しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2015年12月

今年もあと2日。
世間の卓球場の多くは先週末で営業を終えているが、なんと大晦日も営業している卓球場がある。
右京区にある今西卓球センターである。

今朝の記事(「隔生即忘」)で書き納めとしたが、ウズウズががまんできない、どうしても年末に卓球したいという人は訪れてみてはどうだろうか。新年になっても、元旦は休みだが、2日は10時から営業しているという。これは、卓球を本当に愛している人でないとできないことだと思う。こんなすばらしい卓球場があるなんて右京区の人は羨ましい。

19830



ここは私が訪れた卓球場の中で最高レベルの環境だった。

今西中


普通のビルの1室が卓球場になっている場合、天井が低かったり、前後のスペースが不十分だったりするが、この卓球場は天井も十分高く、前後のスペースも十分である。

【151229現在】
・料金:1人1時間500円(ただし、一般開放の日は500円で打ち放題という場合もある。事前に電話で問い合わせたほうがよい)。マシンも置いてあったので、追加料金で利用させてもらえるかもしれない。
・営業時間:10:00~22:00(日曜の一般開放日などは予約しておかないと、早めに閉めてしまうらしい。電話で問い合わせておくことをおすすめする)
・定休日:なし。この年末年始は、元日は休みとのこと。
・電話:075-882-4899
・卓球台:6台 
・駐車場:7台
・用具販売:あり。2割引とのこと。

・アクセス
 残念ながら電車の便は悪い。
阪急烏丸駅、または地下鉄四条駅からバスで20分ほど。「梅津段町」下車。そこから四条通沿いに西に歩き(ファミマやセブンなどのコンビニがある)、有栖川沿いに北上すれば、徒歩5分とのことである。
市バスの3、28、29、69、71系統 等で行ける。
バス以外にも、四条烏丸から自転車なら走れない距離ではない。
 
梅津というのは太秦広隆寺の南にあり、秦氏の支配下にあったと地と思われる。
京都の旧国名、山城国は、山背国とも表記され、奈良から観て山の後ろという意味である。私は専門家ではないので、知人の受け売りだが、この山背というのはそもそも渡来人の秦氏に与えられた土地だったのだという。その秦氏が拠点としていたこの辺りは京都の中でも古い歴史を持つ。近くに嵯峨野や嵐山、桂川があり、 多くの歴史的事件の舞台ともなっている。

なお、卓球場代表の今西氏の御令息は、同志社大学卓球部のエース、今西健太郎選手とのこと。

 

一昨日は仕事納めで、打ち納めだった。
今年の仕事がなんとか終わったという開放感に包まれて卓球するのはこの上なく楽しかった。

しかし、昨日はなんとなく落ち着かなかった。せっかくの休みなのだから、もっと卓球したいという欲望が湧き起こり、それが頭の片隅でずっと主張を続けていたからなのだった。

ウズウズ…

でも、大掃除とか年賀状書きとか、いろいろやらなければ…などと言いつつ、気が付くとパソコンで卓球用具のセールのページなどを眺めている。

「年の瀬は、なんとなく散財したい気分になるなぁ。気晴らしに何か買ってみようかな」

卓球ができないと、とりあえず用具が欲しくなる。とはいうものの、ラバーは未開封のものが5~6枚もあるし、ラケットもいろいろ試してみたが、結局今のラケット以上のものには巡り会えない気がする(しかも、スペアとして同じラケットをもう1本持っている)。シューズも未開封のが1つあって、ユニフォームも4~5着ぐらいほとんど着ていないものがある。

「ラケットケースはちょっと欲しいかな。(前記事「ラケットケース 涙型」)

でも、この間、サンエイのワッパーというラケットケースが特売だったので、買ってみたのだが、自分の求めていたものとかなり違っていてがっかりしたばかりだった。とにかく重い!でかい!

ワッパー



「やはり無駄な買い物はやめておこう」

用具だけでなく、私は始終卓球のことばかり考えているので、たまには卓球のことを忘れたほうがいいのかもしれない。中途半端に卓球に打ち込んでいると、何ができて、何が問題かということを見失ってしまい、自分の卓球も中途半端になってしまうような気がする。一度自分の卓球を白紙に戻してリセットして、真っ白な気持ちで卓球に向き合えば、見慣れたものも新鮮に映り、新たな発見があるかもしれない。



風邪を引くことが、身体を健康にする(「風邪の効能」)という考え方もあるし、間食をせず、胃袋を完全に空っぽにするという習慣を作れば身体も頭もすっきりする(前記事「空腹感は幸福感」)。

一度全てを忘れて、来年改めて卓球に取り組むことにしよう。といっても、卓球を忘れすぎると、再開が難しくなる(前記事「仕事とは…」)ので、忘れるのもほどほどにしたほうがいいだろう。

というわけで本記事で今年の「しろのたつみ」は書き納めとしたい。

このブログを読んでくださる方は、卓球のことばかり考えている人だと思われる。みなさんもたまには卓球のことを完全に忘れてみてはいかがだろうか。新鮮な気持ちで、卓球をより楽しめるようになるかもしれない。

