卓球部で3年間卓球をやっていた人なら、ふつうはたとえ中年になってもおそろしく強い。私のように中学時代まででやめてしまい、中年になって卓球を再開したような人間とは根本的に違う。向こうがサラブレッドなら、こちらは農耕馬である。勝てるはずがない。

しょせん、中年の草卓球である。これからいくら努力しても、上達できる伸びしろは高が知れている。全国レベルなどには到底到達できない。

こんな卓球を続けていて、いったい私は楽しいのだろうかと自問してみる。

われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり


楽しいに決まっている!
一生全国大会に縁がないとしても卓球ほど楽しいことなどないではないか。

私は、毎日部活で3~4時間もレベルの高い練習をしている学生のような「樹」にはなれない、へたくそな「草」である。そして多少は上達するときもあれば、なかなか上達しないときもある。いや、練習時間の大半は上達しない、停滞しているときなのである。試行錯誤を繰り返し、内に何かを萌しつつも、それが表には表れない状態である。だが、上達しないときは上達しないことを受け入れ、上達できるチャンスがめぐってくれば、思い切り上達しようとがんばるのである。

われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり
毎年かはらず 緑なり
緑の己れに あきぬなり
われは草なり 緑なり
緑の深きを 願うなり


若い人のようなフットワークもなく、速いボールは連打できず(1本ぐらいなら打てる)、なんとかミスせず入れるのが精一杯のオジサン卓球である。若い人は日に日に目に見えてうまくなるが、私は去年と同じような進歩のない卓球をしているように感じる。しかし、それでも卓球が楽しくてたまらない。こんな卓球でも私なりの深さで追求しようと思う。

ああ 生きる日の 美しき
ああ 生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす
草のいのちを 生きんとす


卓球をしている、それだけで楽しい。生きていると実感できる。
ヘタクソなりに、卓球をしていると、あるとき自分でも信じられないようなスーパープレイが飛び出したりする。

「今、私は何をしたんだ?こんなショットが私にも打てるのか!」

今のプレーを再現したい。どうやったらコンスタントにできるようになるのだろう。たぶん、さっきのフォアドライブは、ボールを打つ直前に一瞬、上体を沈め、膝にグッと力を込め、伸び上がりながらドライブを打ったのだと思う。ということは、膝を固定点にして打てばいいのではないか……

これだから卓球はやめられない。自分の限界がどこまでかなんてどうでもいいことさ。

zassou

フットワーク練習といえば、フォアサイド、バックサイドに一本ずつ送ってもらい、それをフォアで動いて打つとか、3点に送ってもらい、オールフォア、あるいはフォアで2点、バックで1点を打つとか、そういう練習を思い浮かべる。
上級者はみんなこのようなフットワーク練習をしているのだから、きっと上達に必要な要素がいくつもあるのだろう。そう思って私もこの手の練習を試みるのだが、続かない。すぐに振り遅れてきて、ステップも遅れがちになる。
まぁ、中年のオジサンがこんな練習をするなんて無謀なんだろうな。
しかし、卓球でフットワークが大切なことは言うまでもない。だからフットワーク練習をしたいと思って、フォア半面にランダムに送ってもらってフォアで動きながら打つということをしてみるのだが、これもボールのスピードが上がってくると、すぐに追いつけなくなってくる。

フォア半面でもだめか。

もうやけくそで、今度はバック半面で、オールバックのフットワークをしてみることにした。
すると、なぜかよく足が動く。もちろん大きく動くことはできないのだが、小さく、細かく動くフットワークが気持ちいい。

「若者じゃないんだから、こういう小さなフットワークで十分じゃないか。」

しかし、どうしてバックのフットワークのときは足がよく動くのだろう。
省みると、バックハンドのときは、フォアハンドのようにラケットをブンブン振り回さずに、バックショートのように軽くラケットを押すだけだった。そうすると、ラリー中のボールも速くならないし、足に意識が向きやすい。

私の仮説はこうである。

人間の意識の容量は一定量に決まっていて、腕と足を同時に大きく複雑に動かすと、意識の容量が不足してしまい、どちらかの動きが疎かになるというものである。あたかもメモリの少ないPCで多くのアプリケーションを同時に開くとリソース不足でフリーズしてしまうように、人間も一度に身体の複数の部分に意識を割くと、動かなくなる。

リソース不足


オールバック練習の場合は、前腕を軽く動かすのと、足を小刻みに動かすという2つの動きだけに意識を割いていたため、フットワークが止まらずに機能したのではないか。フォアハンドをつかったフットワークの場合は、しっかりとドライブをかけて、いいボールを打とうとして、身体のいろいろな部分に指令を出しながら足を動かすということをしていたため、ボールに遅れてしまっていたのではないか。

しかし、「上級者はフットワークを止めずに質の高いボールが打てるではないか」という反論もあるかもしれない。それは上級者の場合は上半身か下半身か分からないが、どちらかの動きを無意識に行えるほどに身体に染み付いているからだと思う。歩きながら本を読むとき、我々は歩くという下半身の動きにほとんど意識を割いていないはずである。そのとき本の内容にだけ意識が行っている。それと同様のことが上級者のフットワーク練習で起こっていると推測される。

ということは、初中級者がフットワーク練習をする場合は、上半身の動きを最低限のものにして、まだ習熟していない下半身の動きに意識を割かなければならないのではないだろうか。

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