中学生の剣道の地区大会を観に行ったことがある。
京都市の最も末端の大会――京都市内の北半分の区の大会?だったのだが、ある出来事が印象に残った。
大会委員長のような方が開会の挨拶をなさっていたとき、途中で「そこ!何やってる!」と注意され、2~3分ほど挨拶が中断され、全体がシーンとなった。一体何があったのかと思ったら、どうやら開会の挨拶の最中に生徒2~3人がおしゃべりをしたらしいのである。私が全く気づかなかったほどだから、おそらく小声で二言、三言、言葉を交わした程度だったのだろう。
「学校名と名前を言いましょうか!」
指まで指されて「犯人」たちは恐縮至極、いたたまれない様子。
「犯人」たちが十分反省しているとみて、責任者は挨拶を再開し、まもなく開会式が終わった。
同じようなことが卓球の大会で起こったらどうなっていただろうか?
おそらく委員長はさして気にもとめず、何事も起こらないまま開会式は無事終わっていただろう。
仮に私語を注意されたとしても生徒は「チッ!うっせーな」ぐらいの態度で憮然としていたのではないだろうか。
剣道では「恐縮至極」。卓球では「チッ!うっせーな」。このような差はいったい何に起因するのか。
剣道では公の場で人が話しているのを無視して私語を発するのは許されないマナー違反なのに対し、卓球ではそれほど重大なマナー違反ではないということだろう。剣道等の武道は宗教的な側面があるので、大会は「遊び」ではなく「真剣勝負」なのだろう。卓球ではどうだろうか。全国大会などの大きな大会ならば「真剣勝負」かもしれないが、最も末端の大会ではそれほどの緊張感があるだろうか。
剣道では剣道の目的を高らかに掲げている。
修行で得た信念をもって権力におもねることなく、功利に流されることなく、正邪を明らかにし生涯を全うし、自己の属する社会、国家、民族のため寄与することである。
卓球人は卓球に敬意を抱き、卓球をしている自分を誇りに思っているだろうか。下手な相手をぞんざいに扱ったり、練習の途中でダレてきて、いい加減な練習をしたりといった卓球に恥じる行為をしてはいないだろうか。
卓球はしょせん「遊び」である。しかし、それだけでは何かが足りない気がする…。
Love the life you live. Live the life you love.
今年の「しろのたつみ」は本記事をもって締めくくりとしたい。
京都市の最も末端の大会――京都市内の北半分の区の大会?だったのだが、ある出来事が印象に残った。
大会委員長のような方が開会の挨拶をなさっていたとき、途中で「そこ!何やってる!」と注意され、2~3分ほど挨拶が中断され、全体がシーンとなった。一体何があったのかと思ったら、どうやら開会の挨拶の最中に生徒2~3人がおしゃべりをしたらしいのである。私が全く気づかなかったほどだから、おそらく小声で二言、三言、言葉を交わした程度だったのだろう。
「学校名と名前を言いましょうか!」
指まで指されて「犯人」たちは恐縮至極、いたたまれない様子。
「犯人」たちが十分反省しているとみて、責任者は挨拶を再開し、まもなく開会式が終わった。
同じようなことが卓球の大会で起こったらどうなっていただろうか?
おそらく委員長はさして気にもとめず、何事も起こらないまま開会式は無事終わっていただろう。
仮に私語を注意されたとしても生徒は「チッ!うっせーな」ぐらいの態度で憮然としていたのではないだろうか。
剣道では「恐縮至極」。卓球では「チッ!うっせーな」。このような差はいったい何に起因するのか。
剣道では公の場で人が話しているのを無視して私語を発するのは許されないマナー違反なのに対し、卓球ではそれほど重大なマナー違反ではないということだろう。剣道等の武道は宗教的な側面があるので、大会は「遊び」ではなく「真剣勝負」なのだろう。卓球ではどうだろうか。全国大会などの大きな大会ならば「真剣勝負」かもしれないが、最も末端の大会ではそれほどの緊張感があるだろうか。
剣道では剣道の目的を高らかに掲げている。
修行で得た信念をもって権力におもねることなく、功利に流されることなく、正邪を明らかにし生涯を全うし、自己の属する社会、国家、民族のため寄与することである。
「剣道修行の目的」より抜粋(日本剣道協会)
剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである
剣道を通じて自己の人格を練磨するのみならず、社会、国家、人類のために貢献することが剣道の理念であるという。ずいぶん壮大な話である。
では翻って卓球とは何か。卓球とは単なる「球遊び」に過ぎず、高尚な理念などないのだろうか。ネットで卓球の理念を探してみたのだが、剣道の理念に相当するようなものは残念ながら見つからなかった。近いものとして日本卓球協会の「定款」に以下の条項がある。
