しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2018年04月

当ブログでは皆様からの寄稿を募集しております。卓球について意味のある主張を発表したい方はshirono.tatsumi◯gmail.comまで原稿をお寄せください。

コメントについて:
コメント欄は他の読者が読んで意味のある情報交換の場としてご利用ください。当ブログの方針(察してください)に沿ったご意見は公開します。返信しにくい場合は公開のみとさせていただきます。指導者ではないので、技術的な質問には答えられません。中傷等は論外です。なお、メールアドレスは公開されません。

僕らはみんな振り遅れ――バック対オール実践記

ミスにもいろいろあるが、いちばん大きな原因はインパクト時のラケット角度が不適切なことだ…と思っていた。

練習の時にコースを決めてドライブを打つときは気持ちよく打てるのだが、実戦ではたいてい気持ちよく打てない。それを喩えていえば、切れ味の悪い包丁でニンジンやゴボウのような固い野菜を切っているような感じである。サクッと気持ちよくドライブできない。それで力をこめると、かえってネットに引っ掛けてしまう。練習のときのドライブはあんなに切れ味が鋭いのに…なぜだ。

最近、私がよくする練習はバック対全面のラリーである。
本当はふつうの切り替え練習がしたいのだが、フォア2本、バック2本とか指定すると、相手がブロックの上手い人でないと続かず、あまり効率的な練習ができない。それで私はずっと相手のバックにボールを送り、相手はランダムでこちらの全面に返球するという切り替え練習である。もちろん順回転のボールである。下の動画を見たことの影響もあるかもしれない。

 
https://youtu.be/w_Hxa3-08UQ?t=22

バック対オール

「昔からやってるのは、バック対オールですね。向こうはバック、僕は切り替えでオール」

この練習は「動きの練習」である。だから速いボールで4~5往復打つよりも、「ミスしないように6~8割の力で打つ」ことによって数10往復、延々と続けるのがいいようだ。そしてこの練習の優れた点は

「試合中のあらゆる動きが含まれている」
「その場面に最も適した(前後等の)位置を知ることができる」

ということである。

しかし、本当にこの練習にはそんなに効果があるのだろうか。たしかに中級者には効果があると思うのだが、数々のタイトルをものにしてきた日本卓球の革命児、岸川星也選手が今でも続ける価値がある練習だというのが信じられない。

岸川選手とは全く意識のレベルが違うが、私もこの練習を続ければ、私なりに上達するのではないか。そんな思いから私もバック対オールに挑戦することにした。

見た目よりも難しい練習だろうということは取り組む前から想像がついていた。そこで初めは軽いフォア打ちのようなゆっくりしたスピードから試してみたのだが…全く続かない。フォア・バックとゆるいボールを送ってもらうと3~4往復ぐらいはいけるのだが、そこにミドルが混じってくると「あっ」と一瞬判断が遅れ、体勢が崩れて詰まってしまう。そうすると体勢をリカバーできないまま、次のボールも変な姿勢で打ってしまい、ボールに振り回されているといった感じになり、ミス。ゆっくりやってもせいぜい5~6往復ぐらいしか続かない。なんという難易度の高さ。

どうしてこんなに続かないのか。その原因が振り遅れにあることは明らかだった。ハエが止まるほどのゆっくりしたボールでも私はボールが自分のコート?に入って初めてバックスイングをとっているのだから、振り遅れるのは当たり前である。もっと早い段階でバックスイングをとらなければならない。
とはいえ、行うは難しである。どこにくるか分からないボールを一瞬で判断し、反射神経の早さでバックスイングをとろうとしても間に合わない。卓球は反射神経の早さが勝敗を左右するイメージがあるが、実際には反射神経がいかに無力かということを思い知らされた。

想像してほしい、相手が多球練習で全面にスマッシュを打ち、それをこちらが前陣で拾うというムチャな練習を。
oka hiromi

バック対オールというのはスマッシュほどボールスピードは速くはないが、いわばそんな感じの練習である。相手はフォアからバックまでどこでも自由に打っていいが、それをこちらが拾う練習なんてそうそう続くわけがない。

だが、上手な人はみんなこんな練習ができるのだから、工夫すればもっと早く反応できるに違いない。どうすれば間に合うのか。バックスイングをできるだけ小さくすればいいのではないか。強く打つ練習ではないのだから、最低限の力で打てば十分である。バックハンドは軽く押すだけ、フォアのバックスイングは体側(自分の体の横)まで持ってこないで、体側よりも前方で終わるようにしなければならない。腕をほとんど使わず、ほぼ体幹のひねりだけを使ったおそろしく小さなスイング…やってみたが、全く効果がなかった。

