しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2018年07月

連日の猛暑で熱中症で倒れる人が続出という報道をよく耳にするが、3~40年前と比べて日本の気候はそんなにも変わってしまったのだろうか。たしかに数字の上では現在のほうが暑いのかもしれないが、私にはそういう実感があまりない。3~40年前の日本だって夏の暑さは相当なものだったと思う。おそらく昔と違ってあちこちにエアコンのある環境が当たり前になってしまったので、肌寒い部屋から急に炎天下の屋外に出るといったことを繰り返した結果、人体の体温調節機能が未発達な子供が増えているのではないだろうか。昔の子供は暑いのが当たり前の環境の中で鍛えられていたので、暑さに耐性ができていたように思う(もちろん昔も熱中症で倒れた子供はいたが)
長刀鉾
今年の祇園祭(前祭)も暑かった
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今日はお世話になっているNさんのお宅にうかがって、昭和の東山高校の練習についていろいろお話をうかがった。

しろの「Nさんが高校1年のときはどんな練習をしていたんですか?」
Nさん「7月までは球拾いとトレーニングしかやらんかったんや。先輩が練習してる台の後ろで中腰になってな、ボールが飛んできたら、それをサッと動いてキャッチして、すぐに先輩に渡す。キャッチし損ねたりしたら、部活が終わってから正座で説教や。それで7月までに部員の半分がやめてしもた。」
し「つまり3年生が引退するまでボールを打たせてもらえなかったということですね。」
N「そうや。厳しかったでぇ。今の高校生だったらとても続かんわ。」
し「じゃあ、夏休みになって、台でボールが打てるようになったらどんな練習をしたんですか?」
N「ずっと先輩の打つボールを止めたり、3点に回したり、先輩のサーブをつっつく役や。自分の練習なんか全くでけへん。おかげで守備がうまくなったけどな。送るボールが指定された位置から10センチもずれたらめちゃくちゃ怒られたんや。」
し「それでよくインターハイに行けましたね。」
N「守備がうまくなると、卓球が底上げされるいうんかな…。こういう技術を早い段階で身につけとかんといくら練習しても伸びへんで。」

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非常に耳の痛い話である。
私は守備技術――とりわけブロックが苦手である。
というのも、上手な人のドライブをブロックする練習をほとんどしていないからなのである。オジサンになると、周りに強烈なドライブを打ってくれる人が非常に少なくなる。しかも10分ごとに課題練習をするということになると、私はいつも攻撃系の練習を選択してしまう。試合で即効性があるのが攻撃の練習なので、つい守備の練習をおろそかにしてしまう。しかも社会人になると、上手な人はたいていこちらに合わせてこちらに練習させてくれる。上手な人が全力で攻撃して、それをこちらに止めさせるなどという場面がほとんどない。下手な人はやたらと攻撃したがるが、そういう人の攻撃は安定もしないし、威力もないのであまり守備の練習にならない。

1年生の夏から2年生の夏(3年生の引退)までの丸1年間、来る日も来る日も体力的に充実した若者の全力の攻撃をミスなく止め続け、しかも厳しいボールコントロールを要求されていたら、いやでも守備技術が上達することになるだろう。それだけ守備力が高くなれば、上手な人から練習相手を申し込まれることも増えるだろうし、結果として質の高い練習もできるようになる。私は守備が未発達なのでよく分からないが、守備が上手くなると、試合でもこちらから攻撃できるチャンスが増えてくるのではなかろうか。

社会人になって守備を徹底的に練習する機会のなんとありがたいことよ。こういう機会の豊富にある学生は幸いである。


中国の方に中国ラバーについていろいろ教えていただいたので、紹介したい。

まず、このラバー。一般的に「国狂」と言われているナショナルチーム向けのラバーである。

国套

というか、そもそも「狂飈」という字を中国語でどう読むか知らなかった。「キョウヒョウ」と言っても、中国人には通じないに決まっている。中国語の発音を知りたいと思い、聞いてみた。

kuang biao

2声と1声である。「クァンビャオ」。カンピョウにちょっと近い発音である。「キョウヒョウ」のほうが私にはかっこよく響く。変に通ぶって中国語の発音をするよりも、「キョウヒョウ」と発音するほうがかっこいいという結論に達した。

次に上の「国套」という文字についてである。「国」はもちろん国家代表チーム用という意味である。では「套」とは何か。これは、ラバーという意味なのだが、漢字の意味としては「重ね」という意味である。なぜ「重ね」がラバーの意味になったかというと、いにしえはラバーのシートとスポンジが別々に売られていて、それを自分で貼り合わせなければならなかったのだという(このへんの情報は中国の方の話を正確に伝えられているか自信がない)。そして「套」というのは、スポンジとシートを予め貼り付けて売られてるものという意味なのだそうだ。たしかに現在のラバーはスポンジとシートが予め重ねてある。それで「套」が「ラバー」の意味になったのだという。

「重ね」が「ラバー」の意味になるなんて、そんな無茶な!