もうそろそろ今年も終わる。
月並みないいかただが、あっという間だった。今年1年を振り返ってみると、いろいろな発見があったが、その中でも特筆したいのが「腰を使って打つ」ことの習得である。

思い返せば数年来、私は腰で打つとはなんぞやということを考え続けてきた(前記事「するショットとなるショット」「皆はあんなに明敏なのに…」)。

「手打ちはいけない、腰で打たなければ…」

そうやって自分なりにいろいろ模索してみたが、いくら腰を使って打ってもボールに威力は出ないし、安定しない。いたずらに振りが大きくなるだけで全く効果が感じられない。打球時に腰を動かせば動かすほどフォームがおかしくなるような気もしてくる。

しかし、今なら分かる。腰を使うということは筋を通すことなのだと。

非常に単純なことだったのだが、長い間ピンとこなかった。同じような悩みを抱えている初中級者も多いことだろう。世の中には初中級者のために腰の使い方を詳しく説明したものがほとんどない。そこで今回は腰を使うということはどういうことかを私なりに説明してみたい。なお、私は指導者でもなんでもないので、私のやり方が「正しい」という保証はない。また上級者の威力のある打法とは違うと思われる。あくまでも私の経験談として読んでいただきたい。

ポイント:腕は身体の斜め前方で硬直

自分では腰を回して打球しているつもりでも、腰を回すと同時に、いっしょに腕まで振ってしまっては意味がない。おそらく反作用(前記事「スポーツバイオメカニクス」)が生じてしまい、お互いを打ち消し合ってしまうと思われる。腕と腰は同時には仕事ができない。そこで腕には仕事を休んでもらう。それが腕を硬直させるということである。硬直といってもガッチガチに力を入れてはいけない。力を抜きつつ、腕の芯にかろうじて一本筋が通るようなイメージである。

以下、右利きのフォアハンドで考えてみる。
腕は身体の前面に置く。たとえばバックスイングをとるときでも、腕が右腰よりも後ろに下がってはいけない。バックスイングを真横まで持ってくるのもよくないと思う。できるだけ前面で、「小さく前へならえ」のポジションが望ましい。通常はまっすぐ前よりもやや開いている状態である。

前へ


「これじゃバックスイングがとれないよ」
という人は、腕はそのままで、身体をねじってバックスイングをとっていただきたい。

はじめのうちは身体の各部がバラバラで、うまく打てず、もどかしい思いをするかもしれない。もどかしくて、つい腕を振ってしまうかもしれない。しかし、このロボットのような打ち方に慣れてくると、腕が自然に後ろにいかなくなる。腕を後ろに持っていくことに抵抗を感じるようになる。そこで腕を後ろに持って行きたければ、上体ごと横を向くようになる。

これで両肩に一本、筋が通ったことになる。
一本筋


卓球を初めてやる初心者は手首をうごかしてしまい、ボールをあらぬ方向へ飛ばしてしまいがちである。しかし、ある程度、卓球に慣れてくると、手首をむやみに動かしてはならないと悟り、手首を硬直させて打つようになる。そして初級者になる頃にはヒジもむやみに動かさなくなり、手首から肩まで一本筋が通る。そうすると肩を動かすことが即ち手首を動かすことにもなる。これで打球がかなり安定する。

だが、そこまでで筋の発達が止まってしまう人が多い。私もそうだったのだが、右肩から先で打つだけでも相当威力のあるボールが打てるし、一通りの技術は右肩から先だけでできるからだ。しかし、安定性とさらなる威力を求めていけば、右肩から先だけでは足りない。フリーハンド――左肩まで筋を通さなければならないのだ。右肩と左肩を別々に動かすのではなく、一体化させ、右肩から左肩まで筋が通ると、あたかも左肩で右腕を操作しているような感覚になってくる。左肩を前に出せば、自然とバックスイングが取れるし、左肩を後ろに引っ張れば、右腕は自然と前に振り出される。

そしてもっと大きく身体を使おうとするなら、次は背筋にも一本筋を通すといい。両肩だけでは上半身がグラグラするので、縦にも筋を通すことで上半身全体を安定させるのである。

十字


こうすると、今度は腰をひねることが即ち両肩を動かすことになり、両肩を動かすことは即ち腕を動かすことになる。腰から手までが一体化する。これが「腰で打つ」という状態だと思われる。

身体の各部をそれぞれ独立して動かすのではなく、力を入れるのは右腕から遠いところにある1点で、他の部分は仕事をやめ、硬直し、各部を一体化させる。私の筋は腰までで終わっているが、もしかしたら筋をさらに伸ばし、太もも辺りに力を込めて打球するということも可能かもしれない。

ただ、この打ち方では戻りが難しい。打球後はある程度右腕の硬直を解き、自然に任せて振り切って反動を作り、次の戻りに繋げるのがいいかと思われる。

 

どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。
それから元気をとりもどして、とうとう目がつぶれるまで女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。
わしは何ひとつろくなことはしなかった。男ちゅう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけは皆、わしのいいなりになった。
わしにもようわからん。しかし、男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしゅうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。
そういえば、わしは女の気に入らんようなことはしなかった。女のいうとおりに、女の喜ぶようにしてやったのう。
【中略】 
女っちゅうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。