次にスイングを止めずに円を描くようにスムースにすればいいのではないかと考え実践してみた。これもほとんど効果はなかった。というのは、スイングを止めずにスムースに素早くやろうとすると、早すぎて今度は相手が打球する前にこちらがバックスイングを完了してしまうことになってしまうのだ。そうすると、こちらが急いでフォア側にバックスイングを引いたにもかかわらず、相手にバック側に打球されてしまい、完全に逆を突かれることになる。この方法もダメだ。

むしろ、スイングの後、すぐにラケットを戻すのではなく、少し身体の前方でラケットを待機させておいたほうがいい気がする。早くフォアなりバックなりに引ききってしまうより、身体の前方にラケットがあったほうが、フォア・バックどちらに打たれても素早く引ける。逆を突かれることがない。打球した後、体の前方でラケットを静止させておけば…いや、しかしこれでは振り出しにもどったようなものだ。これで間に合うとも思えない。

いろいろ試行錯誤して到達した結論は、相手のラケットを見続けるというやり方だった。相手のラケットから目を離さず、相手が打球するときの面の角度からフォアに来るかバックに来るかを判断し、素早くバックスイングをとるというものである。もちろん一瞬たりとも目を離さないというのは難しい。こちらがインパクトする50センチほど前でボールの位置をチラッと確認しないと、うまく打てないので、一瞬だけ目を離すが、それ以外はずっと相手のラケットの面の角度を見続けるのだ。

そうすると、今まで平均して3~4往復しか続かなかったラリーが5~6往復以上続くようになった。体の動きが止まらず滑らかにフォア/バックの切り替えができるようになってきた。さらに練習を続け、慣れてくると平均10往復ぐらいラリーが続くようになった。これはいける!だんだん余裕が出てきたので、ゆるい、初心者のような打球ではなく、ある程度速い(5割ぐらいの力で)ボールでラリーを続けてもなんとか対応できるようになってきた。そしてこの練習を続けるうちに私の中で何かが変わった。

もしかしたら、私のミスの原因の大半は微妙に振り遅れているから…なのか?

【続く】


木造勇人選手によるバックハンドのコツ

木造勇人選手による「イケメン卓球道」



バックハンドの強化をしたいと思っていた私は何か参考にならないかと動画を見てみた。

木造バックハンド

なんと力のこもったバックハンドだろう。
手首の利かせ方がすごい。私はバックハンドで手首を使うと面がぶれるので、できるだけ使わないようにしているのだが、木造選手のバックハンドは面のブレをおそれず、手首の返しを全力で行っているように見える。

ナレーション「練習のポイントは?」

バックハンドのコツ

明らかに、手首だな。



からだ全体

「からだ全体を使うことです」

え?手首じゃないのか?体全体を使いながら、最後に手首の一点に力を集中するとか、そういうことじゃないのか。

その後の解説にも手首への言及は一切なし。

あんなに手首をブルンブルン使っているのに手首への力の込めようとか、そういうことは気にしないのだろうか。

こういうことを以前どこかで聞いたことがある。

加藤美優選手(日本ペイント)のスイング感覚をご紹介させていただく(以下卓球レポートより引用)。

”バックスイングでは、結果的に手首をひねりますが、私は「手首を自分からひねらない」ことを心がけています。(中略)ラケットを自分の方へ引けば手首は自然にひねられるので、自分から意識的に手首をひねることはしていません。”

いかがだろうか?
注目なのは、見るからに手首をひねっているのに、自分から意識的に手首をひねっているわけではないということだ。このように、外から見てそう見えても、選手のスイング感覚は全く違う場合がある。

 

この動画のことだろうか。
加藤美優選手のバックハンドを見ると、手首を必死で使っているように見える。これが加藤選手自身の意識としては「手首を自分からひねらない」というのだからビックリである。前腕を振ろうとすれば、手首が自然に「振れる」ということは、手首をいかに力ませないかが大切なのかなと思う。

木造選手「利き腕だけで打とうと思っている人もいますが、フリーハンドでうまくバランスを取って打球することを意識して練習します。全身を使ったほうがいいバックハンドが打てると思います。」

