しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2013年06月

よく「手打ちはいけない」と言われる。では、どうして手だけで打球してはいけないのだろうか?

「ダメなものはダメなんだ!」「手打ちがダメなのは常識だ!」

しかし、どうしてダメなのかをきちんと考えないと、根本的な原理を見誤るような気がする。

手だけでスイングすると、不安定になり、腕に力が入らない。
手だけでスイングすると、ボールがブレる。まっすぐ打てず、狙った場所よりも左だったり、下だったりに飛んでしまう。そしていくら腕力のある人でも、手だけで打った場合、力のこもったボールが打てない。速くスイングできない。なぜなら、土台が安定していないからだ。車に喩えると、500馬力の超強力なエンジンを積んだ車でも、安物のタイヤを履いていたら、ムダに空回りするばかりでエンジンの性能を全く生かせないのと同じだ。

だから腰を使えと言われる。腰を回せば、腰の回転によって安定してスイングでき、ブレが少なくなる。そして腰の安定に支えられてはじめて腕力がうまく生かせるわけである。

では、腕と腰を使えば事足りるのだろうか。スイングは腕と腰だけによって作られるのだろうか。そうではないだろう。腕だけでは無力である。だから腕を使うためには腰を使わなければならない。腰は腰だけで使えるのだろうか?いや、腰は腰単体では無力である。腰は足の支えがあってはじめて機能する。
その理屈で言えば、下方向に向かっては、足は足の指の支えがあって初めて力を腕まで伝えられる。身体は個々の部位が独立して機能するわけではなく、体全体が有機的に連携して力をボールに伝えているはずなのだから。

腰を使うようにアドバイスされることはよくあるが、足の指の使い方を指導されることはない。おおざっぱに「重心」という言葉で済まされる。
私たちは腰を回せと言われるが、その回し方をきちんと教わることは稀だ。指導者には「腰が回っていない」などと簡単に指導されるが、腰の回し方にもいろいろあるだろう。雑巾を絞るように水平にクルッと回すのか、あるいは斜めに傾けて回すのか、前方に押し出すように回すのか…
また、回す範囲はどのぐらいなのか。10センチ程度でいいのか、30センチぐらい回すのか。
ボールによって回し方も異なるのだろうが、目安となるものがほしい。
しかし、それ以前に順番から言うと、まず足の指の使い方を身につけて、次に足の使い方、それらが自分なりにできてはじめて腰の使い方なのではないだろうか。

『卓球レポート』2013年6月号にフットワークの特集があった。これこそ私が求めていた記事である。
松平兄弟がモデルなのだが、健太選手が足の指の使い方に言及していた。バック側に小さく回りこむコツについて次のように述べている。

「打球した後は、左足の親指の付け根辺りで床を強く押すようにして、右斜め後ろに動き、基本姿勢に素早く戻ってください」

細かい…。「左足の親指」だけでも十分細かいのだが、さらにその親指の付け根で床を押すといいらしい。この特集は他にもつま先の向きや膝の開き具合などにも言及されていて、具体的で詳しい。非常に参考になる。

【まとめ】
「手打ちはダメ」な原因を考察することによって腰を使う重要性、さらには足や足の指を有効に使う重要性に思い至った。腰は大切だが、腰を使おうと思って腰だけを意識しても腰は使えない。それよりもまず、膝やつま先の向き、足の指の使い方などをしっかり身につけるのが先決ではなかろうか。膝やつま先の向きが根本的に間違っているのに腰を回そうとしても回らないだろう。腰以前に腰而下(ヨウジカ。「形而下」から私が作った造語。腰を含めない下半身のこと)が効率よく使えるようにならないと、腰がうまく使えない。というより、足の使い方さえしっかりできれば、自然に腰が使えるようになり、腰が使えるようになれば、自然に腕も使えるようになるのかもしれない。そのような技術を身につけるためにも、フットワークの解説はステップの順序どまりではなく、膝の動かし方や、足先のどの部分に力を入れるか、どういうイメージで足を動かすか等をより具体的に細かく説明してもらえるとありがたい。

プロレスラー、スタン・ハンセンの必殺技であるウェスタンラリアットとハルク・ホーガンの必殺技であるアックスボンバーはどちらが破壊力があるのだろうか。

lariat









ウェスタンラリアット


axe bomber











アックスボンバー

ウェスタンラリアットは腕を水平に伸ばし、相手の喉元にぶつける。一方アックスボンバーは肘を直角に曲げ、曲げた前腕を相手の顔面を覆うようにぶつける。『プロレススーパースター列伝』(小学館)によると、当時押しも押されぬスーパースターだったスタン・ハンセンに対抗するためにハルク・ホーガンが編み出したのがアックスボンバーで、その威力はウェスタンラリアットをしのいだという(ただし、上掲書は梶原一騎原作のマンガなので、かなりの創作が含まれているらしい。また数十年前に読んだ本なので私の記憶も定かではない)

私がこれから何を書こうとしているのか、察しの良い方はすでに感づいているかもしれない。

インパクト時、普通の人はブレードを横か、少し斜めにしてウェスタンラリアット的に打つのではないだろうか。ブレードを縦にして打つ人はあまり見たことがない。それはかなり無理がある。しかし私は普通よりもブレードを立て気味にして、アックスボンバー的に打つのは効果があるのではないかと思っている。今回はそれについて語りたい。

アックスボンバー的なイメージで打つとはどういうことなのか。つまりブレードを立て気味(かなり斜め)にして後ろから前に倒す運動を伴う打ち方である。私は最近この打ち方の有効性を検証している。普通の打ち方―ラリアット的打ち方は打球時に手首をあまり動かさない。しかし、アックスボンバーは手首を前に倒しながら打つイメージである。実際にはそれほど動かしているわけではないが、普通の打ち方よりも包み込むように前に動かしている。この打ち方のメリットは以下のとおりである。

・空振りしない
斜めからボールを包み込むように打つので、空振りしない。

・ボールが落ちない
サイドスピンのかかったドライブになり、包み込むように打ち、かつ回転軸を外して打つので滑らない。表ソフト(ラージボール)でも軽々と下回転が持ち上がる。

・力が伝わる
ブレードを横にして打つと、スイートエリアの外に当たった場合、ブレードを押されてしまい、ブレる。だが、ブレードを縦ぎみにして打つと、スイートエリアを外してもボールに押されない。力強く真っ直ぐ打てる。コンパクトなスイングでスピードが出る。


まとめ
私はいつも新しい打ち方を模索している。以前は真剣白刃取り的な打ち方を試していたが、それがだんだん変化して、最近は「アックスボンバー」である。これは大きく分類すればサイドスピンドライブである。しかしあまりこすっていない。ラケットのヘッドからグリップに向かってボールをこすっている。他の言い方をすれば、招き猫的な打ち方である。こういう打ち方をしている人をあまり見ないのだが、デメリットが多いのだろうか。これから検証していきたい。





 

中国人選手と台湾人選手の違いは表情やしぐさで分かる。

台湾人選手は日本人とメンタリティーが近いので、それが表情に出る。ミスしたら「テヘヘ」と微笑むし、女子選手なら、もじもじした 恥ずかしそうなしぐさをしたりする。全体的にうっすらと微笑みを浮かべていることもある。
一方中国人選手はというと、ミスしたら憮然とした表情になるし、全体的に無表情で、時には眉間にシワを寄せていたりする。喜びを素直に表現することが少ない。口から出る言葉は「親孝行」とか「恩返し」「愛国心」「国の代表としての責任」「両国の友好のため」といったよそ行きの言葉が多い。
自然体の台湾人と深刻な中国人というのが従来のイメージだった。しかしここ数年で中国人の意識に大きな変化がうかがえる。

「八零后」という言葉がある。1980年代生まれという意味だ(「后」は「後」という意味)。従来の伝統的な中国人の価値観にとらわれない若者を指す言葉で、日本で言う「新人類」(ずいぶん例が古くて恐縮だが)という語感に近いのかもしれない。「九零后」は「八零后」がさらに「ひどく」なった90年代生まれの若者世代という意味だろう。

