サービスから、何の指定もなく、自由にどんなコースに打っても構わない試合を模した練習、いわゆる「オール」練習(京都では「全面」ということも多い)と、点数をカウントする「試合形式」の練習とは違うというのが私の認識である。
しかし、おそらくこの認識は全ての卓球人に共有されているわけではない。人によってはオール練習と試合形式の練習はほぼ同じものと考えているように思う。
A オール練習 ≠ 試合形式の練習(私の認識)
B オール練習 ≒ 試合形式の練習
私が練習で重視していることは「できるだけたくさんボールを打つ」「続ける」ということである。しかし、人によっては相手の一瞬の隙を突いて全力で「打ち抜く」という姿勢で練習している人もいるだろう。たとえば全国大会を目指しているような人は、オール練習でも真剣勝負で、スキあらばガツンと強打で打ち抜くような緊張感をもってプレーしたいかもしれない。しかし、私が同じようなことをしようとすると、4球目まででほぼ全てのラリーが終わってしまうおそれがある。これでは卓球の醍醐味が味わえない。もっとラリーを楽しみたい。
そこで私はオール練習のときも、試合向けの分かりにくいサーブではなく、比較的相手の取りやすいシンプルなサーブを出すし、3球目が打てるなら、とりあえず同じコース――バック側に打つことにしている。こちらのサーブが下手に効いてしまったら、私は3球目以降の練習ができなくなり、一人でのサーブ練習と択ぶところがなくなってしまうし、3球目の強打をどこに打つか分からなかったら、相手がブロックを失敗するおそれがあり、3球目でラリーが終わってしまう。
では私は練習中に打ち抜くことがないのかというと、そうではない。結果的に打ち抜いてしまうこともあるのだが、強打を打つにしても、十分打てるボールを選んで、8割ほどの力で、できるだけサイドを切らないように強打を放つようにしている。たとえ強打でも、厳しくないコースに打ってあげれば、こちらもミスしにくいし、相手が返球してくれる可能性も高くなり、うまく相手が返球してくれれば、こちらはもう一度強打を試みることができる。そうするとふつうより1本多く練習できることになり、得した気分である。
しかし、Bの認識を持つ人にとってはオール練習は真剣勝負なので、打てるかどうか微妙な難しいボールでも試合のように果敢に打ってくるし、コースもサイドを切ってきたり、打点の非常に早いカウンターだったりする。うまく打ち抜くことができると、「よ~し!」などと声を出したりする。
しかし、一方で私と同レベルの下手な人がそういうプレーをすると、ミスばかりになってしまう。私がちょっと浮かせてしまったツッツキを相手が台ギリギリの厳しいコースに決めに来て、ミスされると、私は受けられるはずだった1本を失うことになり、損した気分になる。ミスした相手は「強気!強気!」などと自分を奮い立たせているが、私は「もう少し弱気になったほうがいいのではないか」と心のなかでつぶやいている。
私は試合でもないのに試合と同じ意識で練習するのが好きじゃないのだと思う。
前記事「卓球の楽しみ方」での分類によれば、私は「練習卓」のAかBだろう。そこで練習相手にも同じ嗜好の人を求める。私と同じ認識の人とオール練習をすると、それほど厳しくないボールの応酬になり、ラリーが長く続く。しかしオール練習を試合の延長線上と捉える人と練習すると、私も同じ意識で練習しなければならず、ラリーが続かず、卓球をあまり楽しめない。私の周りには、もちろんAの認識の人が多いのだが、ときどきBの認識の人もいる。
私の考えるオール練習はプロレスに近いのかもしれない。
鍛え抜いたいかつい男同士が全力で取っ組み合ったら、非常に地味な対戦になってしまう。ブレーンバスターだのロープに飛ばしてからのドロップキックだの、そういう派手な技ではなく、お互いに隙を見せず、一撃で勝負が決するようなすさまじい対戦になってしまう(前記事「すさまじい対戦」)。
そうではなくて、飛んだり跳ねたりの派手な技の応酬だけれど、相手へのダメージの少ないプロレスは私のイメージするオール練習に近い。
相手への致命傷を与えない、それでいてゆる~いピンポンとは違い、卓球らしいスピードをそこそこ味わえる卓球、それを「あまがみ卓球」と名付けたい。
Aの認識の人がBの認識の人とオール練習をする場合、Aの人がBの人に歩み寄って、真剣勝負のようなオール練習をすることが多いと思う。
「オールなんだから、どこにどんなボールを打つのもアリだ」
と、ぼんやりと考えて、Aの人もBの人に合わせた練習をすることが多いと思う。オール練習には上述の2つの立場があるということをはっきり意識していない人もいるかもしれない。しかし、このような2つの立場が意識されるようになり、逆にBの人のほうがAの人に歩み寄ってくれればと思う。
「オール練習は、カウントをとる試合形式の練習とは違って、やや手心を加えたボールで長くラリーを楽しむものだ」
という考え方が定着すれば、オール練習の時、Bの人がAの人に合わせてくれることも増えるかもしれない。
DVとかブラック企業という命名がなかったころは
「あそこんちのご主人、ちょっと怖いわよね」
「うちの会社は残業が多すぎるなぁ」
程度で済まされていたことが、現代では社会問題として認識されている。名付けることによって人々に意識化され、AとBの認識の差異が明確になれば、練習の時の摩擦も少しは減るのではないだろうか。
