しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2014年06月

当ブログでは皆様からの寄稿を募集しております。卓球について意味のある主張を発表したい方はshirono.tatsumi◯gmail.comまで原稿をお寄せください。

コメントについて:
コメント欄は他の読者が読んで意味のある情報交換の場としてご利用ください。当ブログの方針(察してください)に沿ったご意見は公開します。返信しにくい場合は公開のみとさせていただきます。指導者ではないので、技術的な質問には答えられません。中傷等は論外です。なお、メールアドレスは公開されません。

瞬間的にスイングスピードを上げる方法

空母の短い滑走路で飛行可能な離陸速度を得るためにカタパルトという仕組みが用意されている。

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これでパチンコのように飛行機を引っ張って射出し、急加速するわけだ。
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最近はパチンコではなく、スリングショットというらしい。

卓球でスイングスピードが十分得られないときといえば、私はまず、レシーブの時を思い浮かべる。
相手がサービスの上手で、回転が分かりにくく、かつ同じフォームでショートサービスと速いロングサービスを変幻自在に出してくる。そんなとき、レシーブ側は速いロングサービスが来るかもしれないと警戒しなければならない。フォア側か?バック側か?あるいはショートサービスかもしれない。私はこんなときにバック側重視で待っている。
次の瞬間、「あっ!」と思った時にはフォア側に速い横回転系のサービスが迫ってきている。そこから急いでバックスイングをとって、しっかりスイングしていては間に合わない。サービスエースだけは避けたいので、とりあえず手を伸ばして手打ちでもいいから、ラケットを振ってみる。しかし力ないドライブのため、十分なスイングスピードがとれず、ボールはネットを越えない…。

こういう相手と試合をすると、初めから主導権を握られて、一方的に攻められてしまう。そこで瞬間的にスイングスピードを上げ、速いロングサービスにしっかりドライブをかけて迎撃する工夫が必要になってくる。
ぐちゃぐちゃと細かいことを書いてみたが、とりあえず瞬間的にスイングスピードを上げるにはどうすればいいかというのが今回のテーマである。

実際にメジャーを使って自分のスイングがどのぐらいの距離を必要とするか測ってみた。白い丸はボールのインパクトを示している。
時間があるとき
時間があるときのフォアハンドのスイング

私は腕が長いので、目一杯時間があって、しっかりドライブをかけるときは、こんなに長いバックスイングとスイングをとっていたのだ。150センチのスイングができれば、しっかりと強いドライブがかけられる。

しかし、時間がないとき、小さなスイングでフォアハンドを振らなければならない。150センチもの距離はとれない。どうなるか。
時間がないとき
時間がないときのスイング

もしかしたら、本当に速いロングサービスが来た時は、もっとスイングの距離が短くなってしまうかもしれない。スイングが1メートルそこそこだと、スイングにスピードが乗らない。空母から発進する飛行機だったら、十分な揚力が得られず、海へ「ドボン」だ。

では、どうすればいいのか。瞬間的に150センチもの距離を確保できないか。そこで閃いた。
答えを聞けば、「なんだ、そんなことか」である。

バックスイングをなくしたとき

バックスイングとスイングを1本の線にしてしまうのである。つまり、バックスイングをスイングの延長にするわけである。とすると、こんなに直線的なスイングでない方がいい。

スイングをふくらませて

こうすれば、減速が緩やかになる。これを突き詰めていくと、

円になった!

楕円になった!

そうか、そういうことか。今更ながら気がついた。いろいろな指導者が

「スイングは円を描くように」
「途中で止めないように」
「窓ふきをするように」

などと言っていたが、私はようやく納得した。円を描くようにスイングするということは、つまりバックスイングを解消し、バックスイングがスイングの一部になるということか。これなら小さなスイングでも十分な距離が取れる!

さらにカタパルトの工夫も必要だ。右利きの私にとっては、左肩およびフリーハンドがカタパルトになる。左肩をグイッと前に押し出しながら、スイング前半(元バックスイング部)をスタートさせて、カーブを越えたところでフリーハンドで右肩を押出し、スイング後半を振り切る。もしかしたら、腰も使ったほうがいいのかもしれない。

【まとめ】
小さくて速いスイングのためには、バックスイングを解消しなければならない。バックスイング→スイングという相反するベクトルの2本の線では、お互いの力が相殺されてしまう。そうではなく、2本の線を結び、1本の線を合成すれば、小さなスイングでも十分な長さのスイングを確保できる。さらに肩や腰を使って瞬間的にトルクを得ることができれば、こちらのショットが振り遅れず、速いボールにも十分間に合うだろう。


タメとは何か―「偉関晴光のガチ練(ぐっちぃ編)」を観て

以前、本ブログのコメント欄でも言及のあった「ガチ練」というDVDが気になって、観てみたので、その感想などを記したい。



このDVDは偉関晴光氏の指導のもと、ぐっちぃ氏が1時間という限られた時間の中で基本的な技術に絞って練習するというものである。フォア打ちやバック打ち、切り替え、3球目からのオール練習など、初中級者にも身近な練習内容なので初中級者の参考になると思われる。その練習を観ながら、リプレイなどを交えつつ、偉関氏とぐっちぃ氏がうまくいった点や失敗した原因などをコメントするという形式になっている。社会人などの、練習時間の限られた人が、練習時間をムダにしないために、このビデオを参考にするといいだろう。

しかし、私が興味を持ったのはぐっちぃ氏のプレーよりも、むしろ偉関氏のプレーである。

・軸のブレ
・サービス
・手首の使い方

上の3点が印象に残った。
まず、軸のブレについてだが、ほとんどブレない。

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というのは偉関氏はぐっちぃ氏のトレーナーなので、ブロック主体であまり動かないからである。当たり前といえば当たり前だが、激しく左右に動かず、全力で打たなければ軸はブレない。体幹が弱いとか、軸がブレやすいという悩みを解消する一番の方法はあまり激しく動かないことだと気づかされた。全力で左右に動き、全力でスイングして軸をブレさせないようにするのは、いわば揚げ物を腹いっぱい食べて、必死で運動して減量するようなものだろう。小さく、軽く動くように気をつければ、身体がブレにくい。