「 土佐檮原の乞食」『日本残酷物語』より
土佐源氏



卓球のラケットの使い方や足の動かし方などは目に見えるものだし、なんとか説明しようと思ったらできないことはない。しかし、打球の感覚というのは言葉ではどうしても説明しにくい。自分では打球感覚の面で大きな発見があったと感じても、それを言葉で他者に伝えるのはためらわれる。

「もしかしたら、この感覚は私だけの思い込みで、客観的にはそれほど大きな違いはないのかもしれない。」
「私にとっては新しい発見かもしれないが、多くの人はこのような感覚をすでに知っており、あえて大騒ぎするほどのことでもないのかもしれない」

こんなことをつい考えてしまい、記事にしようとしていたものを御蔵入りにしてしまうこともある。

しかし、今回あえてこの愚挙をなしてみようと思う。それほど私にとって大きな発見であり、私の卓球の安定性にもつながっているからだ。

バックスイングをボールの近づくスピードにシンクロさせて引いてみると安定する(前記事「シンクロ打法」)。速いボールには速く引き、遅いボールには遅く引く。これはボールとラケットとの距離感をどんなボールに対しても一定にするというもので、多くの人が指摘していることであり、理にかなっていると思う。

私が最近取り組んでいるのは、どんな性質のボールでも、ラバーに一定の圧力をかけて打球してみるということである。速いボールなら、ボールの中心を外し、ボールの向かってくる力を逃がすことによって、たとえばボールをスポンジに50%食い込ませる。もっと速いボールなら、ラバーをもっとボールの周縁にそっと当て、できるだけ力を逃し、やはりスポンジに50%食い込ませるようにする。逆に遅いボールなら、普通に打ってもあまりスポンジに食い込まないので、ボールの中心付近に厚く当て、やはり50%食い込ませるようにする。このように打球に応じてボールの向かってくる力を逃がしながら、常にスポンジを50%つぶすように打球する。こうすると、ボールが安定して弧線を描き、相手コートに入る。

しかし、機械でもないのに50%(感覚的なものなので、実際は80%ぐらいかもしれない)スポンジをつぶしながら打つなんてことができるのだろうか。できるとは言わないが、私はボールの気持ちを忖度することにしている。そうすると、ちょうどいい具合にスポンジがつぶれているように感じられるのだ。具体的に言うと、

「こんなに強く叩いたら、ボールも痛いだろうな。もう少しやさしく向かってくる力を逃がしてやらなければ」

といった具合である。
なんなんだ、そのポエムのような展開は!と興がさめてしまった読者もいるかもしれないが、自分が計測器具になったつもりで「50%スポンジがつぶれるように…」などと考えるよりもはるかにイメージしやすい。

ボールに人格を与えることによって、スポンジのつぶし具合だけでなく、さまざまなボールの「意向」にも目が向くようになる。

「ボールは今、前をこすられるのを嫌がっているのに、無理やり引きずりあげようというのは、ボールにしてみれば不本意なことだろう」

と、上から振り下ろすようなカットをこすりあげるのをやめて、ラケットに乗せるようにして軽く打ってみたり、

「このボールはずいぶん元気がないな、よし!ちょっと喝を入れてやろう。ただ、それでもあまり当てをきつくすると今度は逆に自暴自棄になってしまうおそれもあるな」

などといろいろボールに最大限配慮して卓球をするようになるわけである。ボールが喜ぶように打ってやろうと心がけると、不思議とボールが「言いなり」になってくれる。その中でも「スポンジ50%」は幅広いボールに効果があった。おそらくボールにとってもっとも気持ちいい当て方なのだろう。
しかし、私が喜ぶだろうと思ってやったことが、かえってボールを増長させたり、ボールに裏切られたりすることもある。それは私がボールの気持ちを見誤っていたということだ。複雑な回転がかかっている場合は、どうしても回転を見極めることができず、ポンと台の中央付近に落とさざるをえないこともある。ボールのことをもっと知らなければ。


世界中の すべての謎より 知りたい 君の心を

そういえば、E3-pingpongというサイトでカットマンの羽佳純子氏の講習会の記事を読んだことがある。

強く当てる状態を羽佳選手は「喧嘩する」という表現を使っていました。
なるほど、上手い表現です。

強く当ててしまう選手に対して、
「ボールと喧嘩してはダメ」「まだボールと喧嘩しているヨ」
と、注意していました。

私の言いたいことは、たぶんこのようなことなのだ。それが当ての厚さ・薄さだけでなく、もっと広くボールの意向に沿うべきなのだ。冒頭のエピグラフの言葉を借りれば、ボールの「気に入らんようなこと」はせず、ボールの「いうとおり」に、ボールの「喜ぶようにして」やろうということだ。そうすればボールは「ついてくる気になる」のだろう。スイングスピードがどうの、打点がどうのといった理屈ではなく、とにかくボールの「気持になって」ボールをかわいがり、いたわってやる。そうすればボールは自然に自分を「ゆるすもん」なのである。