「あまがみ卓球」が今以上に多くの人々に認知されたらAの価値観の人が卓球をもっと楽しめるようになると思う。
しかし、おそらくこの認識は全ての卓球人に共有されているわけではない。人によってはオール練習と試合形式の練習はほぼ同じものと考えているように思う。
A オール練習 ≠ 試合形式の練習(私の認識)
B オール練習 ≒ 試合形式の練習
私が練習で重視していることは「できるだけたくさんボールを打つ」「続ける」ということである。しかし、人によっては相手の一瞬の隙を突いて全力で「打ち抜く」という姿勢で練習している人もいるだろう。たとえば全国大会を目指しているような人は、オール練習でも真剣勝負で、スキあらばガツンと強打で打ち抜くような緊張感をもってプレーしたいかもしれない。しかし、私が同じようなことをしようとすると、4球目まででほぼ全てのラリーが終わってしまうおそれがある。これでは卓球の醍醐味が味わえない。もっとラリーを楽しみたい。
そこで私はオール練習のときも、試合向けの分かりにくいサーブではなく、比較的相手の取りやすいシンプルなサーブを出すし、3球目が打てるなら、とりあえず同じコース――バック側に打つことにしている。こちらのサーブが下手に効いてしまったら、私は3球目以降の練習ができなくなり、一人でのサーブ練習と択ぶところがなくなってしまうし、3球目の強打をどこに打つか分からなかったら、相手がブロックを失敗するおそれがあり、3球目でラリーが終わってしまう。
では私は練習中に打ち抜くことがないのかというと、そうではない。結果的に打ち抜いてしまうこともあるのだが、強打を打つにしても、十分打てるボールを選んで、8割ほどの力で、できるだけサイドを切らないように強打を放つようにしている。たとえ強打でも、厳しくないコースに打ってあげれば、こちらもミスしにくいし、相手が返球してくれる可能性も高くなり、うまく相手が返球してくれれば、こちらはもう一度強打を試みることができる。そうするとふつうより1本多く練習できることになり、得した気分である。
しかし、Bの認識を持つ人にとってはオール練習は真剣勝負なので、打てるかどうか微妙な難しいボールでも試合のように果敢に打ってくるし、コースもサイドを切ってきたり、打点の非常に早いカウンターだったりする。うまく打ち抜くことができると、「よ~し!」などと声を出したりする。
しかし、一方で私と同レベルの下手な人がそういうプレーをすると、ミスばかりになってしまう。私がちょっと浮かせてしまったツッツキを相手が台ギリギリの厳しいコースに決めに来て、ミスされると、私は受けられるはずだった1本を失うことになり、損した気分になる。ミスした相手は「強気!強気!」などと自分を奮い立たせているが、私は「もう少し弱気になったほうがいいのではないか」と心のなかでつぶやいている。
私は試合でもないのに試合と同じ意識で練習するのが好きじゃないのだと思う。
前記事「卓球の楽しみ方」での分類によれば、私は「練習卓」のAかBだろう。そこで練習相手にも同じ嗜好の人を求める。私と同じ認識の人とオール練習をすると、それほど厳しくないボールの応酬になり、ラリーが長く続く。しかしオール練習を試合の延長線上と捉える人と練習すると、私も同じ意識で練習しなければならず、ラリーが続かず、卓球をあまり楽しめない。私の周りには、もちろんAの認識の人が多いのだが、ときどきBの認識の人もいる。
私の考えるオール練習はプロレスに近いのかもしれない。
鍛え抜いたいかつい男同士が全力で取っ組み合ったら、非常に地味な対戦になってしまう。ブレーンバスターだのロープに飛ばしてからのドロップキックだの、そういう派手な技ではなく、お互いに隙を見せず、一撃で勝負が決するようなすさまじい対戦になってしまう(前記事「すさまじい対戦」)。
そうではなくて、飛んだり跳ねたりの派手な技の応酬だけれど、相手へのダメージの少ないプロレスは私のイメージするオール練習に近い。
相手への致命傷を与えない、それでいてゆる~いピンポンとは違い、卓球らしいスピードをそこそこ味わえる卓球、それを「あまがみ卓球」と名付けたい。
Aの認識の人がBの認識の人とオール練習をする場合、Aの人がBの人に歩み寄って、真剣勝負のようなオール練習をすることが多いと思う。
「オールなんだから、どこにどんなボールを打つのもアリだ」
と、ぼんやりと考えて、Aの人もBの人に合わせた練習をすることが多いと思う。オール練習には上述の2つの立場があるということをはっきり意識していない人もいるかもしれない。しかし、このような2つの立場が意識されるようになり、逆にBの人のほうがAの人に歩み寄ってくれればと思う。
「オール練習は、カウントをとる試合形式の練習とは違って、やや手心を加えたボールで長くラリーを楽しむものだ」
という考え方が定着すれば、オール練習の時、Bの人がAの人に合わせてくれることも増えるかもしれない。
DVとかブラック企業という命名がなかったころは
「あそこんちのご主人、ちょっと怖いわよね」
「うちの会社は残業が多すぎるなぁ」
程度で済まされていたことが、現代では社会問題として認識されている。名付けることによって人々に意識化され、AとBの認識の差異が明確になれば、練習の時の摩擦も少しは減るのではないだろうか。
「あまがみ卓球」が今以上に多くの人々に認知されたらAの価値観の人が卓球をもっと楽しめるようになると思う。