そして偉関氏は言う、基本練習(フォア打ちや切り替え)の時は5~6割の力で打て!と。私も前記事「今はその時だろうか」の中で70%ぐらいの力で打つのが最も威力と安定性のバランスがいいのではないかと提案したが、それほど間違っていなかったようだ。この数字は安定性だけでなく、戻りの早さをも考慮した上での結論らしい。ただし、3球目の時は7~8割がいいのだという。

実際に偉関氏は、いかにも力を抜いて打っているように見える。前腕だけで、軽くチョコチョコと振っているだけのときでも、非常に速いボールを返球している。相手のボールの威力を利用し、打点を早くすれば、こんな小さなスイングで、こんな速いボールが打てるのかと軽く驚いた。偉関氏はバックスイングからゆっくりストロークを始め、インパクトの20センチぐらい前のところになって初めて急激にスイングスピードが上がるように見える。

サービスも同様である。図1のあたりでは偉関氏のラケットはゆ~っくりと降りていき、ボールに近づいていく。

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図1

そして下の図2、つまりインパクト直前に急激にスピードを増し、インパクトを迎える。

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図2

私がサービスを打つときは、図1のあたりで一気に力を入れ、そのままインパクトに達してしまう。
偉関氏のこの打ち方はサービスだけではなく、他の打法でも見られる。初めはゆっくりとスタートするのだが、インパクトの直前で瞬間的に加速する。以前からぼんやりと思っていたのだが、これがいわゆる「タメ」ということではないだろうか?

よく「強いドライブを打つ前にタメを作らなければならない」などと言われる。タメというのは「身体をピタッと止めて、筋肉を緊張させ、溜め込んだ力を一気に放出させる」、そんなイメージで考えていたのだが、もしかしたら「タメる」というのは必ずしも動きを止めるのではなく、実際は多少の「助走」を伴うべきなのではないか。

私のサービスは腕を40~50センチほど一気に動かすが、おそらく最もスピードが乗るのは、力を込めてから20~30センチの地点で、そこから先はスピードが落ちていくような気がする。もしかしたら、私のインパクト時のスイングスピードは最大スピードの半分ぐらいかもしれない。一方偉関氏はインパクトの直前までゆっくりとラケットで迎えに行って、ボールが十分近づくまで待ってから、一気に力を入れているようにみえる。

さらにインパクト時に手首を使い、スイングスピードをさらに上げる。手首を使うと面がブレて不安定になるので、私はできるだけ手首を使わないようにしていたのだが、上手に手首を使えば、力を抜いた小さなスイングでも威力のあるボールが打てるということがわかった。

【まとめ】
まず、身体がブレないようにするには、何よりもまず、激しく動かないようにすべきである(コロンブスの卵だが)
また、ボールに威力を持たせるには、ストロークの初めから終わりまでずっと力を入れるべきではない。力が持続するのは、力を入れてから20~30センチほどの距離にすぎないからである。「タメ」というのは身体の動きを完全に止めて、身体に力を漲らせることかと思っていたが、実際はボールを迎えに行くこと(すぐに力を込めず、焦らすこと)を意味するのではないだろうか。初めは力を抜いてゆっくりスタートし、ラケットがボールに十分近づくまで迎えに行って、そこから一気に力を入れると、威力のあるボールが打てる。これがこのビデオを観た私の結論だが、実際に試していないので合っているかどうか分からない。この仮説が正しいかどうか次の練習の時に検証してみたいと思っている。

【付記】
偉関氏が何度も「~たほうが一番いい」「~するのが一番理想だ」というフレーズを使っていたが、このような「一番」の誤用は吉田海偉選手もしていた(前記事「Action! Not Words」)。母語が中国語の人に特有の間違いなのかもしれない。誰か指摘してあげたほうがいいのではと思うのだが。


IZUNA!!――何卓佳選手の卓球

いずな【飯綱】
(1)飯綱使いが用いるという動物。小さな鼠ほどの狐の姿をしているとも。管狐と同じとも、また、ヤマネともいわれる。→いいずな
(2)「いずなつかい(飯綱使)の略。転じて手品のこと

『日本国語大辞典 第二版』

仏道のくせは、幻術なり。幻術は今の飯縄(いづな)の事なり。天竺はこれを好む国にて、道を説(とき)人を教ゆるにも、これをまじえて道びかざれば、人も信じてしたがはず。されは釈迦はいづなの上手にて、六年山に入て修行せられたるも、そのいづなを学ばむとてなり。
富永仲基『翁の文』

ジャパン・オープン2014 女子準々決勝。石川佳純選手 対 
何卓佳選手の試合を観た。
毎年、ジャパン・オープンには中国の一軍が出てこない。その代わり次代を担うと目される中国の若手が出場することになっている。せっかく日本で開催されるのに世界の頂点のプレーが観られないのは残念だが、その一方で発掘されていない才能にめぐり会えるという楽しみがある。

去年は周昕彤 Zhou XinTong 選手というおもしろい戦型の選手が注目を集めた(前記事「変わる中国人」)が、今回もユニークな選手を発見した。

以下、ネタばれになってしまうので、来週末のテレビ放送まで結果を知りたくない人は、ご注意いただきたい。




石川選手は現在、日本選手として唯一ベスト8まで残っている。対する何卓佳He Zhuojia選手はほとんど無名の選手。かろうじて記録に残っているのは2012年のグアムでのワールドカデットチャレンジの女子シングルスで伊藤美誠選手を破り、優勝したことぐらいである。バック表の前陣攻撃型。ちょうど伊藤美誠選手や森薗美咲選手のようなタイプである。