もちろんボールだけでなく、女性も粗末にせず、いたわってあげなければならないことは言を俟たない。
 
【付記】
昨日、ぐっちぃ氏のブログを見たら、新体連の全国大会(於京都府立体育館)のために、なんと四条の産業会館で練習していたらしいのだ。あぁ、それを知っていたら、是が非でも駆け付けたのに…。
しかし、考えてみれば、集中して練習しているときにわけのわからんオジサンに駆けつけられても迷惑なだけか。
私は土曜にもかかわらず、仕事で応援に行けないが、WRMの上位進出を祈っている。

 

先日の練習でのこと。
相手のサービスをツッツキで返してからオールという練習だった。
相手のショートサービスを強弱おりまぜてツッツキで返球していたのだが、あるとき、驚くほど低くて速いツッツキが入ったので、 その感覚を忘れまいと何度も試してみた。
そのツッツキというのは、いわば「痙攣ツッツキ」である。 
ラケットをほとんど動かさず、ボールを迎えて、打球の瞬間だけグッと力を入れて押し出すのだ。
速い!低い!深い!まるでぐっちぃ氏の極薄のツッツキのようなのだ。

「とうとうオリジナルの技を編み出した」

まぁ、こういうツッツキを使っている人は全国にいくらでもいるのだろうが、私の周りにはいなかったので、自分のオリジナルということにしておこうと思ったのだ。

その時の練習相手はかなり格上の人だった。にもかかわらず、私の新打法「痙攣ツッツキ」にはとまどっているようだった。

「この打法は、もしかしたら実戦でも十分使えるんじゃないですか? 上級者にも通用しますよね?」

「いやぁ、どうでしょうね…」

といって、相手はおもむろにサービスを出したのだが、私の痙攣ツッツキはミス。
もう一度出してもらったが、やはりミス。

「おかしいな、さっきはあんなに安定していたのに…」

「さっきまではずっと同じ長さのサービスを出していたから安定してたんですよ。サービスの第一バウンドの位置やボールのスピードを変えると、同じように安定して打つのは難しいですよ。」
 
かくして私の痙攣ツッツキはしばらくお蔵入りになってしまった。

--------
この経験から感じたのは、同じサービスでもバウンドの軌道やコースが変わればかなりちがったサービスになるのではないかということである。たとえば同じ順横下フォアサービスでも対角線ギリギリを使ったサービスとフォア前をかすめてミドルに落ちるショートサービスとでは、2種類の別のサービスと言ってもいいぐらいの違いがある。さらに高い打点からポテンポテンと落とすような短い順横下フォアサービスと、低い打点からトトンと素早く入る短い順横下フォアサービスは、対応する側からすればかなり違った印象を受けるのではないだろうか。それに「切る・切らない」という要素が加われば、バリエーションは一気に広がる。

以前、テレビ番組のインタビューでサービスの名手と言われる水谷選手に「1試合で何種類のサービスを使いますか」といった質問をしていた。 水谷選手は20種類ぐらいと言っていたように記憶しているが、何を以て別のサービスとカウントしているのだろう?同じ短い順横下フォアサービスでも、回転量・コース・軌道という3つのパラメーターを組み合わせれば以下の8種類が考えられる。

短い順横下フォアサービス(切る)フォア側・エンドラインにぶつける軌道 
短い順横下フォアサービス(切る)フォア側・ネット際に落とす軌道 
短い順横下フォアサービス(切る)バック側・エンドラインにぶつける軌道 
短い順横下フォアサービス(切る)バック側・ネット際に落とす軌道 
短い順横下フォアサービス(切らない)フォア側・エンドラインにぶつける軌道 
短い順横下フォアサービス(切らない)フォア側・ネット際に落とす軌道 
短い順横下フォアサービス(切らない)バック側・エンドラインにぶつける軌道 
短い順横下フォアサービス(切らない)バック側・ネット際に落とす軌道 

これら8種類がそれぞれ別のサービスと考えられるかどうか分からないが、対応する側にしてみれば、違う打法で返球しなければならないなら、別のサービスとみなしたほうがいいのではないだろうか。たとえばバック側に来たら速いチキータで返球できるが、フォア前に来たらストップでしか対応できない場合などである。

さらに長さの要素や横回転、上回転の要素を加えれば、フォアサービスだけで十分すぎるバリエーションがあることになる。

私はサービスが多彩な人というのは、逆横やバックサービスなど、完全に違う種類のサービスを駆使できる人のことだと思っていたのだが、順横フォアサービスしか出せない人でもコントロールが正確で、確実に出し分けられる人なら、そういう人もサービスが多彩といえるのではないだろうか。

1試合で

「短い順フォアサービス(切らない)・バック側・ネット際に落とす軌道」

を出した後に

「短い順フォアサービス(切る)・バック側・ネット際に落とす軌道」

を出されたら、相手はレシーブで困惑すると思われる。同じようにバック側にくる短いサービスなので、同じような打ち方で対応しようとすると、浮かせたり、ミスしたりしがちである。フォア側とバック側のように全く違うコースよりも、同じコースで微妙に違う要素を組み合わせたサービスを出したほうが分かりにくいかもしれない。特に軌道の違いというのは気づかれにくいのではないだろうか。