ジャパン・オープン2013の顧玉婷GU YuTing 選手と周昕彤 Zhou XinTong 選手を見て、その中国人らしくなさに驚いた。まるで日本人選手と変わらない感じなのだ。ミスをすれば、「うぅん!もう!」とばかりに顔をしかめ、はにかむし、うっすらと笑みを浮べていることが多い。特に周選手はなんというか「かわいい」。ペン粒の凄みのあるブロックで日本期待の若手選手を次々と恐怖のどん底に突き落とした(ちょっと大げさか)プレースタイルとは裏腹に、もじもじしたおとなしい女の子といった風情なのだ。

ぐっちぃ氏のブログでも周選手の独特の用具(F面粒、B面表)と「らしくなさ」についての言及があった(「女子で気になる選手がいました」)。

これからの若い中国選手(特に女子選手)は、日本人の共感を得やすい選手が増えていくだろう。強さではなく、キャラクターで日本人の卓球愛好者の心をつかむことになるかもしれない。

【追記】2013/06/23
塩野真人選手と福原愛選手が決勝進出!おめでとう!特に塩野選手はこれまであまり注目を集めてこなかっただけに嬉しいニュースだ。ただ、今日の観客のマナーはひどい。ITTVで観ていても、日本人選手以外にはほとんど拍手を送らない。おそらく実際の会場ではさらに寒々しい雰囲気の中でのプレーだろう。キム・ミンソク選手と徐晨皓選手の準決勝での選手紹介のときの拍手の少なさは異常だった。わざわざ日本に来てくれたお客様に対してこの扱いはひどすぎるだろう。去年の神戸でのジャパン・オープンのほうがまだマシだった。私は個人的にキム・ミンソク選手が好きなので、この試合では特にそう感じた。同じ日本人として申し訳ない。

【追記】2013/06/25
中国の方に 「九零后」について聞いてみたのだが、「どんどんひどくなっていますね」「八零后から見ても九零后はひどいです」ということだった。何が「ひどい」のかというと、「昔は苦労を積み重ねて成功するものだった。全く見通しの立たない苦しみを長期間経験した末にやっと光明が見えてくるというのが普通だった。しかし今の若い人たちは苦労しないで成功しようとしている」らしい。身につまされて反省させられた。

前記事「卓球のマナーとエチケット」は主に国際大会でのマナーとエチケットについて取り上げたのだが、私たちがふだん実践している、あるいは目にするエチケットについても書いてみたい。

先日、ゴルフが趣味の年配の方と打ったときのことである。その方が回転のかかった厳しいボールを無理にスマッシュしてミスしたので、「練習でイチかバチかの強打を打つのはマナー違反ですよ」とコメントしたところ、「えっ?そうなんですか」と驚かれた。卓球のエチケットというのは、挨拶をすることや、ボールを率先して拾いに行くことだけだと思っていたというのである。そういう目に見えるエチケットではなく、練習では、目に見えないエチケットもあると告げると、その方は部活で多少卓球をなさっていたので、すぐに納得してくれた。

「ゴルフでも最近マナーの悪い若いもんが多いんですよ。前にまだ人がいるのに打ち始めたり、芝生をえぐっても埋め直さなかったり、バンカーで打ったら、そのままにして行ってしまったり。しかし、卓球のマナーは少しわかりにくいですね」

それで「目に見えないエチケット」について少し話し合った。

そういえば、ネット上でのエチケットはネチケットとして明文化されている(といっても「ウィルスを仕込まない」といった当然すぎることが多い)が、卓球のエチケットというのは明文化されていないように思う。ルールブックに「バッドマナーの例」としてラケットを放り投げることや、相手を威嚇すること、ボールをフェンスの外に蹴りだすことなどが挙げてあったが、そんなことは当然すぎることで、実際にやる人は非常識な人だけだ。そうではなく、ふだんの練習でのエチケットというのがクラブを運営する上で大きな問題となる。卓球は相手と1対1でするスポーツなので、相手のエチケットが悪ければ、場合によってはクラブが解散に追い込まれることさえある。私が以前通っていた教室を辞めたのもエチケットが原因だった。上下関係の厳しい部活等では上の人間がしっかりしていれば、問題は起こらない。悪いところを先輩が率直に指摘するからだ。レベルの高い部活なら、先輩のボールを一定のコースに返せないと―ほんの20センチ程ずれても怒られ、相手にされなくなるという。しかしそういう技術的な問題ではなく、もっと内面的なエチケットが問題なのだ。

しかし「エチケットやマナーが悪い」というのはなかなか言いづらいものだ。人によって気にするレベルが違い、ある打ち方や行為がとても気になる人もいれば、気にしない人もいる。例えば、落ちたボールを足でとることを不快に感じる人もいれば、効率がいいから気にしない(屈むと腰が痛くなる)という人もいる。

ともあれ、私の考える練習における「目に見えないエチケット」の原則というのはシンプルなものだ。「相手の練習にもなり、自分の練習にもなることをする」というだけである。挨拶や表情・態度などは目に見えるエチケットだが、目に見えないエチケットを知らない人が多い。社会人になってから卓球を始めた方、卓球を始めて日の浅い方はこういう目に見えないエチケットを知らない方が多い気がする。自分の好きなようにガムシャラに打ってくる方もいる。

相手の練習にもなり、自分の練習にもなることをする」という原則に悖る行為とは具体的にどういうことだろうか。

相手が取りにくいボールを打つ
基本練習でサイドを切るボールを打ったり、横回転や下回転を混ぜて打ったりすることがこれに該当する。基本練習ではボールの感覚を取り戻すために調整しているのに、イレギュラーな回転のかかったボールを打つのはエチケットが悪いと思われる。同様に突然スマッシュを打ってくるような人もエチケットが悪いと思われる。初級者の中には強いボールを打てば、中上級者は喜ぶと思っている人がときどきいる。
あるいは3球目攻撃の練習をするとき、2球目を非常に厳しくつっついたり、厳しいコースに打ったりするのはエチケットが悪いと思う。
一定のコースに返球できないのも取りにくいが、これは意図的にやっているわけではないので、しかたがないと思う。

ミスをする(ラリーが続かない)
ミスというものは意図的にやっているわけではないが、これを頻発するというのは問題である。自分のレベル以上のボールを打とうとしているからミスを頻発するのであって、自分の身の丈にあったボールを打って、できるだけミスを防がなければならない。いくら上手な人でもミスしたボールは取りようがない。したがってミスされるとそこでラリーが止まってしまい、お互いの練習にならない。オールの練習で3往復ぐらいラリーが続いてミスするならお互いに練習になると思うが、2球目で強打を打ってネットミスというのでは、相手はうんざりするだろう。上に挙げた例にもあったが、イチかバチかの強打を打ってミスを連発する人はエチケットが悪いと思われる。

常に先に打ちに来る
「サービスを出したほうがドライブを打つ練習をしましょう」といっているのに、少しでも甘い球がくると、レシーバーが先に打とうとする。こういう人の相手をすると、落ち着いてドライブの練習ができない。ツッツキの練習をしながら、「さぁ、次のボールを打とう!」と思ったら、その前に打たれてしまうからである。

これを逆から見て、どんなことをすればエチケットがいいかというと、

相手の打ちやすいボールを返す
基本練習では深いボールを打たず、打ちごろのボールを打ちやすいコースに送ってやる。ドライブを打つときも決めに行くのではなく、8割ぐらいの力で打って続けるようにする。

お互いにミスをしないように努める
ラリーを続けることを最優先し、相手が体勢を崩しながら打ったら、次は相手が打てるようなゆるいボールを送ってやる。こちらが体勢を崩して緩いボールを返したら、追い打ちとばかりに強打で応じる人がいるが、非常に気分が悪い。

相手に打たせてやる
相手にばかり打たせていたら、自分の練習にならないが、できるだけ相手に打たせてやり、相手の練習になるよう心がける。

以上はあくまでも私の考える「目に見えないエチケット」だが、上級者には別のエチケットがあるかもしれない。上級者の方で「私はこんな人はエチケットが悪いと思う」というご意見を持つ方がいたら、コメントしていただけるとありがたい。

【追記】2013/6/23
先週、gmailのデザインが大幅に変更された。それにともない、障害が発生していたようである。
私の送ったメールが届かなかった、あるいは私にメールを送ったのに返信がないという報告を数名の方からいただいた。
もし、私のgmailにメールをくださって、返信がない方がいらっしゃったら、ご一報おねがいします。