第3条 この法人は、わが国における卓球界を統括し、代表する団体として、卓球の普及振興を図り、もっと国民の心身の健全な発展に寄与することを目的とする。
「卓球の普及振興」と「心身の健全な発展に寄与する」というのが剣道の理念に近いものと言えようか。卓球の目的というのはせいぜい「心身の健全さ」までであり、それ以上ではない。
協会の啓発冊子「勝利を目指す前に大切なことがある」には「フェアプレー」「相手に対する敬意」などが分かりやすく書かれているが、剣道の理念とはずいぶん違う。
我々が卓球をする目的というのは特に決められておらず、それぞれのプレーヤーに委ねられているようだ。暇つぶしでもいいし、健康増進でも構わない。卓球にかぎらず、スポーツには目的や理念というのがないのが普通だろう。
「理念とか目的とか、そんな堅苦しいことはどうでもいいじゃないか。そういうことをうるさく言わないのが卓球のいいところだ」
という意見にも一理ある。「遊びで悪いか」という反論である。「人格の陶冶」だの、「世界平和への貢献」だのといったことを考えながら卓球に取り組むというのは覚悟を必要とし、プレーヤーを選ぶことになる。結果、多くの人が楽しめる趣味とはなりにくい。小乗仏教と大乗仏教のようなものだろう。
記事に関係はないが、さきほどの紅白での椎名林檎がカッコよすぎて観入ってしまった。
武道とスポーツ、どちらにも一長一短があるが、私は冒頭の出来事を目の当たりにして武道を羨ましく思った。剣道に携わる人は、勝敗や自分の達成感以上の何かを背負っている。優勝して、興奮のあまり竹刀を叩き折ったり、そのへんの器物を蹴飛ばして破壊したりといったことはおそらくしないだろう。人間性の高潔さのみならず、剣道自体に対して敬意を抱き、それに携わる自分を誇りに思っていることだろう。
「剣道修練の心構え」(日本剣道連盟)
剣道を通じて自己の人格を練磨するのみならず、社会、国家、人類のために貢献することが剣道の理念であるという。ずいぶん壮大な話である。
では翻って卓球とは何か。卓球とは単なる「球遊び」に過ぎず、高尚な理念などないのだろうか。ネットで卓球の理念を探してみたのだが、剣道の理念に相当するようなものは残念ながら見つからなかった。近いものとして日本卓球協会の「定款」に以下の条項がある。
第3条 この法人は、わが国における卓球界を統括し、代表する団体として、卓球の普及振興を図り、もっと国民の心身の健全な発展に寄与することを目的とする。
「日本卓球ハンドブック 定款」より(日本卓球協会)
「卓球の普及振興」と「心身の健全な発展に寄与する」というのが剣道の理念に近いものと言えようか。卓球の目的というのはせいぜい「心身の健全さ」までであり、それ以上ではない。
協会の啓発冊子「勝利を目指す前に大切なことがある」には「フェアプレー」「相手に対する敬意」などが分かりやすく書かれているが、剣道の理念とはずいぶん違う。
我々が卓球をする目的というのは特に決められておらず、それぞれのプレーヤーに委ねられているようだ。暇つぶしでもいいし、健康増進でも構わない。卓球にかぎらず、スポーツには目的や理念というのがないのが普通だろう。
「理念とか目的とか、そんな堅苦しいことはどうでもいいじゃないか。そういうことをうるさく言わないのが卓球のいいところだ」
という意見にも一理ある。「遊びで悪いか」という反論である。「人格の陶冶」だの、「世界平和への貢献」だのといったことを考えながら卓球に取り組むというのは覚悟を必要とし、プレーヤーを選ぶことになる。結果、多くの人が楽しめる趣味とはなりにくい。小乗仏教と大乗仏教のようなものだろう。
記事に関係はないが、さきほどの紅白での椎名林檎がカッコよすぎて観入ってしまった。
武道とスポーツ、どちらにも一長一短があるが、私は冒頭の出来事を目の当たりにして武道を羨ましく思った。剣道に携わる人は、勝敗や自分の達成感以上の何かを背負っている。優勝して、興奮のあまり竹刀を叩き折ったり、そのへんの器物を蹴飛ばして破壊したりといったことはおそらくしないだろう。人間性の高潔さのみならず、剣道自体に対して敬意を抱き、それに携わる自分を誇りに思っていることだろう。
卓球人は卓球に敬意を抱き、卓球をしている自分を誇りに思っているだろうか。下手な相手をぞんざいに扱ったり、練習の途中でダレてきて、いい加減な練習をしたりといった卓球に恥じる行為をしてはいないだろうか。
卓球はしょせん「遊び」である。しかし、それだけでは何かが足りない気がする…。
Love the life you live. Live the life you love.
今年の「しろのたつみ」は本記事をもって締めくくりとしたい。