000012


一般的には

A1「短いサービス=ネット際に落とす」
B1「長いサービス=エンドラインにぶつける」

というセットになっているが、これを

A2「短いサービス=エンドラインにぶつける」
B2「長いサービス=ネット際に落とす」

のように逆の軌道で出してみたら、意外性がありそうだ(B2は長くて遅いサービスになるので使いにくいが)。

【まとめ】
初中級者はサービスにしろ、レシーブにしろ、微妙な違いを区別していない。回転やコースには大いに注目するが、微妙な長さの違いや軌道といったことには無頓着な人が多い。そして無意識のうちに、サーバーなら、同じような長さのサービスを出し続けて、相手に容易に対応されてしまうし、レシーバーなら長さや軌道が違っても区別せずに打ってミスしてしまいがちである(冒頭の私のミスのように)。サービスを構成する要素を細かく認識できればできるほど、実戦で有利に戦えると思われる。

低くて切れた深いツッツキでフォアを突かれたとき、フォアドライブで持ち上げるのがつらい。
フォアに来るな、と察して早めにフォアドライブを打つ姿勢に入り、早い打点で打てれば最高なのだが、私が問題にしているのは、意表を突かれたような場合である。フォアドライブを打たなければと気づいた時には時、すでに遅くボールは頂点にさしかかろうとしている…そんな場合である。

今からタメを作って威力のあるフォアドライブは打てそうもない。軽くなら打てるが、打てたとしても打点はかなり落ちてしまう。しかしほかに選択肢はない。遅い打点だがフォアドライブを打たなければならない。

先日の練習で順横フォアロングサービスからこちらが3球目をドライブする練習をしていた時のことだ。
相手の人のレシーブが安定せず、浅いところに来たり、ギリギリの深いところに返ってきたり、あるいは横回転気味のプッシュだったり、下回転が入っていたり、フォアに行ったりバックに来たりとバリエーション豊富でとても練習になった。そういう練習をしていると、冒頭のような意表を突かれる場面がしばしば訪れる。あっと気づいた時にはもう遅く、渾身の力で持ち上げようとしても安定して入らない。

しかし、おそらく上手な人はむやみやたらに力を入れたりしないものだ。特に意表を突かれて体勢が崩れているような場面でがむしゃらに強打したりするのは下手な人のやることだ。きっと上級者は意表を突かれた場面でも安定して軽々と返球する方法を知っているに違いない。私もそんな緊急時のしのぎかたを知りたいと思い、力を入れず、いろいろな方法でドライブを試してみた。
その結果、ラケットヘッドの回し方にコツがあるのではないかと思うに至った。

ラケットの軌跡

上図のAはラケットをスイングしているとき、グリップのお尻がきれいに自分の体の中心を指している場合である。以前、上手なペンホルダーの大学生がこんなふうにドライブを打っていたので、私もマネしていたのだが、もしかしたら、それよりもBのやり方のほうが退避(一時的に急場をしのぐ)的なドライブには有効かもしれない。

ペンホルダーはスイングのスタート時にヘッドが下を向いていることが多い。そしてそこからラケットを振り上げるにしたがってヘッドが横を向き、やがて真上を指すに至るのだが、それを目線ぐらいの位置(図Bの赤い星)までヘッドをあまり上げずに、赤い星の位置で一気にラケットを返す。つまり、赤い星までラケットでタメをつくるわけである。この赤い星のところで手首を使い、一気に回転をかけると、それほど強い力でなくても、低い打点の下回転が持ち上がるような気がする。ただ、普段からこんなに手首を派手に使うのはミスの原因にもなりかねないので、あくまでも苦しい場面に限定して使おうと思っている。

シェークではどうなのか分からないが、ペンではラケットを一気に返しやすいので、この赤い星にインパクトを持ってくるようにすれば、効率よく回転をかけられるのではないだろうか。
 

このブログでは「最新コメント」というのをあえて表示させていない。

管理人からすると、あまり注目してほしくないコメントというのがある。たとえばマナーの是非に関するコメントがそうなのだが、こういうマナーに関するトピックには自分の意見を言いたいという人が多いらしく、いろいろなコメントが集まってきて、収拾がつかなくなったり、いわゆる「炎上」という事態が起こったりする。そんな意見を読みたい読者は少ないだろうが、異様に盛り上がってしまいがちである。「最新コメント」を表示させないのは、それを防ぐためである。一つの記事に一度に10もコメントが集中すると、こちらが返信するのも一苦労である。

また、「そうですか」としか答えようのないコメントや、私には納得できないコメントがあったりした場合、「私はそうは思いません」とコメントするのもためらわれるので、あたりさわりのないコメントを返したりする。あるいは他の読者にとって有益な情報だと感じられないコメントの場合には申し訳ないが公開を見送ったりする。このブログでは多くの読者が読んでためになるコメントを載せ、できるだけ卓球についての議論をしたいと思っている。

