たまたま本屋で見かけて水谷隼選手の近著『負ける人は無駄な練習をする』を買ってしまった。新本で本を買うなんて私にしては珍しい。
話題の本なので、その読後感などを記してみたい。
どうやったら水谷選手のように卓球が上手になれるのか。
水谷選手は私たち凡人とは違う練習を積み重ねて、短期間であれほどの高みに立ったはずである。効率がよく、確実に強くなれる練習――本の題名から、そんな練習法が書かれていると思った。
しかし、これは相当マニアックな本である。初中級者に向けて書かれた本ではない。いや、上級者向けでさえない。世界レベルの超上級者に向けて書かれた本だと感じた。
私たち初中級者が試合に求めるものは、自分の上達の実感だったり、ラリーの応酬だったり、試合後の交流だったりするが、水谷選手のような世界トップレベルのプロは、どうやらどこまでも勝利のようなのだ。私たちは試合に負けても、自分なりに達成感を感じられれば、満足だが、プロはそうはいかない。そんな水谷選手の視点からみた卓球論なのである(以下、” ” は大意を示す間接引用)。
”フットワーク練習を相手に配慮してミスなく続ける練習などいくらやっても意味がない”
これは2人でお互いに3点フットワークをする練習
このようなことが書かれている。そんなことを中学校や高校の指導者に言ったら怒られるだろう。この命題はワールドツアーなどで活躍する選手――よくわからないが、たぶんフォアの3点フットワークを、続けようと思えば2~30回(フォア・ミドル・バックで1回)ぐらいミスなく簡単に続けられるというレベルでの話である。
私のレベルでは2~3回が精いっぱいだ。水谷選手が「意味がない」というのは世界で勝つための練習として「意味がない」ということのようだ。
他にも
”どんなにがんばっても取れないようなボールを練習で送ってもらわなければ上達しない”
とか、
”試合中にゾーンに入れるようにならなければならない”
とか、とにかく一般の愛好家や凡庸な選手のことなど眼中にない(この突き抜けた割り切りがこの本の魅力でもある)。私が期待していたような初中級者向けの具体的な練習法の話ももちろんない。
世界で勝つためには、コースの決まった練習などではなく、どこにボールが来るか分からないランダム練習でしか強くなれない。そしてそのようなランダム練習を繰り返すことによって考える力を養い、予測が鍛えられるのだという。
水谷選手がどのようにして世界トップに伍して戦い、卓球に対してどのような考え方を持っているかをうかがい知るには興味深い本だと思われる。また、国際大会などに出場するようなレベルの選手はこのような水谷選手の考え方から多くのことを学ぶに違いない。逆に言うと、私のレベルで参考になるようなことはほとんど書かれていない。
それにしてもこの本はどういう目的・意図で書かれたものだろうか。それが気になった。ワールドツアーなどに出場する日本のトップレベルの選手へのメッセージのようにも見えるが、私には水谷選手の悲痛な叫びに聞こえる。
「どうして私を理解してくれないのか」
「私のやり方は間違っていない」
「私を否定するな」
そういうことを伝えたかったのだと思う。水谷選手は人間関係で相当苦しんできたのだろう。だから次のような主張が繰り返し現れる。
”誰にでも好かれるようないい子ちゃんではチャンピオンになれない”
”周りは私のことを「異常」だというが、「異常」だからこそ私は試合で勝てるのだ”
”私は他の日本選手とは違う。最も苦しい道を歩んでいるのだ”
既成の価値観を否定しようとする人は多くの批判にさらされる。全く異なる価値観が出会う時、摩擦は避けられない。たとえば江戸時代に異端視されていた西洋文化が明治時代になって崇拝の対象となったり、戦後の過度な西洋文化への憧れが疑問視され、現在の日本文化礼讃となったりする、そういう歴史的な価値観の変遷を連想させる。将来、振り返ってみれば、水谷選手の主張はこのような流れの濫觴に当たったのだと思い起こされるような気がする。