【追記2】
一つ忘れていたので付け加えたい。
指導を求める人」はエチケットが悪いと思う。
こちらは自分の練習をしたいのに、相手が「バックハンドはどう打てばいいですか」的な一言で答えにくい質問をしてこちらの練習時間を奪おうとする人がいる。これではむこうの練習ばかり で、こちらの練習にはならない。

古いニッタクのビデオがyoutubeに上がっていた。しかしこれは合法アップロードなのかどうか少し怪しい…。
合法か違法か確かめるためにもぜひ見なければならないと思い、見てみた。

結論から言うと、残念ながら合法か違法かよくわからなかった。
しかし、いろいろ興味深い技術が紹介されており、思うところがあったので、コメントしてみたい。






私は孔選手よりも劉選手のビデオの方に大いに興味を持った。
劉選手のビデオは以下の構成になっている。

1.グリップと基本姿勢
2.フォアハンド
3.ショート
4.ツッツキ
5.フットワーク
6.ミート打ち
7.スーパーテクニック
8.サービス

1を除いて、劉選手のコメントを記事末尾に入れた。
 
注目すべきは太字の記述、すなわち指に関する記述がかなり多いことである。
一流選手に「フォアハンドで気をつけることは何ですか?」と質問したら、どんな答えが返ってくるだろうか。
ブレードの角度や肘・腰の使い方、打球点や打球位置、スイングの大きさ。いろいろな答えが返ってくるだろう。
しかし劉選手はまず、指に関する注意点を第一に挙げている。ということは、ペンホルダーでは指の力の入れ具合がプレーに大きく影響するということだ。
2の「親指と中指に力を入れる」、3の「親指の力を抜きます」というのはよく言われることだが、当たり前のようで、案外意識していないことが多いかもしれない。3の「中指の力で押しながらラケットを前に出します」、4の「中指の力でラケットを回転させることです」というのも興味深い。シェークハンドでもバックハンドを打つときは親指を立てたりするが、シェークハンドの選手は劉選手のような細かい指使いにあまり言及しない。しかし実際にはシェークハンドの選手も一流の選手なら、指を細かく使っているのではないだろうか。前記事「気に留めないこと」で紹介したように上級者の中にはグリップが一番重要だと主張する人もいる(そういえば最近「WRM卓球知恵袋」でも指の使い方に言及した動画が連続して発表されていた)。シェークハンドの選手でもグリップはずっと固定したままではなく、打ち方によって微妙に変えたり、指の力の入れ具合を変えたりしているはずだが、それを意識的に行なっている人は、どのぐらいいるだろうか。無意識に指を使っている人は多いが、それを「フォアハンドで気をつけること」の第一に持ってくる人は少ないだろう。それを意識的に行なっている人はボールが安定するような気がする。

指というのは体の部位の中でも最も触覚の発達しているところの一つである。
単なるラケットと腕との「接続部」ではない。
指の微妙な力の入れ具合で正確な打球が可能となり安定性が向上する。しかしこの指の可能性を私たちはうっかり忘れ去ってしまっていないだろうか。ペンホルダーはもとより、シェークハンドの選手も、もっと指の可能性を顧みるべきではないだろうか。

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【ビデオ中の劉国梁選手のコメント】

1.グリップと基本姿勢
コメント省略

2.フォアハンド
親指と中指に力を入れます」「人差し指の力は抜きます」「腰と前腕の力を主に使います」「強打の時はふつうのフォアハンドよりフォームを大きくします」「腰の力を入れ、前腕の振りを速くします」「(強打のとき)後ろの3本の指は普通のフォアハンドより伸ばします」「薬指をラケットにつけてもかまいません」「ただし、小指をつけてはいけません

3.ショート
「ショートするとき、人差し指と中指に力を入れます」「親指の力を抜きます」「中指の力で押しながらラケットを前に出します」「普通のショートは前腕と手首の力を中心にして行いますが、プッシュ性ショートの場合は、まずボールとの距離をとります」「指の使い方はショートと同じですが、上半身を右側に回転させ、ボールとの距離をとって、前腕の力を使って瞬間的に前方向に強く押します」「普通のショートは前方向に出すに対して、横回転ショートは右から斜め前方向に出します」「指の使い方はおんなじです」「普通のショートは頂点の直前を捉えますが、横回転ショートの場合は打球点をさらに早くします。特にドライブ処理の場合は(早くしないと)ミスしてしまいます」「横回転ショートはボールの左側を捉え、相手のボールの力を利用して行います」「重要なことはラケットを横方向に動かすことによってボールがラケットの面に接触している時間を長くすることです」

4.ツッツキ
ツッツキの場合は人差し指と親指に同程度の力を入れます」「重要なことはボールをラケットのヘッド寄りに当てて中指の力でラケットを回転させることです」「ボールがラケットの面に乗ってる時間が長くなるほどボールは切れます」「切るツッツキの場合は頂点を捉え、、手首、前腕の力を使います」「ストップ性の場合はバウンド直後を捉え、相手ボールの力を利用して手首を中心にして行います」

5.フットワーク
「ボールが身体に近い時は、体の回転を使って返球します」「ボールが身体から遠い時は足を使ってボールのところまで行って体の前でボールを捉えるようにします」「ボールがフォアに来たとき、間に合えば斜め前に動いて打ちます」「間に合わなければ少し下がりながら打ちますが、打ちますが下がった分だけ、フォームを大きくします」「返球は不規則ですから、重心移動をしっかり行い、足を微調整しながらボールについていくことが重要です」

6.ミート打ち
「ツッツキの後、回りこむときは、身体を十分に回転させて回り込みます」「このとき、ボールとの距離を十分とって、体の前でボールを捉えるようにします」「ラケットをボールの下から、上、前方向に振ります」「インパクトの瞬間は少し回転をかけます」

7.スーパーテクニック
「切り替えする時、大事なのは指の力の調整ですフォアの時は親指に力を入れ、バックの時は人差し指に力を入れます。指の力の入れかたでラケットの角度を調整します。」「動くときは台に並行して動きますが、フォアにボールが来たとき、間に合わなければ、少し後ろに下がってもかまいません。ただし、そのときは、前腕を使ってボールを少し弾くようにします」「(裏面は)の使い方としては、親指と中指に力を入れます」「バックスイングでラケットの先端を体の方に引くことによって打球の際にラケットのヘッドが十分に回るようにします」「ラケットを引くとき、身体もいっしょに重心を下げながら、左方向にひねります」「そして身体を右方向に回転させながら、ラケットを上前方向に振って打球します」「(3球目攻撃について)レシーバーのラケットの角度をよく見て、レシーブのコースを判断します。下回転サービスを出した場合はツッツキで返球されることが多く、その場合は裏面ドライブかフォアドライブで攻撃します」「レシーブのコース、長さ、回転量を正確に判断して、自分の身体の使い方、力の入れ方を調整します」

8.サービス
「両ハンドドライブの選手は両サイドは強いですがミドルに弱点があるので表ソフトの特徴であるスピードを生かしてミドルに攻撃します」「ペンホルダーのドライブの選手はフォアの攻撃力がありラリーに強いが、守りに弱点があるので先に攻撃を仕掛けます。攻撃できなければコースを突いて相手に強く攻撃させないようにします」「表ソフトの選手はフォアの攻撃のタイミングが早いので、バックを突いて牽制します。できるだけ先に攻撃するようにしています」「カットマンに対してはコースを突いていきます。チャンスボールの時は強く攻撃しますが、チャンスボールでなければ、丁寧にコースを突いてチャンスを作ります」








卓球のルールで常々疑問に思っていることがある。
主に用具関係のことだ。どうしてこんなルールがあるのかご存じの方はぜひご教示願いたい。
補助剤問題がかまびすしいが、私たちアマチュアにはあまり関係ない。それよりも現実的に以下のルールのほうが切実な問題だ。

・ユニフォーム上下にJTTAAのタグがなければ試合に出られない
これはどういうことなのだろうか。単に白や光を反射するようなシャツはダメにしたらいいことじゃないのだろうか。日本国内の卓球メーカーを保護するための理不尽なルールに思えてならない。このような障壁があると、国外メーカーや非卓球スポーツメーカーの参入が制限され、フェアな競争にならない。その結果消費者が損をする。こういうのは商法などで引っかからないのだろうか。常識で考えたらビジネス機会の公平性を損ねていると思うのだが。