そんな中で古い記事にも密かに的確なコメントをつけてくださる方がいて、そういうコメントは、「最新コメント」が表示されないために埋もれてしまう。しかしこういうコメントには逆に大いに注目してほしいと思っている。最近で言うと、「瞬間、インパクト重ねて」のコメントなどがそうである。私の拙い考えをよく吟味し、コメントしてくださり、建設的に議論を発展させている。こういう記事はぜひとも他の読者にも目を通していただき、さらに議論を展開させてもらえればと思っている。

それによると、卓球の技術には、個々の技術と、それをつなぐ技術(「チェーン」)があり、多くの卓球人は個々の技術はできていても、それをつなぐ技術ができていないのだという。また、個々の技術を高める練習には熱心に取り組むが、それらを上手につなぐ練習のほうはお留守であるという。

「チェーン」は必要である。この技術の質が高いか否かで実力に大きな差が出る。では、どうやって個々の技術をつなげばいいのか。
コメントではランダム練習が推奨されているが、ここは議論の余地があるのではないかと感じる。ランダム練習はいろいろなものが考えられる。一方の極に、完全にランダムな試合のような実戦練習があり、少し制限をかけたシステム練習――例えばサービスは固定されているが、レシーブが2~3点のどこに来るか分からない――や、もっと制限をきつくして、基本的にはワンコース練習だが、それにひと味加えて、3~4球に1球ほどイレギュラーなボールを送る練習などが考えられる。さらにコースのランダム性だけでなく、長短のランダム性、回転のランダム性などを組み合わせることにより、ランダム練習には多くのバリエーションが生まれることになる。

どんなランダム練習が「チェーン」の習得に最も適しているか、あるいはどの順番で練習していくのが効率的か、そういう議論をしていけば、部活などでの練習も、より充実したものになるのではないだろうか。

ただランダム練習には欠点もある。難しいということである。
私は以前、初級者を相手に少しランダムの要素を取り入れた練習をしてみたのだが、ちっとも続かなくなり、相手をうんざりさせてしまったことがある。ランダム練習というのは、試合で勝つことを目標とした練習であって、初中級者で、あまり競技性を重視しない人(軽い趣味として卓球を楽しむ人の大多数)にとっては安定してワンコースでツッツキが続くとか、フォア・バックの切り替えがスムースに1分間できるとか、そういうランダム要素のないブロック練習(相手の強打を受ける「ブロック」の練習ではなく、単一の技術を集中的に練習すること)のほうが楽しくて満足度が高いのかもしれない。


試合では勝てないかもしれないが、ミスせずにずっと続けるというのは、それはそれで卓球の楽しさの一側面である。偉そうにこんなことを書いている私も、自慢ではないが、切り替えが満足にできない。イレギュラーな要素のないブロック練習も、レベルに応じて取り入れることが大切だと思う。

まとまりのない文章で申し訳ない。
言いたいことは、ブロック練習とランダム練習にはどちらにも長短所がある。
それと読者の皆さん、コメントで卓球についての議論をしましょう、ということである。
たとえば効果のあったランダム練習などをコメント欄で紹介していただけると、ありがたい。
 

南ドイツのとある街に一週間ほど滞在した。

城の入口


卓球とは関係ないが、ドイツで考えたことなどを綴ってみたい。ドイツのことなどまったく知らない、一旅行者の感想なので、質問や反論をされても答えられない。事実の誤認も多いと思われるが、話半分で読んでいただきたい。

空港に到着し、知人のドイツ人にホテルまでタクシーで連れて行ってもらう。

「これがアウトバーンか。みんなスピード出してますね。」
「いえ、これは普通の自動車専用道路ですよ。」

ドイツはアウトバーンでなくても普通の道路でも制限速度が80キロというところが多く、私たちのタクシーが走っていたのは自動車専用道路で、制限速度が120キロだった。それで逗留先のT市まで30分ほどで到着。

「疲れたから、コンビニで何か買いたいんですが」
「コンビニはないです」
「じゃあ、缶コーヒーでも飲みたいので、自販機は…」
「自販機も缶コーヒーもドイツにはないです」

なんだか不便なところだなぁ。深夜でも営業しているコンビニというのは本当にありがたかったんだなぁ。ドイツ人はどうしてこんな便利な店を作ろうとしないんだろう?

ホテルはギリシア料理店を兼ねており、そこで夕食をとることにした。GyrosとかCalamariとか、メニューを見てもさっぱり分からない。15ユーロ(2000円ぐらい)ほどのOlimpos plate とかいうのを頼んでみたら、牛肉、羊肉、鳥肉、フレンチフライ、サラダという料理が出てきた。メチャクチャ量が多い。肉はちょっと固い。ついでにビール(450円ぐらい)もいっしょに頼んでみた。500mlでちょっと甘みがあり、おいしかった。あとで聞いたところによると、ドイツでは食事の量というのが重視されていて、日本のように腹八分目というのでは客から文句が出るそうな。後日、子供プレートというのを頼んでみたら、これもかなりの量で、成人男性でも満足できる量だった。

翌朝、日曜日。在留邦人の方にT市を案内してもらうことになった。

「いろいろみやげを頼まれているんですが、適当なおみやげが買える店に連れて行ってもらえませんか?」
「日曜は店が閉まっていますよ」

どういうことだ?日本の常識では考えられないが、日曜日は学校も、会社も、店も休みらしい。じゃあ、ドイツ人は日曜をどうやって過ごしているのだろう?