何卓佳
宮崎アニメの女の子を筋肉質にした感じの風貌



石川選手はフルゲームの末、なんとか振り切ったものの、何選手のプレーは非常にトリッキーで、印象に残った。フォア面裏ソフトにもかかわらず、まるで表ソフトのような弾きを多用する。回転のあまりない鋭いボールが前陣から繰り出され、スピードでは石川選手を圧倒。コースもえげつない。フォアサイドを切る鋭いボールを打ったかと思ったら、次はバックサイドに厳しいボール。しかも正確でミスが少ない。

広角01
石川選手のフォア側にサイドを切る鋭いレシーブ
広角02
かろうじて拾う石川選手
広角03
間髪をいれず石川選手のバックへ厳しい返球

何選手は小技もいろいろあって、ツッツキも鋭い。フォアのツッツキでは右から左に思い切り薙ぎ払うようなツッツキも見せた。
薙ぎ払う
薙ぎ払うツッツキ

しかし、中でも驚かされたのは、前陣カーブロングである。
カーブロング02

カーブロング03

女子特有の早いピッチでのラリーで右に左に振り回しつつ、突然、フォアハンドで、ボールがラケットに絡みつくような独特のタッチから繰り出される変則的なナックルの払いを放つのだ。しかも球速が速い。石川選手はさぞやりにくかったことかと思われる。まるでカットマンのカーブロングのような、ボールに合わせて軽く押し出すような場合もあれば、積極的に横回転をかけて切っていく場合もある。それを前陣で放つのである。これはまさにイヅナだと感じた。

試合の中盤から後半のゲームでこのイヅナを何度か見せてくれるのだが、ボールタッチを極めれば、あんな高速ラリーの中でこんな技が使えるようになるのかと驚き、ボールタッチの重要性を再確認させられた。球撞きの練習というのは退屈なので、私はあまりやらないのだが、球撞きの練習はもっと積極的にやっておく価値があるのかもしれない(前記事「ボールの接地時間」)。

イヅナはかっこいい。しかし、イヅナはしょせんイヅナというべきか、鍛えぬかれた石川選手の揺るぎないドライブやブロック、切り返しの安定性を破る力はなかった。試合中盤で、何選手の早いピッチのラリーにまともに付き合ったら勝てないと判断した6・7ゲームで、石川選手は緩急をつけたラリー、あえてスピードの遅いドライブを混ぜることによって何選手のペースを崩し、みごと勝利した。

敗れはしたものの、何選手のイヅナは非常におもしろかった。卓球のバリエーションを広げる可能性があるのではないかと思った。ジャパン・オープンには毎年中国代表が出場しないので物足りなく思ったこともあったが、こういう個性のある中国選手が観られるのはジャパン・オープンならではかもしれない。

しかし、あのイヅナはイヅナで終わってしまうのだろうか。チキータのように一般的な技術として定着しないのだろうか。今日、女子選手の男性化が叫ばれているが、女子選手が男性的な攻撃を追い求めたところで、二流の男子選手にすぎない。女子選手らしい別の方向性を探ってほしい。何選手のようなトリッキーなプレーは女子卓球のもう一つの方向性にはならないだろうか。私は卓球を観る目がないので、こんな意見に現実性があるかどうか判断できないのだが。

【付記】
この記事を書いている最中に石川佳純選手がシンガポールのユ・モンユ選手を破り、決勝に進出した。準々決勝からのどの試合も途中で追いつかれ、あるいは逆転され、負けてもおかしくない試合の連続だったが、なんとか踏みとどまった。石川選手の精神力の強さは本物だ。
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ラケットは「佳純スペシャル」ではなく、相変わらずクリッパーウッド?
これだけ使い込んでいれば、卓霊さまもおわすにちがいない。 

不便の便――荻村伊智朗氏の時代

荻村伊智朗氏は言わずと知れた50年代を代表する卓球選手である。数々のタイトルを手に入れただけでなく、引退後は指導者やITTF会長としても活躍した。単なるスポーツ選手だけでなく、政治的にも多くの功績を遺した人である。氏の回想録?岩波ジュニア新書『卓球、勉強、卓球』を読んでいろいろ考えさせられることが多かったので、以下に綴ってみたい。

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荻村氏が卓球を始めたのはなんと高校生の時だという。現代では全国レベルの選手なら、小学校低学年、早い人なら就学前から卓球を始めるのがふつうだろう。中学校から始めて全国大会に行くのでもかなり大変だが、荻村氏の場合は高校生から始めて世界を獲ったというのだから驚かされる。

戦後間もない、物質的にも精神的にも余裕のない時期だったため、当時は小さい頃からスポーツに親しむという環境にはなかった(日本だけでなく、ヨーロッパでも苦しかったようだ)のだろう。それを考えると、今はなんと恵まれていることか。各学校に卓球台や卓球部があり、それ以外にも地域のスポーツ少年団や卓球教室など、やろうと思えばいくらでも卓球ができる環境が整っている。荻村氏が卓球を始めたころ、高校の体育館の屋根は半分焼け落ちていて、卓球台も卓球部もないという環境だった。それでなんとかお金を工面して自分たちで卓球台を1台買い、卓球部を創部したという。しかしわずか1台しかないため、台で練習できるのは限られた時間だけ。なんとかして長い時間卓球がしたい。どうすれば台で長く練習できるか。ミスをしなければいいのである。現代の私たちはフォア打ちなどを適当に打って、5~6往復ぐらいでミスをして、間髪をいれずまた次のボールを打ち始めるが、荻村氏の時代は1回ミスしたら次に自分の番が回ってくるまで10~20分ほど待たなければならない(たぶん)。うっかり第一球目でミスしてしまったら、悔やんでも悔やみきれないだろう。少なくとも50往復ぐらいは打たないと割に合わない。すごい集中力で1打もおろそかにしてはいけないという内容の濃いラリーが続いたことだろう。タダで、いくらでもできるとなると、練習の質が途端に低くなる。私にはこの気持ちがよく分かる。