と思われる方もいるかも知れないが、日本語でも「表ソフト」や「裏ソフト」のように「ソフト」がスポンジとシートを合わせたラバーの意味になっているので、人のことをとやかくいえた義理ではない。

ちなみに「国套」の発音は

guo tao

2声と4声である。日本語で読むなら「コクトウ」。やはり日本語よみのほうがかっこいい(私には)



「私は、年下の美誠(伊藤)ちゃんや美宇(平野)ちゃんたちの中にいて、彼女たちに追いつこうと必死にやってきたんです。強い選手、勝ち続けている選手は緻密ですし、総合力が高い。私はひとつが飛びぬけているけど、ダメなものも多い。…」森園美月選手インタビューより)

「緻密」という言葉が目に留まった。強い選手は卓球が緻密なのだという。

緻密というのはどういうことなのだろうか。

私がまずイメージしたのは戦術の緻密さである。「フォア前に切れていないサーブを出して、クロスへのフリックを誘い、それをフォアドライブでストレートかミドルにカウンターで狙い打つ…」のようにサーブから3球目、5球目の展開を計算しておき、相手の打球を先回りして待ちかまえているといったふうに緻密なのではないかと想像していた。

しかし、もしかしたら、それ以外の緻密さのことを指しているのかもしれない。

 
Q. なぜ、ボルは強いのか? vol.1
https://www.youtube.com/watch?v=JVaYNWj2how&t=0s

たとえば、上のティモ・ボル選手の衰えない強さを解説した動画の中で、こんなことを言っていた。
「数cmの差にこだわってサービスを出すのが私のサービス戦術でそれが自分の最大の長所だと思います。」
Boll selfcommentary

数センチといえば、ボール1個分以下(おそらく)である。第一バウンドなら誰でもそれぐらいの精度で出せるかもしれないが、回転量を変えながら第二バウンドまでコントロールするのは難しいだろう。さらにボル選手はコースをあちこちに変えながら数センチの誤差で出すというだから、一般愛好家がそうそう真似できるものではない(当たり前か)。

次に最近見たWRMの動画である。やっすん氏の動画はいつも内容が深く、教えられることが多いが、今回も非常に有益な動画だった。
やっすん氏がフォア側2/3の範囲のフットワーク練習で意識しているポイントを公開してくれた。


やっすんが大切にする、フットワーク練習の意識とは
https://www.youtube.com/watch?v=SGSmVs3iSCA&t=132s

「どこからどこまで動くのかという基準をはっきりさせることですね。」

たとえば、フォア側2/3の範囲をオールフォアで動くというフットワーク練習の例でいうと、


フォアの身体の位置
「フォア打つときはこの辺」

ちょうどセンターラインのあたり(ややフォア寄り)に身体の中心がくると、フォア角にラケットが届く。
そして今度はバック側のボールをフォアで打つときなのだが、

バック側の身体の位置(悪い例)
「動いているつもりで、(実際は)腕を伸び縮みさせながら打っている方がいる」

あ…これはまさに私のことだ。
バック側に動くとき、下半身のことを忘れてしまい、まずラケットをボールに当てることばかり考えた結果、十分移動できず、中途半端な状態でラケットを振ってしまい、詰まりながら打ってしまうのだ。

バック側の身体の位置(良い例)
「同じような(身体の)ポイントで打つには、この辺まで動かないといけないんですよね。」

うすうす感づいてはいたが…詰まらないでバックサイドのボールを打つためには、やはり身体が台の外側に出るまで動かないと、ダメなのである(成人男性の場合)

やっすん「これすごい意識してます。」

私はバック側に来たボールを打つとき、どこまで身体が移動すれば(足を動かせば)打てるかなんてことは意識せずに感覚で動いてしまい、よく詰まってしまう。上級者は、なんとなくそこまで動いているのではなくて、「ここまで身体を移動させれば、ここのボールが打てる」のようにしっかり身体の位置とボールの打てる位置の関係を意識して動いているのである。逆に言うと、そういう距離感を強く意識しないと、つい横着して十分動ききれないまま打ってしまうということなのだ。