「普通に家族と過ごしたり、友達の家を訪問したり、ハイキングに行ったりしますよ」

なるほど。私のようなオジサンなら、そういう休日の過ごし方はとてもいいと思うけれど、若い人にとってはちょっと物足りないだろう。ドイツというのは、大人の価値観が強い社会なのかもしれない。

日曜でもカフェは開いているらしく、カフェで昼食をとる。

「この店はパンケーキがおすすめですよ。」
「え?パンケーキってホットケーキみたいなものでしょ?あれが昼ごはんですか?」
「日本のパンケーキというのはアメリカ風ですが、こちらのパンケーキはクレープのちょっと厚い版です。」

きのこのパンケーキというのを頼んでみた。ついでにビールも頼んでみた。

パンケーキ


ビール


ドイツのパンケーキはなかなか美味だった。

午後は郊外の修道院跡を見学することにした。

修道院


丘の上にある修道院で、石造りのためか、古いものがよく保存されている。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のイメージそのままである。当時の生活が偲ばれて、私は楽しめたが、若い人には退屈なところかもしれない。

長時間見学して、ずいぶん身体が冷えたので、麓?のカフェに入り、ケーキとコーヒーを注文する。

ケーキ


ケーキが長い。
ドイツのケーキは一般的に日本のケーキより長くて安い。300円ほどで日本のケーキの1.5倍ぐらいの量がある。肉、ケーキ、ビールが安くて量が多いとなると、食事に注意しなければすぐに太ってしまいそうだ。もしかして「ショートケーキ」というのは、ヨーロッパのケーキに比べて短いということなのか?と思ってウェブで調べてみたが、そういう意味での命名ではないらしい。それにしても、ドイツのケーキは長い。そしていつも側面にフォークが突き刺さった状態で出てくる。

ホールケーキ


-----------
翌朝、時差ボケで3時に起きてしまった。仕事の準備などをして時間を潰し、早朝散歩に出かける。

街並み


日本の11月は晴天が続くイメージがあるが、ドイツの11月は灰色のイメージらしい。しかし、このメランコリックな空が古い街並みに調和して、えもいわれぬ風情がある。歩いてみると、店があまりない。この辺にスーパーがあるときいていたので、確認しておきたかったのだが、どこにあるか見当もつかない。看板がないのだ。日本だったら、建物や駐車場の前にゴチャゴチャと看板が付けてあるし、大通りから少し外れた大型店舗なら、「イオン ◯◯店 200m先」などという看板があることが多い。しかし、ここではどの店も非常に自己主張が控えめだ。ドイツ人というのは質実剛健だなぁ。中規模の街というのを差し引いても、本当に必要のあるものしか作らないという思想を感じる。コンビニも缶コーヒーも、なくてもさほど困らないから作らないのかもしれない。

だが、そんなドイツにも、やたらとタバコの自販機は置いてある。

タバコ自販機



ドイツ人は喫煙者に寛大である。いたるところで歩きタバコをしている。値段もイギリスやアメリカほど高くはない。ストレスが多いのだろうか。

仕事のミーティングなどを終えて、昼食へ。

近所の肉屋でハムやソーセージ、チーズを買って、パンに挟んでもらう。ついでにサラダを付け合わせに。

昼ごはん02


昼ごはん


昼ごはん03
これがドイツ的な昼ごはん

なんでこんなに食べ物の写真ばかりとってきたのだろう。OLか!私は。

食べ物のことはおいといて、現在のドイツを取り巻く問題について考えてみた。

最近の大きなニュースはヨーロッパ発が多い。

ギリシャの債務問題、フォルクスワーゲン不正問題、シリアの難民問題。どれもドイツが関わっているが、私が特に関心を持っていたのはシリア難民のドイツへの大量流入問題である。ドイツ人はどうして難民を歓迎するのか。あんなに難民を受け入れて社会が混乱しないのだろうか。そういうことをドイツ人に尋ねてみた。

地方によって難民に対する意見は異なるが、経済的に余裕のある南ドイツではそれほど問題視していないようだ。ドイツ人いわく、

「旧東ドイツなどの経済的に不安定な地域では移民排斥運動が起きているかもしれませんが、ここはなんとか大丈夫です。」

日本では、「ドイツもさすがに困っている、このままでは移民排斥運動が起こるのではないか」といった報道をよく目にする(「移民問題とドイツの課題」「難民危機で…」)が、案外ドイツの懐はもっと深いのかもしれない。どうしてドイツ人がこんなに移民が流入してもパニックに陥らないかというと、ドイツは多民族社会が相当進んでいるからなのである。60年代に大量のトルコ移民を受け入れた経験のあるドイツは異文化の人たちとのつきあい方を長年学んできたらしい。私が接したドイツ人の中にも、両親はハンガリー人だったとか、ポーランド人だったという人がいた。社会の中にふつうに「移民の背景を持つ人」が溶け込んでいるのだ。近年の若い世代にはそれが顕著で、小学校の1クラス30人のうち、3代続けてドイツ人というのは10人で、残りの20人は移民と移民の二世、三世ということらしい。卑近な例にたとえれば、東京という街には3代続く江戸っ子がほとんどいないようなものである。