そうだったのか。
木造選手といい、加藤選手といい、手首はほとんど意識しないでバックハンドを振っているようだ。
木造選手のバックハンドはひじを外に張り出してボールにぶつけるように打つ、当てこするような打ち方で威力と安定性が高そうだ。参考になった。

【追記】180502
バルサミコ氏の「卓球界の大嘘…」で腕の外旋について説明されている。非常に有益な記事なので、バックハンドが安定しない人は読んでほしい。
バックハンドで腕を旋回させるのは、王皓選手のように内旋させる人もいるが、私は外旋させるほうがしっくりきた。

卓球の地域格差

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由 知られざる「文化と教育の地域格差」

という記事を読んで非常に共感したので紹介したい。

筆者は釧路市で高校まで過ごした87年生まれの男性。両親はどちらも中卒以下。浪人して東大の文3に進み、今はアメリカで院生をやっているという。

釧路市は、見渡す限り畑が広がり家屋が点々と建っている、というほどの「ド田舎」ではないものの、若者が集まる場所といえば「ジャスコ」しか選択肢がなく、もっともメジャーな路線のバスは30分に1本しか来ず、ユニクロやスタバがオープンすると大行列ができるような、ある種の典型的な田舎町だ。

kushiro
釧路市の中心部は写真で見るとかなりにぎやかな感じの街だが面積が大きいので郊外はかなりさびしい感じなのだろう。筆者はそのような郊外の出身かと思われる。

「田舎」というと、緑が豊かな田園風景や、山の中の集落などを連想するが、そこまででなくとも、人口10万前後の小さな街ではどこも同じような環境だろう。私の出身地も同じような環境だったので、彼の育った環境が容易に想像できる。

たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。見たことがないから知らないのである。

私も田舎から京都に出て来て本当に驚いた。特に洛中は町全体がなにかしら学校で習う歴史や文化に関係があるのだ。織田信長の墓所だの、在原業平の生家を示す石碑だの、そんなものが数百メートルごとに見つけられる。下賀茂神社や二条城、蛤御門といった建物も実際に残っている。関東の人間が高校で日本史や古文などを紙媒体の教材で学ぶのと、京都の人が同じ内容を学ぶのとではその濃さが全く変わってくるだろう。京都の人はそれらを具体的な地理感覚やイメージとともに学んでいるのである。また、京都は人口比率で言えば、たぶん日本で最も国際的な街なので、町中のいたるところに英語が見られるし、耳からも入ってくる(実際に耳から入ってくるのは中国語のほうが多いが)ので、英語の学習にもある程度アドバンテージがあるかもしれない。

そして京都にはあちこちに大学があって、無料の講演会だの演奏会、演劇の公演、展覧会といった文化的なイベントには事欠かないし、わざわざそんなことをせずとも洛中を散歩すればそれだけで立派な文化的イベントが成立するのだ(歴史的な知識さえあれば)

京都に限らず、関西から九州にいたる西日本には歴史的な舞台となった地域が少なくないが、東日本には教科書で教える歴史や文化と縁遠い地域が少なくない。今は何でも関東中心で、関西は元気がないというイメージがあるが、それは経済的な面でのことあり、文化的には関東はいまだに関西に大きく水をあけられていると感じる。

東日本の多くの地方都市には文化らしい文化がない。少なくとも私のふるさとには文化的に誇るべきものは何もなかった。そして記事にあるように文化に金をつかおうという発想がないし、教育にも申し訳程度にしか金をつかわない。パチンコや車のドレスアップなどに金をつかう若い人が多かった。

高校生の頃の私が「大学」と聞いたとき思い浮かべることができたのは、「白衣を着たハカセが実験室で顕微鏡をのぞいたり、謎の液体が入ったフラスコを振ったりしている場所」という貧しいイメージのみであった。

釧路にも大学は存在すると書いたが、しかし子供たちにとってそこは病院などと区別されない「建物」にすぎず、「大学生」という存在にじかに出会ったことは、すくなくとも私は一度もなかったし、また私の場合は親族にも大学卒業者が皆無だったため、高校卒業後の選択肢として「大学進学」をイメージすることは、きわめて困難であった。


私も同様の経験を持っている。私の出身地から車で30分ほど行ったところに無名大学というのが一つか二つ一応あったが、ただの建物としか認識していなかったし、大学生というものに会ったことがなかった。大学に入るまでは大学というのは高尚でありがたい、人類の知の粋を教えてくれるところというイメージを持っていた。大学に入れば高級な人間になれると思っていた。