団体戦のときはチームが同じユニフォームで揃えなければならない
こちらはさらに理不尽なルールだ。チームのメンバーが替わったら、チーム全員がユニフォームを新調しなければならないことになる。というのは、毎年のようにユニフォームは廃盤になってしまい、新しいメンバーが入ったからといって、数年前に発売されていたユニフォームを購入することはできないからだ。

・相手と同じデザインのユニフォームの場合はどちらかが着替える
サッカーやバスケのように敵味方が入り乱れるタイプのスポーツなら、こういうルールが必要だが、卓球には必要あるとは思えない。ルールブックには「観客に配慮して」のような記述があるが、プロの試合ならともかく、地方の小さな大会でそんな理由で着替えさせることはないと思うのだが。団体戦の場合は全員予備のお揃いのユニフォームを用意しなければならないということだろうか。神経質な人は、不測の事態に備えて、合計3着のユニフォームで試合に臨まなければならない。バカバカしい。

・半袖半ズボン
長袖長ズボンでやったらいけない理由はないと思われる。寒い地方で試合が行われるとき、身体が温まらない初めのうちは長袖・長ズボンでもいいと思う。エアコンなどない、冬が寒い地方の体育館の寒さは相当なものだと思う。私も以前、その日の初めの試合で指がかじかみ、足が動かず、苦労した経験がある。

・ヘアバンドやアンダーシャツなどはメーカーロゴが見えてはいけない
さっぱり分からない。メーカーの宣伝をしてはいけないという理由なのだとしたら、どうしていけないか分からない。スポンサーのイメージ向上にもなるし、選手も助かる。誰も損しないのに。

・ラケットにJTTAAの刻印がない場合は審判長の許可云々

実質的にダメ出しを出されることはないのだから、この規定もなくしてほしい。これも日本卓球協会が上前をはねるためかと勘ぐりたくなる。

・ラバーの色は赤か黒
昔は緑やらオレンジやらのラバーを使っていたのだから、いろいろな色のラバーを使えるようにしてほしい。赤黒の二択だと、どうしてもどちらかのラバーばかりが余りがちである。それに卓球をカラフルで明るい雰囲気にしようというのは業界全体の意志なのではないだろうか。それなら黒と黄色とか、青とピンクなどのラバーも解禁してほしい。色盲の人が判別できるようにという配慮もあるのかもしれないが、それなら色盲の人でも判別できる範囲でいろいろな色を許可してほしい。

・ペンの裏面にラバーを貼らないときはラバーと違う色に着色する
どうして白木のままではいけないのか、理解できない。かりに日ペンの人が裏面を黒に塗ってしまったら、それから赤いラバーしか貼れなくなってしまう。「半円シート」を貼ればいいかもしれないが、白木のままが一番手間が省ける。

・一枚ラバーは表のみ
裏の一枚ラバーが(実用化できるなら)あってもいいと思うのだが。

・ボールは垂直に上げる
どうして斜めに上げてはいけないのか。丁寧選手やアラミヤン選手のフォアサービスはほとんど斜めに上げているが、フォールトをとられない。






自分の試合のビデオを友人と観ていたとする。
4ゲーム目のある場面で、友人が私に「どうしてここでミドルにドライブを打ったの?」と聞いてきたら私はどう答えるだろうか。
「なんとなく」
「いや、特に何も考えていなかったと思う」
のような回答しかできないのではないだろうか。

同じ質問をプロの選手にしてみたら、おそらくほとんどのショットに対して何らかの理由を説明してくれるのではないだろうか。
プロの棋士は勝負の後に「感想戦」ということをするらしい。コマを初めの状態に戻して、対局をもう一度なぞりながら、お互いにどうしてその手を打ったかといったタネ明かしをするらしい。棋士は全ての手を覚えている。つまりすべての手を理詰めで打っているということだ(前記事「プロフェッショナル 仕事の流儀 棋士 羽生善治の仕事」)。
卓球の場合もプロなら似たようなことができるのではないだろうか。「2ゲーム目の5-5の場面でわざと少し甘いレシーブをバックに送ったのはカウンターを狙っていたのだ」などと節目節目でどのような戦術を使ったのか全て記憶しているに違いない。

私のプレーは一打一打に根拠がない。行き当たりばったりで打ちやすいところに打っているにすぎない。一方、上級者はおそらくほぼ全てのショットが理詰めで構成されているのではあるまいか。国際大会などの解説を聞いていると、一流選手はそれぐらい頭を使いながらプレーしているとしか思えない(前記事「二人の若き才能」)。

どうして私はそのように根拠に裏付けされたショットが打てないのだろうか。それにもやはり理由があったのだ。

掛け算について考えてみよう。「9☓9」を「81」と答えるとき、いちいち計算をしているわけではない。しかし小学2年生の時に初めて掛け算に触れたばかりのときはきちんと計算をしていたかもしれない。
「9が9つあるということは、まず9が2つあれば、18で、9が3つあれば、27で…」
ときちんと計算し、
「最後に9が8つあれば、72だから、それに9を足したら81だ」
のように。それが次第に9が9あれば81になるということを経験的に、あるいは「掛け算九九」として暗記し、途中の計算をスキップしていきなり81という結論を出してしまう。

ファーストフードの店員さんのことを考えてみよう。仕事を始めたばかりの頃はきちんと考えながら接客していたに違いない。
「まず、はじめにあいさつ。次に注文を聞く…イヤイヤ、店内か持ち帰りかを確認したほうが手間が省ける。次に注文を聞く。それから、会計…じゃなくて商品のオーダーを入れて、商品を渡してから会計…イヤイヤその前にキャンペーン商品の売り込みをしないと」
のように接客の流れを最適化するために頭を使い、ときには順番を間違えたりしたに違いない。しかし、数ヶ月もすれば、何も考えずとも客を前にしたら口と身体が自動的に動き、気持ちはすでに次の客に向いていることだろう。考えずとも接客ができるということは、他のことを考えながら接客ができるということだ。だから接客をしながら店全体の雰囲気や混み具合などにも目が行くことだろう。客の注文を受けながら「あっ!あんなところに使用済みのトレーが放置してある。すぐ片付けなきゃ!」のように。新人さんは目の前の注文のことで精一杯だが、ベテランは注文を受けつつも、いろいろなことにまで頭を回す余裕がある。

私の場合は試合中、目の前のボールをどう処理するかで手一杯なのである。どんな回転がかかっているか、ブレードをもう少し傾けるべきか、回りこんで間に合うかどうかといった技術的なことしか考える余裕がない。
一方上級者はボールが来た瞬間、過程をスキップして結論まで自動的に行ってしまっている。だからボールを処理しつつも、そのポイントがどう展開するか考えられるし、相手の位置や相手のラケットの角度にまで目が行く。同様にフットワークが悪いというのも同じ原因に帰すると思われる。上半身が自動的に動く人なら、下半身をどう動かせばいいかに気を回せる。あるいは下半身も自動的に動いているのかもしれない。

すべてのボールを打ち終わるまで考え続けている、それが私が戦術を考えることができない原因なのである。打球に頭を使っているようでは、戦術などおぼつかない。私でもフォア打ち程度なら、ほとんど何も考えず、身体が自動的に動いている。そのように安定して、血肉となって身についている技術を使っている場合なら、頭を他のことに回す余裕が出てくる。逆に言えば、試合中の技術的なことを、身体が自動的に動くぐらい安定させなければ、戦術まで頭が回らない。「卓球の虫」(前記事:『まんがで読破 昆虫記』)にならなければ、上級者にはなれないのだ。

新井卓将氏のブログ「たくしょーの裏ブログ」に非常に興味深い記事があった。
「卓球療法協会準備会」
http://ameblo.jp/tac-show/entry-11542919565.html

卓球はリハビリや老化の予防に効果があり、卓球を医療に利用しようということらしい。
この流れが卓球の社会的な位置づけを大きく変えるかもしれない。

医療と結びつけば、卓球にビジネスチャンスが生まれるだろう。しかも卓球に効果があるとされるのは高齢者に対する医療である。これからは高齢化社会である。ゆえにこれからは卓球社会である。
卓球と医療との関係はよく分からないが、卓球が高齢者の健康増進やリハビリに役立つだろうことは経験からよく分かる。