昔、任天堂のファミリーコンピューターというのが発売されたとき、ゲームセンターのゲームが家庭でタダで好きなだけできるということになった。「マリオブラザーズ」(スーパーマリオではない)とか、「ゼビウス」とか、「スターフォース」(これはゲームセンターそのままとはいかなかったが)とか。
ゲームセンターの人気ゲームはいつも人が並んでいて、自分の番になるまでに30分や1時間も待たなければならなかった。しかもわずかな小遣いから1回50円なり、100円なりを払ってプレーするのである。いきおい、気合も入る。遊び半分でプレーなどできない。毎回真剣勝負である。しかし、なかなかうまくいかないから、何度も順番を待って、人のプレーを目を皿のようにして観察・研究する。「どうして4面のあそこでいつもミスするのだろう?」などとミスの原因を考えに考えぬく。金と時間がかかっており、プレーできる回数が有限だからである。
それが家庭で無料でできるとなると、プレーは惰性になってしまう。簡単なはずの序盤でミスしてしまったら、そのまま続ける気にはならず、即リセットである。金もかからず、無限にできるとなると、集中力など湧いてこないし、すぐに飽きてしまう。

荻村氏にとっての卓球はちょうどこんな感じだったのだろう。台で練習できないからといって卓球の練習ができないわけではない。人のプレーを集中しながら観察・研究し、台で練習できるそのときに備えて万全の準備をし、自分の順番が回ってきたら、その喜びを噛みしめるようにボールを打つ。なんと充実した練習だろうか。

台で練習できない時に荻村氏はとにかく走ったのだという。交通機関がまだ整っていなかったこともあり、歩いたり、走ったりして移動することが多く、それに加えて毎日ランニング10キロ、うさぎ跳び、筋トレといったことをやっていたようだ。現代ならランニングや筋トレはつまらないし、しんどい…ということになるだろうが、荻村氏はおそらくこれらの練習にも充実感を感じていたに違いない。

「これらの練習が台での練習につながる!」
「鍛えた足でどのぐらいフットワークが改善するだろうか?」

などとワクワクしながら筋トレやランニングに励んでいたに違いない。

荻村氏が都立大に進学した頃も満足に練習できる環境がなく、壁打ちをよくやったのだという。床にバウンドさせずにダイレクトに壁に打ち付けて、床にボールを落とさないようにしてラリーを続ける。これはかなりのスピードで返ってくるので、無駄の多いフォームでは続かないだろう。またボールを正確に一定の回転で返球しないと、次のボールがとんでもない方向に飛んでいってラリーが続かない。それで正確なフォームやタッチ、素早いスピードに対する反射能力などが養われたのだという。荻村氏はこの壁打ちを百本もミスなく続けられたため、実際の台上でのラリーが遅く感じたと述べている。

この練習のあと夜に人間と練習すると、かなりまだるっこしいという感じになります。時間の余裕がたくさんあるような気分になるのです。【中略】速さの面では絶対にどんな人にも負けないという実感を二年間で持つことができたのです。

2年間壁打ちを続けられる集中力、これは台で練習できないから、しかたなくやっていたというたぐいの練習ではないだろう。「これで正確に素早く打球できるようになる!」などと意欲を持って壁打ちに励んでいたに違いない。

サービス練習は試合で勝つために絶対に必要である。荻村氏の「一人練習」には、もちろんサービス練習も含まれている。荻村氏は台に万年筆のキャップを立て、それを狙って正確なサービスが打てるように練習したのだという。当時ボールは貴重品である。割れたら薬剤で溶かして割れ目を塞いだり、湯を沸かして凹みを膨らましたりして、再利用した。多球練習なんて贅沢な練習法は考えられない時代だった。荻村氏は2~3球のボールを持っていたが、サービス練習に使うのは1球だけだったのだという。そうすると、1球打つごとに拾いに行かなければならない。いい加減な気持ちでは打てない。文字通り「一球入魂」である。それを何時間も繰り返した。なぜ1球だけで練習したのか。2~3球で練習すれば、拾いに行く無駄な時間が省けるのに。

こんな話を聞いたことがある。
最近は手書きで文章を書く人が少なくなった。みんなパソコンでパチパチ打って書いてしまう。途中で文章が気に入らなくなったら、その部分だけ大幅削除、書き直しというのが当世風だ。しかし一方で手書きにこだわる人もいる。曰く

「パソコンで文章を書くのは早すぎる。あれでは考える前に書いてしまう」。

手書き氏が手書きにこだわるわけは、手書きなら、書きながら考えることができるからだという。1字1字噛みしめるように書いていると、途中で自分の論理がおかしいことに気づいたり、新たな発想が現れたりするのだという。逆にパソコンで書いていると、初めの発想が十分展開しないまま、未熟な状態で完成(時には論理が破綻)してしまうのだという。

同様に荻村氏のサービス練習でも、ボールを拾いに行く時間は無駄な時間ではなかったのではないか。おそらく打球時のボールの感覚を噛みしめながら、「どうして低く速いボールが打てなかったのか、角度が悪かったのか、いや、打点が高すぎたのかもしれない…」などといろいろ考えを巡らせながらボールを拾いに行っていたのではないか。このような「充実した時間」は、現代のボールをふんだんに使うサービス練習では望めない。反省する前に次のサービスを打ってしまう…。

【まとめ】
私たちは荻村氏の時代と比べて、はるかに効率的で便利な練習環境にあるが、それで本当に「充実した練習」ができているのだろうか。実際にボールを打つ練習らしい練習の裏側にある、豊かな「練習」を切り捨ててはいないか。そんなことを考えさせられるエピソードだった(という私もあまり考えずに記事を書いてしまい、後で恥ずかしく感じたりするのだが)