いわゆる「底辺」と形容される中学に通っていた私には、高い学力を持ちながらも、その価値を知らず道を誤ってしまった親しい友人を多く持っていたため、むしろ自らが手にした幸運の偶然性に寒気がしたものであった。

私のまわりにも非常に優秀で人当たりもよく、人間的なポテンシャルの高い友人が何人もいたが、そういう人たちは高校に入ると偏差値的に並みの人になってしまい、地方の国立大か、日東駒専、大東亜帝国といった大学に入っていった。おそらく彼らが東京で育ったなら、ふつうにやってもMARCH、ちょっとがんばれば早慶上智ぐらいには入っていたものと思われる。偏差値はしょせん偏差値にすぎないとはいうものの、やはり偏差値的に高い大学に入ると将来の選択肢が広がり、その後の人生を豊かにする可能性が高いと思う。

田舎の何が問題かというと、高いレベルのものに実際に触れたり、目にするチャンスがないということである。そのため自分がそのレベルに実際に手が届くというイメージが湧いてこない。自分の人生がそこに連続しているという実感がない。インターネットが発達したから、地方にいても都市部と変わらない教育が受けられるという人もいるかもしれないが、地方にいて都市部の人と同じような意識を持てる人はそれほど多くはないと思われる。ネット越しでは実感がないし、周りの人の意識も違うのである。

この記事の中で、筆者は東京で生まれ育って東大に入った学生を「特権階級」「文化的な貴族」と呼んでいる。「彼らには、自らがその地理的アドバンテージを享受しているという自覚はない」のである。逆もまたしかり。だからこそこのような地域格差はなかなか問題とならない。

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教育・文化的なことだけではなく、卓球においても同じようなことがいえるだろう。
都市部(あるいは卓球の強い地方都市)には県大会で常に上位進出する、あるいはかつては全国大会でも上位にくいこんだような人がゴロゴロいて、地域の大会等でそういう人のプレーを間近にみることもできる。時には声をかけて卓球上達のコツや意識というものを直接教えてもらえることもあるだろう。もしかしたら、同じクラブ内にそういう人がいて実際に練習相手をしてもらえることさえあるかもしれない。そういう人の練習を目にし、アドバイスをもらうことにより、どうすれば全国大会に出場できるのかが現実味をもって分かってくる。自分も全国大会に出場できるかもしれないというイメージを持つことができる。

一方、卓球の弱い地方には全国レベルの選手がほとんどおらず、地方の大会でダントツで優勝した人が県大会などに行って2~3回戦までしか進めないということが私の出身地ではあった。私の周りにも卓球に対して並々ならぬ熱意を持ち、卓球のセンスを感じさせるような人がいたが、そういう人も全国大会はおろか、県大会でも上位進出はならなかった(前記事「あたし、ついていけそうもない」「二十年後の君へ」)。私の地域で最も強かったYくんもおそらく県大会上位進出までしか頭になかっただろう。今思い返すと、彼の卓球はラリーに持ち込んで打点を下げて後ろから安全にドライブを打つ卓球だったように思う。ミスが少なかったので県大会予選ではそれで無敵だったが、県大会に行くと、前陣でガンガン攻撃してくる人に一方的に攻められてしまっていたように思う。指導者はもちろん、練習相手にも恵まれていなかった。しかし、もし彼が全国レベルを経験したような人たちの中で卓球をしていたらどうなっただろう。彼ほどの熱意があれば一度ぐらいはインターハイ出場にこぎつけたのではないかと思われてならない。

卓球が強い県は良い指導者や強い練習相手がたくさんいて、いつも強く、卓球が弱い県は熱意のある選手がいても、いつの時代も弱い。この格差は私たちが思っているよりもずっと大きい。こういうことを卓球後進県の人が自覚しないと、いつまでたっても卓球環境は向上しない。全てを環境のせいだというつもりはないが、環境の影響というのは卓球が上達する上で致命的な差となって現れるのではないかと思う。

用具についての断想

用具の評価
2年ぐらい前までは私はインナーカーボンのラケットを使っていた。そのころはラケットになんの不満も感じていなかったのだが、あるとき、特殊素材なしの7枚合板を使ってみて、その、すがすがしい?抜けるような打球感に惹かれ、ずっと7枚合板を使っている。先日、久しぶりにインナーカーボンのラケットを使ってみたところ、その硬い打球感にびっくりした。