「卓球は楽しい」「卓球は手軽に取り組める」「卓球は運動量が調節できる」

老人が取り組めるスポーツは限られてくるが、卓球が肉体への負担が軽く、しかも楽しいことは疑いない。その負担の軽さと楽しさのバランスという観点からすると、地球上のスポーツの中で奇跡ともいうべきバランスの良さだ。
野球やサッカー、バスケやバレーボールなどを老人がするのは無理がある。老人が取り組めそうな一般的なスポーツを取り組みやすさの順に並べれば次のようになるだろう。

ウォーキング>水泳>ジョギング>卓球>ゴルフ>バドミントン

しかし、ウォーキング、水泳、ジョギングに無我夢中になるというのは考えにくい。泳いだり走ったりしているとき、何も考えずにひたすら身体を動かすというのはあるかもしれないが、卓球の場合は頭を最大限に使いつつ、無我夢中になれる。ウォーキングや水泳は楽しくてたまらないというタイプのスポーツではないだろう。その点で卓球に軍配が上がる。ゴルフは老人でも取り組んでいる人が多いし、移動の運動量を考えると、なかなか魅力的なスポーツではあるが、手軽にはできない。1回ホールを回れば1万はかかってしまう。移動や用具にかかる金もかなりのものだし、経済的なスポーツとは言えない。バドミントンは卓球に近く、運動量と手軽さを兼ね備えているが、コートが広く、移動距離が大きいために、ある程度体力のある老人にしか取り組めないだろう。卓球なら80代の老人でもそれなりのラリーができる。

それとは別に生涯スポーツ(高齢者でも楽しめるスポーツ)というのがある。
ラージボールやゲートボール、グラウンドゴルフ、ペタンク、ラケットテニス、パドルテニス、ソフトバレーボール等だ。これらは大きく二つの方向に分かれる。運動量が少なく、かなりの高齢者でも取り組みやすいスポーツ(ゲートボール、グラウンドゴルフ、ペタンク)と、かなりの高齢者が取り組むにはやや負担が大きいスポーツ(ラケットテニス、パドルテニス、ソフトバレーボール)である。前者は取り組みやすいものの、運動量が少なく、健康増進に対して有効性が低い。後者は運動量が多いがそのため、70代以上の高齢者には難しいだろう。その中でラージボールは取り組みやすさと運動量を兼ね備えており、年齢に応じて運動量を調節できるという、理想的な生涯スポーツとなっている。高齢者とスポーツという矛盾した命題を見事に解決した奇跡のスポーツともいうべきものだ。
なお、私はグラウンドゴルフ、ペタンク、ラケットテニス、パドルテニスの経験がないので、特に後者のテニス系のスポーツは、あるいはラージボールに匹敵するようなバランスを備えたスポーツかもしれないが、バドミントン並みのコートの広さは70代以上の老人には負担が大きすぎると想像している。もしかしたら、私の認識は事実と異なっているかもしれない。

これからはすごい時代になるかもしれない。国民の半分ほどが卓球およびラージボールに親しむような社会である。

「60代からのラージでは遅い!50代から始めれば、みんなの尊敬の眼差し!」

なんていう雑誌記事の特集も組まれるかもしれないし、「卓球療法士」という国家資格も登場するかもしれない。

「カリスマ卓球療養士」

なんていう人が登場し、マスコミで注目されて、「いつ始めるの!?今でしょ!」なんて言ってくれたら、日本で卓球がさらに盛り上がるかもしれない。

卓球およびラージボールは日本の医療保険料を大きく減らし、高齢者の健康増進に大きく貢献するはずである。高齢者の元気な社会は文化も豊かになるに違いない。

ネットで「卓球療法」を調べてみたところ、以下のページが見つかった。

「卓球と温泉」
http://www.ne.jp/asahi/takkyu-to/onsen/onsen1-takkyu-to-nou.htm 

このページに『卓球レポート』の2000年1月号の卓球医療の記事を紹介してあった。
その記事とは、医師の森照明氏がスポーツ医療の大きな学会で卓球の高齢者医療への有効性について発表したとのことである。次のような結果が出たらしい。私は実際の論文等は読んでいない。このページにはポイントだけ挙げてある。

卓球選手3000人へのアンケートから
1.卓球選手は明るく、好奇心が強い
2.「かな拾いテスト」で「卓球をやっている人の数値は一般人と比較して明らかに高い。40代、50代の女性の高成績は特筆される。」
3.年齢が上がるにつれて、成績は下がる「ボケの傾向」がみられる中、卓球をしている人の低下のスピードは遅く、60代、70代の比較では一般の人との差が極端に開いている。

 
 
1はアンケート結果だというが、どのようなアンケートだったのだろうか。
「あなたは卓球選手は明るいと思いますか?暗いと思いますか?」
そう聞かれたら、「暗い」と答える人は非常に少なくなると思うのだが…。私の経験から言って、卓球部の人は「暗い」人が多いと思う。「暗い」の定義はよく分からないが、自分から何かを積極的に発信するような人は多くないような気がする。というか、おとなしい人が多いと思う。このアンケート結果は私の実感とはズレている。それから「好奇心が強い」というのはどうやって実証できるのだろうか?普通の人が興味を示しそうなものに興味を持たないからといって、好奇心が弱い人とはいえないだろう。「レスリング」とか「爬虫類」とか「バス」のような、一般的にあまり興味を示しそうもないことに強烈な好奇心を示す人だっているのだから。

2と3は「アンケートから」ではないだろう。おそらくある程度の人数を対象に実験したのだと思うが、「一般人と比較して」というのが気になる。「一般人」がどのような人を指すのかはっきりしないので、このポイントだけをみると、あまり説得力がない。どうせ比較するなら「ゲートボールをやっている人」などと比較してほしかった。

そして1と2・3とをどうやって関連付けるかどうかもよく分からない。明るく好奇心の強い人は脳の働きが活発だと言いたいのかもしれないが、陰気で一つのことに執着するような人が脳の働きが活発じゃないとは言えないような気がする。

ともあれ、この卓球療法には大いに期待している。21世紀を卓球の世紀にできるかどうかは卓球療法の成否にかかっていると言っても過言ではない。

【追記】2013/06/23
大病院はぜひ院内に卓球場を設け、指導者を招いて老人のリハビリや医療に卓球を活用してほしい。この記事をご覧になっている医師のかたがた(いるかどうか分からないが)、卓球は老人の健康維持に効果があることは、私の経験から疑いありません!

『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(ちくま新書)という本を読んだ。

「何かを考える」こと

は誰でもすることだが、

「「何かを考える」とはどういうことかを考える」こと

はふつうの人はしない。しかし後者は非常に大切なことだと思われる。なぜなら前者がうまくいかないとき、なぜうまくいかないかを考えるにはまず、考えることそれ自体について理解していなければならないからだ。この本は専門外の人間にも分かるように脳のしくみについてとても丁寧に書いてあって楽しく読めた。ネタバレになってしまうが、はじめの部分(第1章)の内容について以下に簡単に述べたい。

世の中に色がなかったらどうなるだろうか。

マンガのように白黒になるという意味ではない。全部白、あるいは透明で輪郭さえもない。そうすると、字が読めない。字は背景との色の差によって表現されているのだから。それどころか本があることさえも分からない。というより、色がなければ―あるいは全て同じ色だったら何も見えない。
脳の働きの最も基本的なものは区別することだという。私たちは色の違いによって、あるいは音や匂い、味、手触りの違いによってまずモノを区別している。
しかし、色や音が違っていても区別できるとは限らない。現に私たちはカラスの声を聞いても全部同じに聞こえるし、木の葉を見ても、全部同じに見える。しかし、もちろん注意してみればそれぞれが違っていることは明らかで、見る人が見れば区別できるのだ。この本によれば、たとえば羊飼いは飼っている羊の顔を覚えており、顔で個体を区別できるのだという。

こういうことが卓球でもある。
高校生や大学生のレベルの高い大会であまり注意しないで観客席から見ると、どれも同じようなプレーをしているように見える。カットマンやペンホルダーの選手はさすがに少し違って見えるかもしれないが、主流のシェーク裏裏ドライブマンならあまり区別できない。卓球非経験者なら、それが顕著だろう。違いが分からないということは、「見えない」ということだ。つまり「見ているのに見えない」のだ。
私のようなヘタクソがプロの試合を見ても、あまり違いがわからない。それで細かいところまで注意深く観察してみる。すると少しずつ「違い」が見えてくる。しかし「見える」といっても表面的なことでしかない。「この選手はボールのスピードが速い」とか「バックハンドでの得点率が高い」とかその程度のことだ。その「意味」が分からない。