【付記】
昔、「知ってるつもり」という娯楽番組があり、荻村伊智朗氏の生涯を扱った回がyoutubeにアップされていたので挙げておく。娯楽番組ということで、かなりテレビ的な演出が含まれているのではないかと思われる。実際はもっとドロドロした負の面もあったのではないかと思われるが、ネガティブな側面には一切言及がなく、典型的な偉人伝になっている。



上善如水――指導の原理

コーチと監督は何が違うのか。
選手を技術的に引き上げるのがコーチだとすると、監督は何をすればいいのか。予算を取ってくるのが監督の仕事なのだろうか。そんなことを疑問に思っていたのだが、村上恭和『勝利はすべて、ミッションから始まる』(WAVE出版)を読んで監督の仕事がよくわかった。

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本書によると、監督の仕事の最たるものは「仕組みを作る」ことなのだという。
たとえば日本女子選手がオリンピックでメダルを取るにはどうすればいいか。
各選手に「死ぬ気でがんばれ!」などと抽象的な言葉でいくら激励したところで、意味がない。
そうではなく、どこまでも目標を具体化させるのが最も有効である。倒すべき相手は誰か、克服すべき弱点は何かを明確にするのである。

たとえば、日本女子チームはいくどとなく韓国のカットマンに屈してきた。彼女たちを倒せなければ日本女子のメダル獲得の可能性は低い。対象は韓国のカットマンである。

しかし、日本女子選手たちにはカット打ちに対する不安と、カットマンに対する抜きようのない苦手意識がある。そのカット打ちの克服と、カットマンに対する苦手意識の払拭には何が必要だろうか。

村上監督は上記のように目標を具体化し、最も効果的な手段で目標達成の最短距離を弾き出した。
まず、外国のカットマン各選手の用具やスタイルをコピーできるカットマンのトレーナーを雇い、さまざまな選手との対戦をシミュレートしながら、毎日必ずカット打ちを練習させる。単なるカット打ちではなく、具体的な選手を想定してのカット打ちである。これが技術面での対策。次に精神面での対策も講じられた。なんと、村上監督は自腹を切って、カットマンに勝利した場合にボーナスを出したのだという。それまではカットマンとの対戦が憂鬱だった選手たちも、「カットマンを倒したら、ボーナスがもらえる!」ということで、一転してカットマンとの対戦が楽しみになってきたのだという。

このように監督が上手に仕組みを作ったら、あとは選手たちがコーチの指導のもとに自分で勝手に(?)強くなっていく。監督自ら選手を指導し、各選手を技術的に引き上げようとしても、効果は限定的だろう。最も効率がいいのは、環境を整え(カットマンのトレーナーを雇い)、モチベーションを高める(報奨金を出す)という、間接的な指導――というより戦略である。こうすれば、自身は直接手を出さずとも、水が低きに流れるように自然に選手たちが強くなってくれるのだ。どことなく、前記事「「する」ショットと、「なる」ショット」」に通じるものがある。

本書はこのような「戦略」を実体験とともに紹介した本である。また、トップ選手の考えていることや、トップ選手の練習メニュー(全国トップレベルになるには1日6時間ほどの練習が必要等)などへの言及もあり、興味深い。さらにこの本は卓球のみならず、なんらかの大きな目標――「ミッション」に取り組もうとしている人にも多くの示唆を与えるだろう。とりわけ、ぼんやりと「がんばらなきゃ」と思いつつも、なかなか具体的な行動に踏み切れない人や、いくらがんばってもチームの戦績が上がらないと嘆く指導者には有益だと思われるので、一種のビジネス書だとも言える。

ただ、注意しなければならないのは、これを読んだだけで、なんとなく自分の前に立ちはだかる問題が多少解決し、前進した気分になってしまうことだ。当たり前のことだが、これを読んだだけでは自分の問題は何一つ解決しない。実際に目標や障害を具体的に認識し、そのために必要なことを行動に移さないことには意味がない。大学生が卒業論文を1ページも書いていないのに、参考資料を山のようにコピーして、それで一仕事終わったという錯覚に陥ってしまうのに似ている。

やり方は分かった。

自分にはそれを解決する能力も、時間もある。

あとは行動!行動あるのみである。

両掌音声――組み合わせの妙

新しいラバーを新しいラケットに貼ってみたところ、残念な結果に。
ポコンポコンという打球感で、なんだか歯の浮いた状態でご飯を食べているような、そんなもどかしい、隔靴掻痒の感覚…。ボールを打つたびにグリップに伝わってくる違和感。

「このラケットはハズレだった!」

こんなことをつい思ってしまうのだが、悪いのはラケットのほうなのだろうか。

私はこういうケースでは、ついラケットの方に責任を負わせてしまい、その「ダメ」ラケットはお蔵入りになってしまっていたのだが、最近、そんなお蔵入りになったラケットを引っ張り出してきて、いろいろなラバーを貼り付けたりすると、ラバーによっては打球感が豹変し、しっとりと、吸い付くような打球感になっていて、刮目させられる。

「とても同じラケットとは思えない!すごくいい!」

私にとって「いい」ラケットというのは、打球感がしっとりとしたラケットである。威力が出るかどうかはあまり関係ない。
また、ラケットとラバーの組み合わせだけでなく、接着剤の種類や厚さなどを変えることによっても打球感が変わることがある(気がする)。塗りムラがあるかどうかも影響するに違いない。貼り付ける時にそっと貼り付けるのか、ギューッと押し付けながら貼り付けるのかでも影響がありそうだ。

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あるいは、ラケットコートの塗布の有無も影響するだろう。

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ラケットコートを塗布した後は、それほどスベスベではない。そこからボロ布などで均一になるようにこすると、おそらくもっとスベスベになると思われる(少しだけ試したことがあるが、強くこするとラケットコートが簡単に剥がれてしまうので、やさしくこすらなければならない)

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スベスベになれば、ラバーとの密着度が上がり、打球感にも少なからず影響するはずだ。