「インナーカーボンってこんなに硬かったっけ?」

昔使っていたころは硬いなどと感じたことはなかったのだが、今では堪えられないほど硬く感じる。すぐもとの7枚合板に戻した。

私は用具音痴(前記事「ヤサカの新作ラバー ライガン」)なので、一般的な人より感じ方が極端なのかもしれないが、多かれ少なかれこのようなことは多くの人が経験していることではないだろうか。

たとえばふつうの人がキョウヒョウなどの中国ラバーを打ってみると、「硬すぎる」と感じるだろうが、子供のころから中国ラバーを使っている人が、一般的なテンションラバーを打ってみると、硬めのテナジー05やファスタークG1でも「柔らかい」と感じるのではないだろうか。逆に柔らかいヴェガ・ヨーロッパとか、ラクザ7ソフトなどを使っている人が05やG1を使ったら「硬い」と感じることだろう。ラケットでも、私とは逆にアウターカーボンのラケットを使っている人がインナーカーボンのラケットを打つと、「柔らかい」と感じるに違いない。

ということは、世間一般に「硬い/柔らかい」「弾む/弾まない」「球持ちが いい/悪い」などと言われている用具は、その人が普段使っている用具が何かが分からなければ、人によって正反対の評価になってしまうということである。数多くの用具を使った経験のある人なら、ある程度妥当な評価ができるのだろうが、用具に詳しくない人の評価は当てにならない。

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用具と慣れ
「住めば都」という言葉があるが、用具の違いの多くの部分は「慣れ」によって解消できるような気がする。初めてインナーカーボンのラケットを打った時の感想は、「球持ちがいい」だった。それまで使っていた5枚合板と比べてそれほど違和感なく移行できた気がする。そしてしばらく使っていると、どのタイミングで力を入れればいいボールが打てるかというのがだんだん分かってきた。言葉では説明しにくいが、ラケットがボールを受けてミクロレベルで少しへこみ、それが復元してボールを弾き飛ばすような感覚が感じられるようになってきたのだと思う。5枚合板でも同様にラケットが衝撃を吸収して、弾き返すようなプロセスがあるが、インナーカーボンとはそのタイミングが微妙に違う。そういう微妙なタイミングを体で覚えると、用具を替えた時の違和感がなくなり、たいていの用具がしっくりくるようになると思う。用具を替えて、2~3回練習して「合わない」と投げ出すのは早計で、用具のクセのようなものを感じ取れるまでにならなければその用具の良さは分からない。数か月使い続ければ、たいていの用具は良き相棒になってくれると思う。

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女性向けラケット
卓球王国のウェブサイトを見ていたら、スティガの「アゼリア」というラケットが目に留まった。

アゼリア

女性をターゲットにしたラケットということである。きっとグリップが細くて、軽いラケットなのだろう。女性向けのラケットは、ニッタクが「ミグノン」とか「フェミニスト」とかを出していたが、他メーカーの用具ではあまり記憶にない。バタフライの劉詩文や福原愛PROは女性をターゲットにしているのかもしれないが、高いし、あまりかわいくない。それに比べてアゼリアはピンクの色遣いがとてもかわいい。
前記事「女性の視点が…」でラケットの相談をしてきた女子中学生が、「友達がラケットを替えたがっている」とまた相談にきた。その友達がどんな用具を使っているか聞いてみたところ、分からないということだった。どんなタイプのラケットが好きなのか、どんなプレースタイルなのかも聞いてみたのだが、女子部員はみんな自分のラケット名前すら知らないので答えられない。

「プレースタイルは知ってるでしょ?」
「う~ん。ふつうかなぁ…」

カットマンや異質ではないらしい。たぶん「住めば都」で、与えられたものにあまり不満を感じないで使える子なのだろう。よく分からないが、このアゼリアなんかよさそうだ。6月まで待てて、かつ安かったら勧めてみよう。ちなみにアゼリアはツツジという意味だそうだ。


技と技の間――卓球の「基礎力」

「人生に無駄な経験などない」
という言葉があるが、これは本当だなと思う。一見するとこれからの人生に全く役に立たなそうに見える経験でも、いつかどこかで役に立つものだ。ただ、一つ一つの経験が自分の進みたい方向に大きく役に立つか、少しだけ役に立つかという違いはあるかと思われる。ともあれ、どんな経験でも多かれ少なかれ何らかの役に立つに違いない。
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新年度が始まり、卓球動画をゆっくり見ることがなかなかできなかったが、この週末にいくつか見ることができた。