脳の働きの第一が区別だとしたら、第二は認識だという。認識とは知覚したことを記憶の中のイメージと同定することだと思われる。
たとえば友達に貸したハンカチを返してもらったとする。そのハンカチで顔を拭いた時、「あれ?いい匂いがする」と思う。それは明らかに自分で洗濯したときと違う香りだった。その香りについて自分の記憶の中に何もなければ「違う」「いい香りだなぁ」だけで終わりだ。しかしその香りについて自分の記憶の中に適合するものがあれば「これはダウニーの香りだ!」のように同定できる。これが「分かる」ということだろう。
授業で次々と新しいことを教えられ、必死でそれらを頭に入れようとするが入らない。新しいことというのは新しいだけあって結びつくべき記憶がない。だから頭に入らない。そうではなくて、その新しい知識を何か似たような記憶に結びつけることができたとき、はじめて「分かった!」となるのだ。
卓球の例で考えてみると、自分の打ったドライブがきれいにブロックされた時、いつもの練習相手のより速くてコースが厳しいと感じるだけでなく、「あっ!これはマツケンがよく使うブロックと同じだ!」と感じるようなものだ。
そのような結びつけるべき記憶をたくさん持っている人は理解力が高いと言える。

上手な人と試合をして、なんだかわけがわからないうちに一方的に打たれて終わったというのでは、何も「見え」なかったということだろう。「いつものように自分が攻めるチャンスが作れずに、先に打たせてしまった」のように「いつもと違う」と感じるのが第一段階で、「あれはワルドナーがよくやる戦術に似ている」と認識するのが第二段階といえる。このように同定すべき―あるいはそれに準ずる記憶があれば、卓球がよく「分かる」のではないかと思う。

話は変わるが、私には数年前に卓球の神が降りたことがある。

どうして神が降りたのかさっぱり理由がわからない。神様のいたずらだったとしか思えない。

それは当時、中国人の元プロ選手に週1度指導を受けていたときのことだ。その先生を相手にフォア打ちを始めたとたん、突如として神が降りた。ラケットが軽く、スイングが速くなった気がする。軽く振ってもボールが狙った場所にまっすぐ飛んでいく。力をほとんど入れていないのにボールをしっかり捉えている感触がある。その経験はいわば「身体全体で一つのリズムを奏でている」とでもいうべきものだった。
その後、ドライブを打った時も気持ちよく入り、スピードが乗っている。いったいどういうことだ?用具を替えたわけでもないし、普段と違ったフォームを試してみたわけでもない。本当に突然の出来事だった。私は先生に「今日はいつもと全然違って心地よく打球できるのだが、いつもと何か違っていないか?」と尋ねてみたが先生にも分からなかったらしく「手首が使えているのかな?」ということだった。

そして次の週に練習した時には神は去っていた。いつもと同じボールしか打てなくなっていた。

今でもあの経験が忘れられない。あんなに心地良くボールが打てるなら、卓球が楽しくてたまらないだろう。きっとプロの選手はこのような打球感を自分のものにしているのだろう。ほんの2時間程度だったとはいえ、あんな経験ができたのは、後にも先にもその時だけだった。

あのときの打球感をぼんやりと覚えている。それは確かに記憶の中にある。おそらくその打球感を再び感じることができたなら「あの時の神だ!」と認識できるだろう。

私はいまでもあの時の「神」に再びめぐり会えることを夢見てあれこれ模索している。そしてそれがかなったとき、あの打球感を自分のものにできるのではないかと思う。

【追記】2013/6/18
書きながら考えていたので、自分の中であまりコトガラが整理できておらず、支離滅裂な記事になってしまった。
とりあえず最後の部分のまとめが欠けていたので補足したい。

目の前の現象を区別(分節)し、それを記憶の中の同等物に結びつける(同定する)という活動が認識だとしたのだが、多くの場合、 区別はできても、同定ができない。それで意味がわからない。
しかし、最後の例で考えると、通常とは逆に結びつけるべき記憶を持っているけれど、それを当てはめる現象に出会えないという 珍しいケースもある。その出会えない現象を卓球の神と表現したわけである。

見ているけれど、区別できないことを「見ているのに見えない」と表現した。それに対して区別できるけれど、それがどんな意味かわからないことを「見えるのに分からない」と表現した。私たち中級者は注意して観察すれば「見える」。しかし「分からない」。これが我々の課題だと思われる。

いくら好きなことでも、朝から晩まで毎日やっていたら飽きてしまうだろう(前記事「もしかして卓球に飽きちゃった?」)。

かえって本業の合間に「趣味」として取り組んだもののほうが純粋に楽しめ、成果が上がったりするものだ。

森鴎外は作家として活躍する一方で軍医という「仕事」があった。本業は軍医のほうかと思われるが、むしろ作家という「趣味」のほうで大きな功績を残している。
医者にはこういう人が多い。
本居宣長も医者という「仕事」のかたわら、国学研究をして歴史に名をとどめているし、斎藤茂吉もそうだ(手塚治虫のように反対の例も確かにあるが)。

いくら好きなこととはいえ、「仕事」として卓球をするのは非常に大変だろう。「仕事」は別に持っており、卓球は「趣味」として取り組んだほうが楽しめるのではないだろうか。

先日、ぐっちぃ氏のブログで卓球関係の仕事に就きたい人へのアドバイスというのが紹介されていた。
しかし、卓球を「仕事」にしてしまったら、茨の道を歩むことになるかもしれない。

ぐっちぃ氏に対してはいろいろなオファーがあると思う。コーチとして、メーカーの社員として、もしかしたら、松下浩二氏のようにメーカーの社長というオファーもあるかもしれない。たとえば、ぐっちぃ氏をコクタクやアームストロングの社長にいただけば、会社の業績が劇的に向上するかもしれない。あるいは卓球関係の新会社(卓球場の全国チェーン店とか)を設立し、ぐっちぃ氏を社長に迎えたいというオファーもあるかもしれない。ぐっちぃ氏の仕事に対する真摯さから考えれば、ぐっちぃ氏に任せたビジネスが失敗する可能性は極めて低い。ぐっちぃ氏に投資しようという人はいくらでもいるだろう。
そのようなオファーが来るのはぐっちぃ氏がそれなりのことをしているからだ。自分よりも人を優先し、ゲスな人間にも笑顔で接し、毎日卓球のために滅私奉公しているからこそオファーがくるのであって、そのストレスは相当なものだと想像される。WRMで次々とスタッフが辞めていくのは、卓球関係の仕事が精神的にかなりつらい仕事だということを物語っている。
自分が得られるものは少なく、与えるばかりの毎日。もし卓球関係の仕事に就きたいなら、実力があるのはもちろん、それを朝から晩まで人のためにつかって倦まないような忍耐力のある人でなければ務まらないだろう。

スイカやスイーツに塩をかけると、甘みが引き立つように、好きだから卓球ばかりするのではなく、卓球をより楽しむためにはあまり楽しくない「仕事」を持っていたほうが卓球の楽しさが倍増するのかな…などとつらつらと考えてみた。


【追記】2013/6/16

なんだか卓球関係の仕事に就きたいという夢を持っている若い人たちに冷水を浴びせるような嫌味なことを書いてしまったと反省している。そういう夢に向かって邁進することはとてもいいことだと思う。ただ、こういう仕事は楽で楽しそうに見えるけれど、たぶん現実は非常に苦労が多いんじゃないかなと言いたかっただけなのだ。夢をあきらめずに真奥貞夫ぐらいガムシャラにお客様のことだけを考え、誠意を持って働く覚悟があれば、きっと夢は叶うはずだ。

卓球打ち方には二つの方向性がある。
一つは当てて弾く方向。もう一つはこする方向。
前者を突き詰めると、スピードは出るが威力と安定性に難がでてくる。 
後者を突き詰めると、スピードが犠牲になり、空振りの危険性が高まる。

しかしこの両者のいいとこ取りができる打ち方があるのではないだろうか。
最近その新しい打ち方を試みている。上級者には目新しいことではないかもしれないが、中級者には福音である。この打ち方を試みて手応えを感じたので、報告したい。

 |o→ 

上は飛んでくるボールを横から見た図である。oはボールを表し、|はラケットを示している。
このようにボールに対して90°の角度で打つというのが前者の打ち方である。その際、ボールの力はラバーを通してラケットの木まで到達し、コンという音がする。