少し前に「焼きラケ」というのが流行ったが、ブレードをガスコンロで軽くあぶってみたり、逆にラバーを貼る前に霧吹きで表面を濡らしてから貼ったら、打球感にも影響するのではないだろうか(このくらいならルールで禁止される「後加工」には当たらないだろう)

さらにラバーの面積を変える――下に少し感覚を空けて貼ってみるというのも効果がありそうだ。

私は用具マニアではないので、それほどいろいろな組み合わせを試したことがあるわけではないのだが、私の限られた経験の範囲でもラバーや接着剤を替えることによって劇的にラケットの打球感が向上したことが何度かある。とすると、私にとっての真性「ダメ」ラケットというのは、そうそうあるものではなく、単に貼り付けるラバーとの相性、あるいは接着方法が悪かっただけということも考えられる。

【まとめ】
最近、お蔵入りしていたラケットに使い古しのラバーを貼ってみたら、全く違う打球感になって驚いた。ラケットの打球感というのはこうも劇的に変わるものなのか。ここから得た教訓は、ラケットに1~2種類のラバーを貼っただけで、そのラケットの打球感が自分に合わないと即断するべきではないというものである。ラバーとの相性や接着剤等を工夫すれば、放り出して顧みることのなかったラケットが最高の相棒になるかもしれない。  

「する」ショットと、「なる」ショット

多球練習などを体力の限界まで続けたとき、腕が痛くなってくるときがある。
よく言われるのだが、これは腕に力が入っている証拠である。腕だけに力を入れて打つのは間違っている。身体全体を効率よく使わなければならない。

そうだ!腰だ!腰を使って打たなければ。

池上嘉彦『「する」と「なる」の言語学』はすでに古典だが、示唆に富む書物である。そこには言語のみならず、文化の違いをも説明しうる興味深い考察やエピソードが紹介されている。

「春めいてきた」
「春が来た」

という近い内容の2つの表現があるが、前者は言語的にぼんやりしたとらえどころのない表現である。「何が」「どうしたか」がぼんやりしているのだ。つまり個別的に言えば、「気温が暖かくなる」「氷が溶ける」「花が咲く」「小鳥が楽しそうにさえずる」…これらを総合的に感じて「春めいてきた」というわけである。一方「春が来た」というのは言語的には明確である。現在の状況から一つの主体「春」を選び出し、「春が」「来た」という主体の移動として表現するのである。英語でSpring has come.と言った場合、もちろん後者の言語的に明確な表現になる(おそらく日本語の「春が来た」は漢詩などの翻訳的な表現に由来するのだろう)

日本語が全体を未分化のまま、総合的に表現しがちなのに対して、英語では全体の中から一つの主体を切り取り、その単独の行為として表現することが多いというのが池上氏の主張である。(だから日本語は主語や目的語の省略が頻繁に起こり、英語は名詞の単複にうるさい、といった議論にまで発展するのだが、本筋とは関係ないので割愛する。)

また、オイゲン・ヘリゲルEugen Herrigelが弓の師匠に「無我」の境地を尋ねる次のような問答も興味深い。

そこである日、私は師匠に尋ねた。
「もし矢を射るのが『私』でないというならば、一体どのようにして矢は放たれることができるのでしょうか。」
「『それ』が射るのです。」
「そのお答えならもう既に何度か承っています。だから改めて言葉を変えて質問させていただきますが、『私』というものがすぐそばに控えていてはいけないというのに、どうして私が無我の境地で矢の放たれるのを待つことができるのでしょうか。」
「『それ』が張りつめた状態で満を持しているのです。」
「でも、この『それ』とおっしゃるのは一体誰なのでしょうか、何なのでしょうか」

矢を射るとは、いったい何なのだろうか。「我」を空しくすれば、「それ」が矢を射るのだという。あるいは別の部分では「熟れた果実が枝から落ちるさま」だという。池上氏は自らの同じようなエピソードも紹介している。

アメリカに留学していた頃、始めて日本の映画を見たアメリカ人の学生が刀を構えた二人の武士がにらみ合ったままいつまでも切り合いを始めないのが実に奇妙だと語っていたのを思い出す。二人の武士は「何もしていない」(not doing)と映るのである。(しかし、勝負はその間に決まっている。そして何かが起こったと思う時は、の一瞬の閃きと徐々に体勢を崩して行く一方の武士の姿によってすでに決まった結果が顕在化されるだけのことなのである。)

つまり、「結果」というものは、表面化した「結果」だけを表しているのではなく、それ以前の様々な個別の行為や思索の極まりまでを含み、それが極まった時にはもう「なるようにしかならない」ような自然さで現れる。

これを読んで私にも思い当たることがある。日本語では自分の近況を報告するとき、

「結婚することにしました

よりも

「結婚することになりました

という言い方を好む。これを聞いた外国人に「あんたら、本当に結婚する気あるのか!」と呆れられた覚えがある。しかし後者の表現は結婚の意志がないというのではなく、結婚という結果に至るまでにいろいろな経緯があり、自分一人の意志だけではなく、相手の意向やその他もろもろものドラマを経て「おのずから」結婚が決まったということを表しているのだろう。

卓球に引き換えてみると、腕を振ろうとして振るのではなく、腕を振らざるをえないように全身を「持っていく」ことが確実なショットを放つコツなのだと思われる。

ここで冒頭の「腕が疲れる」というところに戻ってみる。
卓球のショットは指、手首、腕、肩、腰、脚などを総合的に使った運動である。しかし私たちは英語的な表現のように、全体の中から一つの主体(主に腕)を選び、そこに意識を集中させて、それを単独で働かせようとがんばってしまう。そうなると腕に力が入ってしまい、腕だけを「振る」ことになり、腕以外の部分に意識が行かなくなってしまう。

上手なショットは、むしろ腕の力を抜き、「腕を振る」という結果に至るまでには身体のさまざまな部分が動いて、結果として身体全体が腕を押しやることなのである。

そのためには腕ではなく、腰を使って打たなければならないと言われているが、そうやって腰の一点に意識を集中し、腰を回そう、回そうとすると、かえってうまく打てないような気がする。それは腕を腰に置き換えただけなのだから。