勉強が卓球に役に立つか、あるいは卓球が勉強に役に立つか、という対談だった。
それを見て私が思ったのは、頭がいい人が必ずしも偏差値が高いわけではないし、偏差値の高い人が必ずしも頭がいいわけではないということである。

「頭がいい」をどうとらえるかは人によって違うだろうが、とりあえず「ポテンシャルとして頭の回転が速い」ということにしておこうかと思う。

ノーベル賞をとるような飛び切りの頭脳を持った人はともかく、通常の人は頭の回転数が高いだけでは結果が出せないことが多いのではないだろうか。

私は子供のころ、夏休みの宿題を8/31日にまとめてやるような、典型的なダメっ子だったが、成績のいい子は31日に地獄を見ないようにきちんと計画を立てて夏休みの宿題をこなしていた(前記事「さんすうとよそく」)。
社会人になって、私は配布された書類をクリアファイルに無造作につっこんでおいて、紛失したり、重要な連絡をうっかり忘れたりといったことがよくあった。仕事ができる人は配布された書類にパンチで穴をあけ、時系列に沿ってきちんと大きなリングファイルにまとめていたし、重要な連絡を受けるたびに、忘れないように手帳にきちんとメモしていた。そういえば、そういう人は机の上もよく整理されていた。私よりももっとひどい人もいるかもしれない。ねぼうして授業や仕事に大幅に遅刻したり、きちんと挨拶できなかったり、軽率に上司を批評してしまったり。

日常生活の中には膨大な情報と複雑な人間関係のネットワークがある。
上手に世を渡っていくには頭の回転が速いだけではだめで、不意にやってくる雑然とした情報を整理して、人間関係を円滑にするための技術が必要である。そういうものがあってはじめて頭の良さが生きてくる。このような生きる上での最も基本的な能力「人間力」が備わっていれば、多少頭の回転が遅くても高い偏差値を維持できるし、逆にそれが欠けていれば、いくら頭の回転が速くても学校の成績が悪かったりするのだ。


「卓球上達のヒミツ!やっすんとがねが語る上達サイクルとは」

もう一つはやっすん氏の上の動画である。
基礎力

「チキータを完全マスターしようとする人が多すぎる!」
「チキータの質をいきなりレベル10まで上げようみたいな」

たとえばチキータをやったことがない人が、チキータの練習をするとする。
ミドルあたりにきたショートサーブをチキータで返球するという練習を繰り返し、なんとか山なりの遅いボールで8割がた入れられるようになった。
しかし、それでは満足せず、チキータのスピードをどんどん上げて、一発で打ち抜けるような鋭いチキータを目指し、ひたすら練習に打ち込む。ある程度低くて鋭いチキータが打てるようになっても、「まだまだ威力が足りない」と、さらなる進歩を追求する。どうやったらもっとスピードが上がるか、回転がかかるか、厳しいコースを突けるか…こんな人が多すぎるとやっすん氏は述べているのである。

しかし、こういう人が本当にすごいチキータを打てるようになったとしても、コースを散らされれば対応できずミスを連発するし、ロングサーブを出されたとき、チキータをやめて、バックドライブ打つといった方向転換がなかなかできない。単体の技術のレベルを上げることばかりに汲々として、それを支えているフットワークや素早い判断といったことを全く磨いてこなかったからである。

やっすん氏の考え方はこうである。
山なりのチキータでも、安定して入るようになったら、それ以上チキータの威力を上げる必要はない。100点満点は必要ない、60点で十分である。次はいろいろなコースに来たボールをチキータで打てるようにする、あるいは相手のツッツキに対してチキータをしてみる等、どんなシチュエーションでもチキータが打てる(あるいはとっさに方向転換する)練習をすべきだ。そしてどんなボールにもミスせずチキータが打てるようになったら、次はチキータのレベルを2に上げて、ボールを低くし、回転ももう少し上げて、同じようにいろいろなボールを送ってもらってミスせず返球できるようにする。それができるようになったら、チキータのレベルを3に上げて、一発で抜けるようなチキータにする…。

不思議なことにレベル1のチキータで多様なボールに対応できるようになる――1周目が終わると、自然にチキータ自体の質も上がり、レベル2になっているのだという。チキータ自体の質を上げる練習を特にしていなくてもである。それはランダムに多様なボールに対応する練習をしているうちに相手のボールがどこにバウンドし、どんな軌道を描くかを以前より早く判断できるようになり、それによって、足も早く出せるようになり、チキータを打つときに時間的な余裕ができるので、万全の態勢でチキータを打つことができるので、自然と威力が増すのだという。