一方、下のようにブレードを約45°に傾けて上方に向かってこするのが後者の打ち方である。

 /♂ 
   
この場合、ボールの力がラケットの木の部分にまで到達せず、ラバーおよびスポンジの部分だけで「薄く」擦り上げている。木にボールが当たる音、コンがない。
多くの人のドライブは、このどちらかに偏りながら、ほどほどのスピードと回転でバランスをとっている。

しかし、この角度(あるいはもう少し寝かせて30°ぐらいの角度)で上方にこすらず、シュート回転をかけて斜め(かなり横気味)にこすってみる。打球する場所はブレードのグリップよりである。その際、ラケットのヘッドは前方を向いている。
すると、ボールの力が木まで届いていないにもかかわらず、ボールがしっかりと前に飛ぶ。こすっているとも当てているとも言いがたい、「こすりあて未分」の状態で、「当て」ていないのに押せる。
これは真剣白刃取りの原理と同じだと思われる。

真剣白刃取りは向かってくる刃の力に対して「当て」ていない。それなのに刃は止まる。それどころか押し返すこともできる。摩擦力だけで刃は止まる。これと同じようにラバーの摩擦力だけでボールを前方に飛ばすと、そこそこ回転もかかり、安定する。それでいてスピードのあるボールが打てる。摩擦力で飛ばすといっても、ループドライブのように「こすりあげている」という感じではないし、ブレード面を水平に近くし、「上からこすって飛ばしている」という感じでもない。イメージ的にはブレードの面(ヘッドからグリップの方に向かって)をボールが転がっていき、あるところまで転がったら、ボールがラバーのグリップ力だけで止まりそのまま押し出される。当てているようなこすっているような、そんな打ち方である。

シェークハンドの上手な人がバックハンドで相手のドライブをブロックするときも、こんな打ち方をしている。ブレードをかなり寝かせて、ラケットのヘッドを飛んでくるボールに向けて前に押し出している。
こうすれば、当てずにボールを前に押し出すことができる。

これをフォアハンドで打つとき、シュートドライブのようにボールに向かって斜め前方にスイングして打球する。

言葉で説明するのは非常に難しいが、この打ち方の感触が非常にいいので、これからもいろいろ検証してみたい。

【追記】2013/6/16
この記事を書いた後、何度も「白刃取り」について考えてみた。
あれは私の妄想なのではないだろうか?傍から見たら、ただの当て・こすり半々のドライブなのではないだろうか?そうかもしれない。しかし、私の記憶には打球した時の或る感覚―イメージがある。それが今までのドライブとは違う感覚なのだ。それは間違いない。「白刃取りのイメージ」という比喩は適当でなかったかもしれない。別の喩えで言うなら「ゴリ押し」という言葉が近い感じなのだ。木の反発力をあまり使わず、ラバーだけでゴリっと押す感じでドライブするような…。また報告できるぐらいこの打ち方が確立でき、それを表現できる言葉を獲得できた時に改めて報告したいと思う。


 

「こちらが9の力で打ったら、相手は1の力で打たなければなりません。逆にこちらが3の力で打ったら、相手は7の力で打つようにするといいでしょう」

初心者向けビデオでバックハンドについてこんな説明があった。「押さば引き、引かば押せ」という言葉どおりで、なるほどと思った。この言葉が意味しているのは、卓球では両者の力を均衡させるのが基本ということだが、これはあくまでも基本であって、この均衡を破らないと勝てないのが上級者だと思う。相手が押してきた時にこちらからも押し返すというのは非常に高度な技術が必要であり、中級者には身に余る。
私のような高度な技術を持たない者は、相手に8の力で打たれたとき、本来なら、2の力で打ち返さなければならないのに、4や5の力で打ち返してしまい、ボールがオーバーしてしまう。世間でのオーバーミスというのもこうやって生まれているに違いない。

私はふだんあまり弾まないラケットを愛用しているが、それは私がそれほど前後に動かないから使いやすいのではないだろうか。いつも比較的前陣に位置しているので、ラケットが弾むと、逆にオーバーしてしまう。2の力で打たなければならないところを高性能なラケットなら4や5の力で打ってしまいがちだ。なので、私にはあまり弾まないラケットがちょうどいい。前陣からなら、弾まないラケットでも力を入れれば威力のあるボールが打てるし、力を入れなければ、弱いボールも打てる。

一方上級者の場合は頻繁に前後に動くので、弾まないラケットで中後陣から打つ場合はパワー不足になってしまう。したがって上級者はよく弾むラケットを使ったほうがいいと思われる。上級者でも、もちろん前陣でプレーすることもあるから、前陣ではパワーを出さない、あるいは殺しつつ打ち、中後陣では全力で打ち、遺憾なくラケットの性能を発揮するという打ち分けをしていると考えられる。大は小を兼ねる。上級者なら「牛刀を以って鶏を割く」こともできるのだ。


ボールの威力をうまく殺せない初・中級者が弾みも、ひっかかりもいい上級者用のラケットを使って、前陣の辺りでプレーするのは、たとえば近接戦闘で銃筒の長いライフルを使うのに似ている。いくら飛距離が長く、精度の高いライフルでも、接近戦では拳銃に軍配が上がる。前陣プレーにおいてラケットの性能の高さは「諸刃の剣」なのではないだろうか。

上級者はボールの威力を殺したり、軽い力で安定して打球することに長けている。私は以前、全力で威力のあるボールを打つことに熱心だった(前記事「省エネ卓球」)が、そのような一発で抜き去る強いボールを打つのは、上級者の真骨頂ではない。中級者でも絶好球ならとんでもないボールが打てる。我々はつい上級者が放つ強打に目を奪われがちだが、上級者こそ、弱いボールを打つのがうまいのではないだろうか。台上のデリケートなやりとりで、うまくボールの威力を殺せる、あるいは低く素早くボールを打てると同時に、中陣から強烈な一発を打ち込めるというのが本当の上級者ではないだろうか。

以前、ぐっちぃ氏のブログに以下の記述があった。テナジー05のインプレッションである。
05は非常に安定性が高く、回転がかかり、ラリーに強いとのこと。しかし、氏は05を使いこなせなかったと述懐している。
元の記事は改行をふんだんに使ってあったのだが、見づらいので、適度に改行を削った。
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サーブは切れるけど台から長くなってしまう・・・
レシーブは05のシートは回転が強くかかる分相手の回転にも敏感です
なのでレシーブがボロボロになるという結果になり05の持前のラリー戦になる前でやられかけましたね汗
あとプレーの回転量は強いものの変化が少なくなってしまい相手に大当たりをされるような感じになりやすくなりました
自分の持ち味のサーブレシーブそして変化が少なくなってしまったので・・・
やっぱりラリー戦やドライブがいかによくても断念してキョウヒョウPRO3に戻したという形でした!
ただでも正直思ったのが・・・
台上の細かいタッチを弾んだり回転に敏感なラバーであってもミスなく駆使できるような強い選手であれば・・・
ラリーやドライブ戦まで普通にいく形なので・・・テナジー05の良さが存分に出そうです(*・ω・)ノ
自分は高性能で使いこなせない場面がありましたがテナジー05を使った日本代表クラスの
高木和卓選手、健一選手、坂本選手、大矢選手
実際対決したことがありますが
みなさん・・・台上のボールタッチが非常に繊細なタッチを持っています
豪快なラリーに目がいきがちですが実はその前のレシーブがみなさん違うんですよね(((( ;゚д゚)))
このクラスのようなレシーブテクニックが相当ないとテナジーのラリー能力を生かすのが難しいのかもしれません(´;ω;`)
トップ選手は弾むラバーでもレシーブがしっかりできるのでテナジー05の得意なドライブラリーに持ち込めます!!