それよりも上半身と下半身の複数の部分に同時に力を入れたほうが自然に腕が「振れ」、腰が「回る」のではないだろうか。

たとえば、上半身に関してはフリーハンドと肩を使うのがもっとも有効だと思われる。

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仮面ライダーが「変身」するとき、フリーハンドは鋭く後ろに引っ張られる。これによって反対側のラケットハンドがおのずから「押し出」される。その力を利用してラケットハンドの肩を回すのである。
他にも、よく指導書などに書かれているのは、「フリーハンドで向かってくるボールをキャッチするようにして、フリーハンドを前に出す」ということである。私は水泳のクロールのイメージも近いのではないかと思う。

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水面下で片腕をフンっと掻けば、もう片方の腕がズバっと出てくる。

下半身ではどうだろうか。私はいろいろ試してみたが、右脚をズバっと伸ばしてみるのが有効だと感じた。

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この写真は伸ばしている脚が逆

上の写真では左足を伸ばしているが、そうではなく、フォアハンド時に右足をズバッと斜め後ろに伸ばすと、上半身と下半身が反対方向にねじれ、自然に右腕が前に伸びる(野球拳の振り付けが近いのだが、適当な画像が見つからない)。ただ、こんなに豪快にフリーハンドや脚を使うと、連続攻撃に間に合わないので、ある程度時間的な余裕がある場合に限られるだろう。

【まとめ】
身体の一点だけを使う「する」ショットよりも、身体全体を使う「なる」ショットのほうが望ましい。
「腕を振る」のではなく、「腕が振れる(可能ではなく、自発の意)」ようにフリーハンドや肩を使い、「腰を回す」のではなく、「腰が回る」ように上半身と下半身の複数の部位に力を入れて、反対方向にねじってみる。むしろ、腕や腰の力を抜いたほうが、それらを素早く回せる。特に後者について、多くの人が腰を使おうと腰に意識を集中して努力しているが、私はそうやってあまりうまく腰を回せたことがない。腰に力を入れて「回す」のではなく、上半身と下半身の連合によって上から下から身体をねじることによって腰が「そうならなければならない」自然さで「回る」のだと思う。

小笠原流礼法から見た卓球――『疲れない身体の作り方』を読んで

小笠原清基『疲れない身体の作り方』を読んで、卓球にも応用できることがあるのではないかと感じた。
小笠原流礼法の基本的な振る舞い――立つ、座る、歩く、持つ等を説明した本なのだが、卓球に関連する部分として以下の2点を紹介したい。

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小笠原流は礼法だけでなく、弓術・馬術を含めた総合的な教えなのだという。

一つは内側の筋肉を使うという原則である。

身体の外側を使うと、 重心が不安定になって、しっかり立っていられません。軽いとしても、物を持つわけですから、何も持たないとき以上に、重心は中心に定まっていなければ、安全が保てません。
・肩ではなく、二の腕(腕の付け根)
・手ではなく、前腕(内側)
で持つイメージで、持つといいでしょう。
 
「物を持つ、無駄のない動きをする」
 
上のポイントの「肩ではなく、二の腕」というのが分かりにくい。文脈から判断すると、肩の外側に力を入れるのではなく、肩の内側に力を入れるということだと思われる。この本では腸腰筋(肚から太ももにつながるインナーマッスル)を鍛えることを重視しているので、このポイントも肩の外側の筋肉ではなく、肩の内側(脇の下のあたり)の筋肉を使うことを指しているのだと思われる。腰肚の一点を中心にして筋肉を使う、というより、身体の中心軸の線に近い筋肉を使うということかと思われるが、はっきり分からない。

ご高齢になると膝がゆるみ、傷める方が多いものですが、礼法の歩みを続けていらっしゃる方は、内腿の筋肉が発達しているため、膝にかける負担がすくなく、健脚を保っておられます。
「歩く」
 
このように小笠原流礼法では、腕も脚も内側の筋肉を使うことによって体幹を保つことができるとするらしい。前腕や上腕というのは意識したことがあるが、腕や脚の内側と外側の筋肉を区別するという視点が新鮮だった。

また、次のことは戒められている。

・遠くのものを、動かずに、腕だけ伸ばして持つ(取る)
・下に置いてあるものを、しゃがまず、かがんで持つ
「物を持つ、無駄のない動きをする」

この部分などはまさに卓球に通じる部分である。バック側に来たボールや短いストップを、下半身を動かさず、腕だけを伸ばして打ってしまったりする「横着」は身体の体幹を歪ませ、無理な姿勢で不適当な部位の筋肉を使用することになる。そのため素早く力強いボールが打てなくなってしまう。

もう一つは呼吸である。

 70余年、礼法の稽古を続けてこられた門人のある女性は、80歳を超えて、過日も和歌山の紀三井寺の階段を一気に上り、周囲の人々を驚かせたようです。【中略】
「平地と違いません。呼吸には平地も階段も別はないのです」【中略】
彼女は、足で上り下りしているのではなく、呼吸と合わせ、全身で上り下りしているので、疲れ知らずなのでしょう。

「歩く」

 小笠原流礼法では呼吸と身体の動きをシンクロさせることを重視しているらしい。卓球でそんなことが可能だろうか。早いピッチの前陣のラリーでは難しいかと思われるが、ツッツキや、ちょっと台から離れたラリーなら呼吸と動きをシンクロさせることも可能かと思われる。その効果のほどは未知数だが、上手に呼吸と動きを合わせられれば、反応スピードと威力が増すのではないか。