単体の「技術」を成功させるためには素早く判断する、足を動かす、身体全体を使う…といった「卓球人としての基礎スペック」を高めなければならない。

この主張は私がずっと感じていたことを代弁してくれたように感じた。チキータやドライブといった単体の「技術」の質を高めるためにはその背景にある「基礎力」を高めなければならない(前記事「機の感覚」)。いくら単体のチキータやドライブの質が高くても、それが打てるための前提の部分(私はこれまで「準備」と呼んでいた)をおろそかにすると実戦では使えない。前記事「打つ練習と打たれる練習」で私は相手の強打を受けるという練習をしたが、このとき、私は単体の「技術」の練習を全くしなかったにもかかわらず、非常に練習になった。「技術」ではなく、すばやく戻る、足を出す、判断するといった「基礎力」の練習だったのだ。

「卓球の基本」とは何かということを私はずっと考えていた(前記事「卓球で一番大切なこと」)。フォアドライブやブロックやツッツキといった技術がきちんとできるのが「基本ができている」ということになるのだろうか?そうではなく、これらの単体の「技術」とそれを裏で支える「基礎力」を合わせて「卓球の基本」ができていると言えるのではないか。

やっすん氏の動画を見て、頭の中の霧が晴れたような、はれやかな気分になった。


打つ練習と打たれる練習――戻りの早さについて

Jさんは私よりも格上の人で、よく練習に付き合ってもらう人である。
最近、忙しくて練習できず、バックドライブが安定しないというので、1時間ほどJさんのバックドライブの練習に付き合ってあげたのだ。

Jさんがサーブを出して、私がバック側に長くつっつき、それをJさんがバックドライブでストレートに打ち抜くという練習である。たしかにオーバーミスが多いのだが、そのバックドライブは打点が早く非常に鋭い。打たれたら全くとれない。私は低く長くつっつくだけの役割だが、それでもツッツキの練習にはなった。

しかし、多球練習のように1発強打を打って終わりでは、Jさんも味気なかろう。せっかくなかなか受けられないような質の高いバックドライブを打ってもらっているのだから、私がちょっとフォアブロックで止めて、ラリーにでもなれば、私のブロックの練習にもなるし、Jさんも練習のし甲斐があることだろうと私は4球目でブロックを試みるのだが、ボールが速すぎてラケットにかすりもしない。いや、待てよ。ボールが速すぎてブロックが間に合わないのだろうか。もしかしたら、私の戻りが遅すぎて間に合わないのではないだろうか。

そんなことを考えて、私は2球目でツッツキしたあと、できるだけ早く戻る(強打に備える)ことにした。そうすると、3球に1球ぐらいはラケットに当たるではないか。もう少し早く戻れないかとツッツキのタッチを短くしたり、ツッツキの時の右足の位置を変えてみたり、いろいろ試してみると、なんとか半分ぐらいはブロックできるようになった。

私は以前、上手な人に「振り終わった後、ラケットが止まっている」と指摘されたことがある。「ラケットを止めないで次の打球につなげないと」などとアドバイスを受けたのだが、自分のスイングの終点でラケットが止まっているという自覚が全くなかった。自分ではラケットを止めずに次の打球にスムースにつなげているつもりなのだが、上手な人にもう一度見てもらったところ、やはり止まっているのだという。止まっているという自覚がないので直そうにも直しようがなかった。

今なら私は自分のラケットが止まっていたことがよく分かる。打ち終わった後に一瞬、力を抜ききってしまっていたのである。今回、Jさんの鋭いボールになんとか間に合わせようと全力で――いいボールを返そうなどと思わず、とにかく当てるだけでいいという気持ちで戻ることだけに専念した結果、私は自分のラケットが、打ち終わった後にほんのわずかに止まっていることが自覚できたのだった。

これは一筆書きだなと思った。行書と言ってもいい。

書道

私のスイング、ひいては身体の動きは、いわば楷書だったのだ。一振り一振り、自覚がないほどのわずかな時間だが、動きに切れ目がある。動きが止まっている。ラリーの最中にそのように緊張を途切れさせてしまうと、戻りが遅くなる。もちろんガチガチに力を入れ続けろというわけではない。打ち終わった後には力を抜くのだが、抜くといっても完全に力を抜くのではない。身体の奥底に地下水脈のように細い緊張の糸を途切れさせないようにしておくのである。