上級者はこういう数センチ、あるいは十数センチの違いを決してないがしろにしない。しっかりと自分の中で意識している。振り返って私はどのポイントでボールをバウンドさせて、どこまで足を動かすといったことにとんと無頓着である。これでは卓球がうまくなるはずがない。

「いや、世界トップレベルの超上級者や、全日本に出場するような上級者と一般愛好家は違う」

という意見もあるかもしれないが、少なくとも一般愛好家でも一定のコースへのサービスなら第一バウンド、がんばれば第二バウンドも一定の長さにコントロールできるはずである。回り込みのときの身体と台の距離感だって愛好家でもある程度は決めておくことができる。

仕事で締め切りを守って書類を提出したり、遅刻しないで出社したりといったことは社会人なら誰でもできるはずである。こんなことだってよく考えてみたら、かなり緻密な行動である。平凡な社会人だって毎日いろいろなことが起こる。締め切りの2日前に大きな書類上のミスが発覚したとか、朝起きたら、炊飯器が壊れていたり、うっかりクロックスを履いて電車に乗ってしまったり(私も実際にこういうことがあった)とか。そんなときでもなんとか締め切りを守って書類を提出できるし、遅刻せずに会社にたどり着けるではないか。そのような仕事での精度を卓球で発揮できないことがあろうか。

冒頭の森園選手の言う緻密さというのはこのようなレベルにとどまらず、卓球のあらゆる場面をカバーしているのだと思うが、最近、レシーブしたボールをネットからどのぐらいの距離に落とすべきかということとフットワークに興味があったので、このような点のみを取り上げてみた。

地震の次は大雨…。
京都市の街中はまだ被害らしい被害はないと思うが、西の桂川、東の鴨川のどちらも増水し、危険水域に達しているらしい。市内の山沿いの地域は避難勧告等が次々と出され、予断を許さない状況のようだ。

三条大橋
朝、増水した鴨川を見に行ってしまった。

大雨で仕事が休みになったので、最近ぼんやり考えていることなどを記事にしてみようと思う。結論は出ないので、問題提起だけである。今回も卓球には直接関係ない記事で恐縮である。

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こんなニュースが気になった。

 政府は5日に決定した「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)の原案で新たな在留資格を設けることを明記し、外国人労働者の流入拡大を認める方針を示した。対象を実質的に単純労働者の領域にも拡大し、50万人超の受け入れ増を見込む。外国人労働者の受け入れに関し、専門職に限定していた従来からの方針を事実上、大幅に転換することになる。(ロイター 2018年6月6日 / 16:19

農業、介護、建設、宿泊、造船の分野で人手不足が甚だしいため、政府はここに外国人労働者を投入するという計画らしい。日本語でのコミュニケーションがとれない単純労働者も受け入れるのだという。当面、帯同(家族の呼び寄せ)はないということだが、日本での生活が安定すれば、家族を呼び寄せるというのは自然な流れだろう。自国の政情が不安定だったり、貧困から抜け出せなかったり、カーストなどの差別が根強く残っている国で差別にさらされる生活を送るより、日本での生活のほうがはるかに住みやすいと感じるにちがいない。

そうなると問題になるのが子供の教育である。

両親ともに日本語が話せず、日本語が全くできない子供がいきなり日本のふつうの小学校に入ることになるわけだが、日本にはそのような子供を受け入れる環境が整っているとはいいがたい。先生だってどう扱っていいか分からない。先生の指示が全く通じないことさえあるだろう。あるいは多少言葉が通じたとしても、文部省から下りてくるカリキュラムをこなすことができるとは思えない。イジメに遭うこともあるだろうし、なかなか日本社会に溶け込めないかもしれない。

これは私の杞憂ではない。すでにそのような現実が日本のあちこちにあるのである。

A県某市の、とある小学校。そこは学年の約半分の子供が外国にルーツを持つ子供である。日本語が全く分からない子供もいれば、日本語でコミュニケーションをとり、日本人の子供と仲良く遊んでいる子供もいる。しかし、彼らは一様に学校の授業についていけない。友達との会話なら流暢にこなせる子供もいるのである。だが、教科書の内容を理解する段となると、とたんについていけなくなる。カナと、せいぜい簡単な漢字しか読めない。いや、文字自体の読み方が分かったとしても、それらが連なると、どのような意味内容を表すのか分からなくなる。何度読んでも頭に入ってこない。喩えて言えば私たちが難解な哲学書を読んでいるような感覚だろうか。