【まとめ】
普段の生活の中でどのように身体を使うかが示されており、前記事「大人の保健体育」で取り上げた本と同様、なかなか興味深かった。身体のどこに力を入れるべきか、あるいは抜くべきか、呼吸を動きにシンクロさせるという点は示唆されるところ大である。これらが実際、どのぐらい卓球に応用できるか分からないが、頭の片隅にでもとどめておきたい知識である。ただ、一般向けの軽い読み物なので、詳細な説明は期待しない方がいい。それと前口上が冗長なのと、小笠原流礼法の宣伝が多いのが気になった。

 

卓霊さま――卓球と信仰

出かける寸前、ウネさんから、船に乗るに際しての注意を受けていた。
「こまい船やが、船霊さんはちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
「ふなだまさん、ですか」
慌てて手帳に書き込む。
「ほう。この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊さんをつけて、仕事を終えるからねえ」
「船の、どこに?」
神棚のようなものがあればいいが、小さい船ならそんなものがあろうとは思われなかった。
「ほれは、誰も知らんのよ」
「は」
「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」
「それはお札のようなものですか」
「いいんや、女の子の髪やったり、櫛やったり、歯やったり、いろいろやねえ」

梨木香歩『海うそ』

私は小説が嫌いだった。

今では、「純文学」などというものを読む人も少なくなったが、私が若い頃は、「純文学」というのは崇高なものであり、これを読むと頭が良くなる、大学生なら近現代文学の有名な作品にはひと通り目を通しておくものだ、という雰囲気があった。だから昔は「現代日本文学全集」などという数十冊もある叢書が各家庭に置いてあったりしたものだ。それで高校生の頃、漱石や志賀直哉、太宰治などという作家の作品をいろいろ読んでみたりしたものだ。しかし、まずストーリーがつまらないし、もったいぶってはいるけれど、何も深いことは書かれていないように感じた。それで「裏切られた」と思い、大学生になってからは小説を毛嫌いするようになった。

あんなものを何日もかけて読むのは時間の無駄だと長年顧みることもなかったのだが、中年になると「純文学」というものに味わいのようなものを感じるようになった。人生経験のなせる業だろう。大学生ぐらいで「純文学」を読んでその味わい――作者の意図したおもしろさが理解できる人は相当老成しているのではないだろうか。私だったら若い人に純文学を読めとは勧めない。それよりは司馬遼太郎などの、読んで楽しく、知識が身につく小説を勧めるだろう。ともかく、若い人が小説に求めるおもしろさや知的な深さは「純文学」にはないだろうし、それはある程度の人生経験を積まなければ理解できないおもしろさなのだと思う(譬えるなら世界各国の美食を極めた人が、一周して卵かけごはんに舌鼓を打つようなものだ)。

最近読んだ梨木香歩氏の『海うそ』という作品もまた、味わい深い作品だった。昭和初期に地理学かなにかを研究している大学教員が南九州の小島に1月ほど調査に訪れ、そこに今もなお生きている日本の古い風俗、伝承などと出会うという話なのだが、冒頭の抜粋のような場面に出会うと、ドキドキする。近代的なインフラの未発達な草深い山奥に脈々と受け継がれている信仰。そして誰もがそれを当然のように受け入れている…。読みながらいろいろな疑問が湧いてくる。

「もし、船霊に挨拶もせずに船を出したらどうなるのだろうか?」
「船霊ってどうやって入れるんだろう?」
「女性の髪って誰のだろう?」
「いつから、どんないきさつがあってこんな風習が始まったのだろう?」

現代の視点で考えると、こんな奇妙な信仰を疑いもせず、誰もが自然に受け入れている異常な社会というのは、まるでSFか何かで出てくる異世界のようにさえ感じる。

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しかし逆にこんなふうにも思えてくる、もしかしたら、このような信仰を持たない現代の我々の社会のほうこそが異常なのではないかと。歴史的に考えれば、おそらくこのような信仰は時代や場所を問わず、世界中のあらゆる所で見られたことだろう。非科学的な迷信だとしてこのような信仰が失われてしまったのは人類の歴史からすれば一瞬にも等しい極々最近のことである。100万年以上(?)にもわたる人類の歴史の中で真実だとされていたものがここ100年かそこらで「とるにたらない迷信」とされてしまったのだから、異常なのは今の社会のほうだという意見にも一理あるだろう。なにせ、存在することを証明するのはある程度の努力によって可能だが、存在しないことを証明するのは恐ろしく困難なのだから。

私にとって船霊のような存在が本当に実在するかどうかは大きな問題ではない。それは信仰なのだから、自分にとって好都合なら、実在すると信じるにやぶさかではない。アンドロのラケットにキネティックとかいうラケットがあってグリップの中に砂のような粒が入っていて、振るとシャカシャカ鳴るのだという。あれがグリップの振動になんらかの作用をもたらし、打球を安定させるか、威力を高めるか、そんな触れ込みだったと思う。廃盤になってしまったところを見ると、あまり効果を実感する人がいなかったのかもしれない。

同じように「卓霊さま」入りのラケットがあったらどうだろう?もし自分のラケットに卓霊さまが入っていたりしたら、卓霊さまの目をおそれ、なげやりなプレーや、緊張感のないプレーなどできないだろう。真摯に卓球に取り組むことができる。卓霊さまは卓球を真に愛する人のみを嘉するからだ。勝利したからといって自分の実力だなどと思い上がることもない。それはひとえに卓霊さまの御心にかなうプレーをしたためなのだ。逆に負けた場合は自分の心が卓霊さまの心に適わなかったからなのだ。独りでつらい練習をしているときも卓霊さまといっしょにがんばっていると思えば耐えられる。卓霊さまが本当に実在するかどうかなど関係ない。卓霊さまを信じることによってすべてがいい方向に向かうのなら、私は卓霊さまを信じたい。

福音がある。数年前にみまかられた卓球界の古老がこんなことを言っていたのだ。

「長年苦労を共にしたラケットには卓霊さまが宿る」と。

【付記】
コメントなどをされる前に前もって記しておくが、この記事は手垢のついた薄っぺらい近代批判であり、いつものくだらない筆すさびである。軽く読み流してほしい。
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