課題練習というと、自分が打つ練習を選択することが多いが、自分が攻撃する練習というのは打たれる練習に比べて時間的な余裕がある。それで自分のプレーの中の時間のロスになかなか気づきにくいが、Jさんとの練習のように絶好球を送って強打を打たれる練習でラリーを続けようとすると、こちらの時間的余裕が全くない。その時間がない中で、なんとか時間をやりくりしようとすることによって自分の動きの中のロスに目を向け、それを一つ一つつぶしていくことができる。

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こういう気分だった

打たれる練習は自分の処理速度を上げるのに有益だと感じた。

つなぎのボール

季節はすっかり春で、桜も盛りを過ぎてしまった。
京都の桜の名所というと、嵐山に行く人が多いようだが、私のオススメは高野川である。
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京阪出町柳駅から川沿いに北上すると、延々と1.5キロにわたって桜が咲き誇っている。

下鴨

京都屈指の高級住宅街、下鴨の松ケ崎浄水場のあたりの桜も穴場である。

以上、卓球には何の関係もない情報である。

桜と言えば、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」という兼好の言葉があるが、卓球でいえば「球は高くて、遅きをのみ打つものかは」ということができるだろう。

先日の練習でペン表の人と練習したのだが、相手の調子が悪く、ボールが乱れていた。こちらがなんてことのない横下ショートサーブを出したところ、相手はツッツキの角度を誤って、台から30センチほど(ネットの倍ほどの高さ)浮かせてしまった。ボールが浮いたからチャンスだと思うかもしれないが、下回転がかかっているし、伸びてこないし、非常に打ちにくい。思い切って打ったらミスしそうだったので、こわごわと押して入れるだけのボールを返球せざるを得ず、逆に相手に攻め込まれてしまうということがあった。こちらが横回転ロングサーブを出した時も、払ったりドライブをかけたりしてそこそこのスピードのボールを返してくれればこちらも打ちやすいのに、ラケットを動かさずに角度を調節して当てるだけのぽわ~んとしたレシーブだったので、肩透かしを食らったような感じで強打できず、ループドライブで情けないボールを返すしかなかった。

中途半端に高いボールよりも低いボールのほうが打ちやすいし、ふわっとした伸びてこない遅いボールよりも適度に速いボールのほうが打ち慣れているので強打しやすい。

卓球にはブロックやツッツキのような守備的なボールと、ドライブやスマッシュのような攻撃的なボールがあるが、そのどちらとも言い難い、微妙なボールもある。これを「つなぎのボール」と呼ぶことができよう。私は昔、高いボールや遅いボールは何が何でも強打するというムチャ打ち卓球だったのだが、そうするとあまりにもミスが多いので、つなぎのボールを打つようになった。

そしてこのつなぎのボールというのが意外なことに卓球の中で大きな役割を果たしているのではないかと思うようになった。つなぎのボールというと、棒球というイメージがあるが、必ずしもそれは当たらない。上述したように相手の意外な返球に驚いて、打とうにも打てず、しかたなく腰の引けた情けないヘロヘロ球を送ってしまったら、それはたしかに棒球である。相手に「どうぞ打ってください」と首を差し出しているようなものである。しかし、つなぎのボールは質の高いつなぎのボールと質の低いつなぎのボールがあるように思う。相手に高いボールやゆっくりしたボールを送られたものの、強打できない、という場合にとっさに低くつっついて返したり、チョリっとドライブをかけて相手のミドルを狙ったりすれば、相手も一発で抜くことはできないだろう。このようにつなぎのボールの質を高めれば、次にこちらの強打につなげることもできるのである。

絶好球を強打するのはレベルの低い人でもできるが、やりにくい相手の難しいボールに対して隙を見せずになんとか返球し、次に自分の打ちやすいボールを返球させた上で強打するというのは思ったよりも難しいものだ。こういう相手に対してはつなぎのボールの良し悪しで勝敗が大きく左右されるのではないだろうか。

もっと分かりやすい例でいうと、上手なサービスを出されて、強打できない場合、なんとかして相手に強打させない程度のレシーブをするというのもつなぎのボールの質が高いと言えるだろう。

強打の質を高めることに熱心な人は多いが、つなぎのボールを磨く人というのはそれほど多くないように思う。しかし、とんでもない強打を打つ人よりも、つなぎのボールの質が高い人のほうがどんな相手にも安定して勝てるのではないかと思う。

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