知人のCさんがそういう子供の教育の専門家で、詳しく話を聞かせてもらう機会があった。
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C「この間、その小学校に招かれて、授業を見学したんですが、やっぱり子供たちは授業の内容がほとんど分からないようでしたよ。」

しろの「それじゃあ、先生は困るでしょうね。大前提として文科省のカリキュラムに沿って授業をしなければならないというのがあるけれど、それをしたら、外国籍の子供を完全においてきぼりにしなければならなくなる。教室にただ座っているだけの『お客さん』になってしまう。かといって、そういう子供たちに合わせて授業をしたら、日本人の子供たちはほとんど勉強にならないし、日本人の親たちが黙っていないでしょうね。子供たちを分けて、日本語の理解力の低い子供だけの特別クラスを作るということはしていないんですか?」

C「そういうのはなかったですね。分けたところで、ポルトガル語、中国語、ベトナム語、タガログ語等の外国語をスイッチしながら授業できる先生なんていないでしょ。日本人といっしょのクラスでした。」

し「それじゃあ、子供たちは授業の内容がちっとも分からず、そのうち不登校になって平日の昼間から街をフラフラするようになったり…。」

C「それが、みんなまじめで、分からないながらも、ちゃんと授業を聞いて、ノートをとったりしていましたよ。」

し「でも、授業内容が分からない子がほとんどなんでしょ?毎日日本人と一緒に授業を受けていたら、自然に分かるようになったりするものですかね?」

C「それはないでしょうね。だから何か対策を講じなきゃと思って私が呼ばれたわけなんですよ。先生たちもほとほと困っていて、藁にもすがりたいって感じでしたよ。」

し「こういう日本語の理解力の極端に低い子供たちが日本人といっしょに勉強するにはどうすればいいんですか?」

C「どうすればいいと思います?」

し「外国の移民政策や移民教育の本を読んだりして、参考にしてみる、とか?」

C「まず子供たちが今、どんなことが理解できないかを突き止めることですよ。問題の解決法は専門家や研究書の中にはないですよ。どうやって教えるのが一番いいかなんて私には分かりません。子供たちのことを一番よく知っているのは、私じゃなくて担任の先生でしょ?答えは子供たちの中にあるんですよ。」

し「なるほど。とすると、えらい先生が考え出した便利な指導理論があって、それをクラスに当てはめて解決!ではなくて、一人一人の子供と向き合い、先生が一人一人の問題――理解を妨げているものは何かを把握し、それを一つ一つ解決しながら、手探りで授業を作っていかなければならないということになりますね…気の遠くなるような作業に思えますが。そんなことできるんですか?」

C「できないからみんな困ってるんですよ…。」

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イメージです。
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この問答を卓球で考えるとどうなるだろう。

社会人の地域のクラブでは、中高の部活でガッツリやってきた中級者と、年配になって卓球を始めたばかりの初心者とがいっしょに練習するという状況も珍しくはない。中級者の練習を優先すれば、初心者の居場所がなくなり、かといって初心者の練習を優先すれば、中級者はクラブを去っていくだろう。この両者を満足させる便利なクラブ運営法というのがあればいいのだが、あいにくそういう便利なものを私は知らない。

一体どうすればいいのか。

誰か一人ががんばればうまく回るというほど簡単な問題ではない。結局、メンバー全員が知恵を出し合って、問題を一つずつ解決していくしか方法がない…。

先日、「卓球以外のことも考えてみたほうがいい」と言われ(前記事「ボールを当てる位置」)、たまには読書でもしようと図書館を訪れた。

といっても、足は自然とスポーツ関連図書の書棚へ。

あいにく卓球書の新しいのは見当たらない。卓球書でないなら、かさばる本は読みたくない。持ち運びに便利な新書か文庫がいい。新書本で何か卓球関係の本、いや、他のスポーツ関連の本でもあるかと思って探してみたのだが、「これだ!」というものは見つからなかった。