ウクライナ移民

そういえば、この人もウクライナ系移民だった

ただ、それは同じ日本人というカテゴリーだからうまくやっていけるわけであって、完全に異なる文化の人とうまく融和できるかどうか分からない。同様に同じヨーロッパ人ということなら、うまくやっていけたドイツ人も、文化の異なるアラブ人と融和できるかどうかは未知数だ。

街を歩くと、そこかしこでアラブ系の人に出会う。イタリア語やロシア語とおぼしき会話も聞こえてくる。とにかくドイツは私が想像していた以上にインターナショナルで多民族国家だった。なお、アジア人と黒人はあまり多くない。

このような社会を目の当たりにして、日本社会の将来を思った。
日本もいずれは移民を受け入れる国になっていくのではないか。そんなときに異文化の人たちとうまくやっていけるのだろうか。京都は日本の中ではインターナショナルな社会だと思うが、移民の背景を持つ人が10%程度に達しただけで、もう対応できない気がする。ドイツは、農村を除いたら、30%ほどが移民の背景を持つ人になるようだ。ドイツは移民問題に関しては日本よりも数十年先を行っている。ドイツから学ぶことは多いと思われる。

他にもいろいろあったのだが、夢のような時間は過ぎて、あっという間に週末に。
金曜はS市のクリスマスマーケットに連れて行ってもらった。

クリスマスマーケット
市庁舎前広場にいろいろな露店が並ぶ

グルーワイン
名物のグルーワイン(ホットワイン)を飲む

翌日はいよいよ帰国の日。
どうしよう、不安だ。
ドイツ語を全く話せない私が一人でバスに乗って、空港まで行き、国内線から国際線に乗り換えられるのだろうか?

「簡単ですよ。みんなやっていますから」

バスの乗り方やルート、出発時刻などは全て頭に入れてある。しかし、もし不測の事態が起こったら?全てが予定通りに行ったら、問題はないが、もし不測の事態が起こったら…間違ったバスに乗ってしまったとか、飛行機が延着して乗り換えに間に合わない(折しもルフトハンザがストライキをしようか協議していた)とか、そんな事態に陥ったら、私は適切に対応する自信がない…。

翌朝、雪が降っていた。やっぱり不測の事態が起こるのではないだろうか?バスが運休だったらどうすればいいんだ?今から電車とか私にはハードルが高すぎる。バスの出発時刻を間違えていないだろうか?バス停で時刻表を見るが、ドイツ語なので分からない。

「たぶん、こっちが土日曜の時刻表だと思うんだけど…」

そんなとき、一人のドイツ人と思しき青年が大きなスーツケースを引きながらバス停にやって来た。これは空港に行くに違いない。彼に、もし空港に行くなら一緒に行ってほしいと英語で話しかけたところ、快諾してくれた。彼の名はペーター。33歳独身で、仕事でイスタンブールに行くそうだ。

peter

私の拙い英語にも嫌な顔をせず、とびっきりの笑顔で応えてくれた。
お互いの仕事のことやドイツの印象、ペーターが日本を訪問した時の話など、空港までの車中、ずっと話し相手になってくれた。嬉しかった。空港到着後も私がチェックインするまでいっしょにいて、見守っていてくれた。ドイツ人は外国人に対して親切だ。

今回のドイツ訪問は私にとって最高の思い出だった。

ドイツの何がすばらしかったのか。
たしかにドイツの街並みは美しかった。しかし、美しさということなら、イタリアのほうが上かもしれない。私はイタリアにも行ったことがあるが、それほど思い入れはない。食べ物のおいしさや、テクノロジーの進歩ということなら、日本のほうが上かもしれない。

では何が私をこれほどまでに惹きつけたのか。ドイツ人の温かさやホスピタリディーである。店の店員さんは必ず「ハロー」「チュース」と挨拶してくれたし、探しものがないか話しかけてくれた。道行く人に道を尋ねても、迷惑そうな顔もせずに対応してくれた。日本にいるときと同じような感覚で滞在できた。しかし、国にによってはそういう対応がない場合もあるだろう。言葉の通じない外国人を無下に扱ったり、無視したりといったこともあるに違いない。私は今までグループで海外旅行をすることが多く、ガイドさんに連れられて現地の人と交流することなしに快適に旅行ができた。が、その分、現地の人の親切さや人情に触れる機会も逸してしまった。旅の醍醐味というのは、珍しい景色や食べ物ばかりじゃない。現地の人との交流にあると痛感した一週間だった。


たまたま私と同じような主張を見つけたので挙げておく。
中国の爆買いがなくならないのはなぜか?


移民について
http://newsphere.jp/national/20150303-imin2/

 

このページのトップヘ