話題の本なので、その読後感などを記してみたい。
どうやったら水谷選手のように卓球が上手になれるのか。
水谷選手は私たち凡人とは違う練習を積み重ねて、短期間であれほどの高みに立ったはずである。効率がよく、確実に強くなれる練習――本の題名から、そんな練習法が書かれていると思った。
しかし、これは相当マニアックな本である。初中級者に向けて書かれた本ではない。いや、上級者向けでさえない。世界レベルの超上級者に向けて書かれた本だと感じた。
私たち初中級者が試合に求めるものは、自分の上達の実感だったり、ラリーの応酬だったり、試合後の交流だったりするが、水谷選手のような世界トップレベルのプロは、どうやらどこまでも勝利のようなのだ。私たちは試合に負けても、自分なりに達成感を感じられれば、満足だが、プロはそうはいかない。そんな水谷選手の視点からみた卓球論なのである(以下、” ” は大意を示す間接引用)。
”フットワーク練習を相手に配慮してミスなく続ける練習などいくらやっても意味がない”
これは2人でお互いに3点フットワークをする練習
このようなことが書かれている。そんなことを中学校や高校の指導者に言ったら怒られるだろう。この命題はワールドツアーなどで活躍する選手――よくわからないが、たぶんフォアの3点フットワークを、続けようと思えば2~30回(フォア・ミドル・バックで1回)ぐらいミスなく簡単に続けられるというレベルでの話である。
私のレベルでは2~3回が精いっぱいだ。水谷選手が「意味がない」というのは世界で勝つための練習として「意味がない」ということのようだ。
他にも
”どんなにがんばっても取れないようなボールを練習で送ってもらわなければ上達しない”
とか、
”試合中にゾーンに入れるようにならなければならない”
とか、とにかく一般の愛好家や凡庸な選手のことなど眼中にない(この突き抜けた割り切りがこの本の魅力でもある)。私が期待していたような初中級者向けの具体的な練習法の話ももちろんない。
世界で勝つためには、コースの決まった練習などではなく、どこにボールが来るか分からないランダム練習でしか強くなれない。そしてそのようなランダム練習を繰り返すことによって考える力を養い、予測が鍛えられるのだという。
水谷選手がどのようにして世界トップに伍して戦い、卓球に対してどのような考え方を持っているかをうかがい知るには興味深い本だと思われる。また、国際大会などに出場するようなレベルの選手はこのような水谷選手の考え方から多くのことを学ぶに違いない。逆に言うと、私のレベルで参考になるようなことはほとんど書かれていない。
それにしてもこの本はどういう目的・意図で書かれたものだろうか。それが気になった。ワールドツアーなどに出場する日本のトップレベルの選手へのメッセージのようにも見えるが、私には水谷選手の悲痛な叫びに聞こえる。
「どうして私を理解してくれないのか」
「私のやり方は間違っていない」
「私を否定するな」
そういうことを伝えたかったのだと思う。水谷選手は人間関係で相当苦しんできたのだろう。だから次のような主張が繰り返し現れる。
”誰にでも好かれるようないい子ちゃんではチャンピオンになれない”
”周りは私のことを「異常」だというが、「異常」だからこそ私は試合で勝てるのだ”
”私は他の日本選手とは違う。最も苦しい道を歩んでいるのだ”
既成の価値観を否定しようとする人は多くの批判にさらされる。全く異なる価値観が出会う時、摩擦は避けられない。たとえば江戸時代に異端視されていた西洋文化が明治時代になって崇拝の対象となったり、戦後の過度な西洋文化への憧れが疑問視され、現在の日本文化礼讃となったりする、そういう歴史的な価値観の変遷を連想させる。将来、振り返ってみれば、水谷選手の主張はこのような流れの濫觴に当たったのだと思い起こされるような気がする。