しかたがない。たまには卓球に関係のない読書でもしてみようか。

昨今の新書本は本当に多彩で、あらゆるテーマを網羅しており、知的好奇心をいくらでも満たしてくれそうである。若いころは私もこういう本に興奮したりしたのである(前記事「「用具愛」からの解放」)。しかし、年を取ると、新しい知識を得たいという意欲に乏しくなる。新書本の棚を見ても手に取ろうという気にさせる本がない。東京の繁華街を歩いていて、人の多さに酔ってしまうということがあるが、それと同じようにびっしり並んだ本の背表紙を見ているだけで、本に酔ってしまいそうである。

文庫本の棚を見て、ちょっと気になる本を見つけた。

山田美妙の『いちご姫・蝴蝶』(岩波文庫)である。
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山田美妙は、名前は言文一致との関連でよく聞くが、作品は読んだことがなかった。若いころ、読んでみようと思ったこともあったのだが、文庫本では読めず、全集などにあたらなければならなかったので、めんどくさくてあきらめた覚えがある。しかし最近は岩波文庫で手軽に読めるのである。

この1冊だけ借りて、早速冒頭に収録されている「武蔵野」という短編を読んでみる(なお、あとで気づいたのだが、青空文庫でも手軽に読むことができた)

南北朝時代を題材にした坂東武者の話で、何てことのないストーリーの話なので、若い人には楽しめないかもしれないが、中年が読むと、その当時の価値観や表現が偲ばれて興味深く読むことができる(前記事「卓霊さま」)。長さ的にも手軽に読めるので、いい読書をしたという満足感を覚えた。

そこに登場する秩父と世良田という親子の武者は南朝に志があり、新田義興の陣に加わろうと武蔵野を縦断し、鎌倉へ参じるというのが前半のストーリーである。スタート地点がどこなのかはっきりしないが、近めに見積もって、今の千代田区あたりから鎌倉まで徒歩で向かうというのは、現代の私には信じがたい難業に思える。約70キロの距離である。手ぶらで70キロ歩くというのなら、私でもなんとか歩けそうだが、鎧具足に身を固め、弓矢を背負い、太刀を佩き、さらに食料や水、その他の日用品などを携帯しながら歩くとなると、いったいどのぐらいの重さになるのか。ネットで調べてみると、鎧だけでも2~30キロはあったという。
さらに舞台は戦乱の世なので、あちこちに伏兵が潜んでいる。道路も貧弱だっただろうが、あえて人の歩かぬ道なき道を行かなければならない。

このごろのならいとてこの二人が歩行あるく内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱ちがやの音や狐の声に耳をそばたてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々かろがろしく歩行あるかない。生きた兎が飛び出せば伏勢でもあるかと刀に手が掛かり、死んだ兎がみちにあれば敵の謀計はかりごとでもあるかと腕がとりしばられる。

その苦労はいかばかりだったか。が、当時の人にはこの程度のことはちょっと骨は折れるが、日常の延長にあったことなのかもしれない。

当時の武者の生活に思いをはせると、

重装備で一日に何キロも歩かねばならず、ときには山道を歩いたり、ときには全力疾走をしなければならなかっただろう。そんな日常を送っていると、ほんのわずかな身体の使い方の差が生死を分けることもあったに違いない。歩くときもただ足で歩くのではなく、上半身をうまく使えば疲労が少ないとか、刀を抜くときの肘や肩の使い方とか、そういう身体の効率的な使い方――「技」を豊富な経験から学び、それらが軍内で共有され、年長者から年少者へと伝えられていく。命がかかっているのだから、その習得には真剣にならざるをえない。

最近、古武術の卓球への応用が注目を集めているが、古武術の「技」というのは、あるいはこういうところに起源があるのかもしれない。

こう考えてみると、近代以前の社会では当たり前だった身体の使い方が、現代の私たちには失われてしまっているという気がしてならない。最近の都会の小学生はスキップができない子も珍しくないという話を聞いたことがある。これは極端な例にしても、重い荷物をもって長時間歩いたり、走ったりという経験が少なくなった現代は効率的な身体の使い方の伝統も途絶えてしまっているのではないか。私の亡くなった祖母は信州の山間の生まれで、戦前の話だが、ふもとの工場に通勤するために朝、薄暗い時間に出発して、数時間かけて山道(というか、半分、獣道)を歩いたのだという。毎日、朝晩にハードなトレーニングをするようなものである。こんなことを数年も続けていれば、いやでも疲れにくい、効率のいい動き方が身につこうというものだ。そういう経験の豊富な古老と山歩きでもしてみたら、多くの発見があるのではないかと思う。


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