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このように日本のトップ選手たちの卓球は繊細なレシーブと強烈な一発を兼ね備えているのだと思う。

この記事を読んで、私の用具は低性能な方がいいと再認識させられた。
よく弾み、よくかかるラケットを私が使うなら、陣地を中・後陣中心にしたほうがいいだろう。
高音から低音まで幅広く1つのスピーカーで鳴らすのか、高音、低音はあきらめて、中音重視でいくのか。私には高音から低音までカバーできるような戦型は無理だ。弾みの悪いラケットと、引っ掛かりの弱いラバーの組み合わせで前陣のあたりでプレーするのが合っている。

ラケットはズシリと安定感があり、ラバーは引っ掛かりがよく、特厚で弾みもよいもの。


これが世間で人気の組み合わせだろう。しかし、現在私は全く正反対に軽いラケットと引っ掛かりのほとんどない、使い古しのラバーを使っている。引っ掛かりの弱さというのは意外にメリットがある。たとえばフリックがやりやすい。最近フリックを安定させようと練習しているのだが、回転に鈍感なラバーのため、乗せて掬えば結構入る。相手の切れたサービスをレシーブする際も、相手の強烈なドライブをブロックする際も、鈍感なラバーならそれほど影響を受けない。いろいろな場面で相手の回転の影響を受けにくいというのは意外に大きなメリットではないだろうか。

【まとめ】
私のようなレベルのプレイヤーが前陣でのボールを安定させるには低性能ラケットのほうが有利だと思われる。前陣で高性能ラケットを使うと、弾みすぎてオーバー、引っかかりすぎてオーバー、台上でのレシーブやブロックも短く止まらない、相手の回転の影響をもろに受ける、使いこなせない。低性能ラケットで中陣から威力のあるボールを打つのは難しいが、これは私にはあまり必要のない技術だ。そのような豪快なラリーになることはほとんどないのだから。コクタクの安いラケットに1年ほど使い込んだスレイバー(中)。こんな組合せも慣れれば悪くないものだ。


ラバー選びについては

「初心者のうちは弾まず、引っかからないコントロール系ラバーを使い、上達するにしたがって高性能ラバーに替えていく」

という考え方は今では流行らないらしい。

「いずれ高性能テンションラバー特厚にするんだから、初めのうちからそれに慣れておくべきだ」

という考え方のほうが今は主流のように思われる。ただ、私の用具選びにはその「古くさい」考え方のほうが合っている気がする。

ラケットもそれほど弾まないラケット(前記事「弾まないラケット」)のほうが合っているようだ。用具の合う合わないは人によって違うし、人によっては前陣でも引っかかって弾む高性能ラケットが合うという人もいるだろう。一概にこれがいいとはいいにくいが、用具選びでは「古くさい」考え方にも一理あると主張したい。

英語が小学校から正式な「科目」となるらしい。
英語は長期間勉強すれば――勉強時間が長ければ長いほど上達するものだろうか。
小学校から英語の授業を増やすことになれば、絶対数でみれば英語が上手になる子供の数が増えるかもしれない。しかしそれほど英語に興味がない子供―英語がきらいな子供には負担を強いるだけでしかない。また英語を科目にすることによって他の科目の学習時間が削られ、より「薄っぺらい」日本人が生みだされることになるかもしれない。しかも小学生に対する英語教育なんて初めの10年ぐらいは模索期だろうから、わざわざ時間を作っても学習効果はほとんどないだろう。ネイティブを呼んで、歌って踊ってお遊戯するために他の授業時間を削っていいものだろうか。一部の英語好きの子供のために大多数の子供が余計な「学習」を強いられることになるのではないか。

外国語なんてダラダラ長期間勉強するよりも、短期集中で勉強したほうが効果があるに決っている。10年以上英語を勉強しているはずの大部分の日本人が日常会話もままならない一方で、日本に2~3年留学している外国人――それまで日本語をまったく勉強したことがない――の多くが日常会話程度なら全く問題ないレベルまで上達し、一部は大学での専門的な勉強にも対応できているのをみると、小学生に英語「学習」を強いるよりも、大学生に対して1年ぐらいの留学を必修化したほうがよほど効果があり、経済的だと個人的には思う。

そもそもどうしてこんなに世間は英語、英語と騒いでいるのだろう。どうやら「国際交流」「国際化」というのがその理由らしい。しかし「国際化」というのは本当に必要なことなのだろうか。

ヨーロッパで「国際化」というのを進めた結果、貧しい国から裕福な国に、着の身着のままで労働者が殺到した。その結果、その国の社会保障に負担がかかり、多くの摩擦が起こっている。ドイツでも、スウェーデンでも外国人排斥運動が盛んらしい。フランスでもアフリカ系移民との間の深刻な摩擦に悩まされている。こんな憎しみを生むぐらいなら、われわれはむしろ「国際化」をできるだけ「防ぐ」べきなのではないだろうか。

「国際化」というのはいったい何なのだろうか。道を歩いていたら外国人とすれ違ったり、道案内することが「国際化」なのか。職場や学校に外国人がふつうにいることが「国際化」なのか。そんなことのためにたくさんの憎しみの連鎖が生まれるのなら、なんのために「国際化」とやらをしなければならないのか。

世間では「国際化」という言葉を膾炙しているが、私は現在の形の「国際化」には多くのデメリットがあると思っている。しかしそれでも1点メリットがあることは認めざるを得ない。自らを相対化できることである。

もし外国人の存在がなかったら、私たちは自分たちが「すみません」的な言葉を多用しているということにも気づかないし、政府を批判できることが当たり前でないということにも気づかない(例えば、サムソノフの母国、ベラルーシでは大学の教室の隅に警官がいると聞いたし、ミャンマーでは院政期のカムロのような者が街なかに放たれ、政府の批判をしている人がいないかどうかチェックしているらしい)。それどころか「日本文化」や「日本的」といったことが何かも分からない。空気のように身の回りにあること、あるいは自分の持つ所与の性質が何かを気づかせてくれるのが外国人の存在なのである。

卓球の話に当てはめてみると、たとえば、まったく用具を替えない人は自分の用具がどういう長所と短所――特質をもっているか意識できない。だからといってかつての私のように用具をコロコロ替えるのでは、わけが分からなくなってしまう。性質のかなり違う二つの用具を使い分けることによってメイン用具の特徴が逆照射されるに違いない。よく弾む用具を使っている人が守備用ラケットを使ってみることによってはじめて「弾み」を意識できるようになる。

また、硬式卓球しかしていない人は硬式卓球がどのようなスポーツなのか分からない。じゃあ柔道をやってみようというのは飛躍しすぎだ。あまりにも性質が違いすぎるので細かい違いに気づきにくいだろう。そこでラージボールである。ラージと硬式卓球は多くの共通点をもっているが、多くの差異も内包している。硬式卓球とラージは「適度な距離」なのである。

ラージボールを敬遠する人は「勘が狂うから」と判で押したように答える。しかし、この「適度な距離」こそが硬式卓球をより深く理解させてくれるよすがにはならないか。たとえば、最新のひっかかりのいい高性能ラバーなら、ブレードをかなり寝かせても、軽くひっかけるだけで入ってしまう。しかしそれが当たり前なのではなくて下回転のかかったボールというのは、ブレードを立て気味にして打つ、あるいは上方向にこすらないと落ちてしまうものだということをラージは教えてくれる。逆に言えば硬式卓球でボールが「落ちない」ということを意識するためにはラージをしてみるのが一番の近道だということだ。ラージでドライブを安定させようとすることを通じて、どのような打ち方が落ちにくいかが分かる。
さらにラージはボールの減速が激しいので、打球する前に考える余裕が生まれる。どのような打ち方がボールの「摂理」に適うのか、よく考えながら打てる。それらは程度の違いはあれ、硬式のボールにも応用できる感覚だ。ラージをすることは「勘が狂う」のではない、ボールに対する勘を対象化し、より深く鋭いものにしてくれるのだ。

ラージボールは硬式卓球に対する理解を妨げるのではなく、逆に理解を深めるものだと信じている。逆もまたしかりである。

youtubeにいろいろな卓球練習法、あるいは指導法のビデオがあった。どれも1~2分ほどのサワリ(サビという意味で)でしかないが、とても教えられることが多かったので、以下に紹介したい。


勝利をつかむためのまるた式卓球論 
グリップの握りの強さについての理論。グリップを強く握っているとき、それを振るためにはさらに力を入れなければならない。だから、軽く握れば、軽い力で振れるのだという。これは効きそうだ。さっそく今度試してみよう。


感覚で身につける卓球 -アイデアで練習は変わる
上と同じ指導者の指導法。横回転のサービスに対して角度を付けず、そのままラケットを当ててミスする練習?
なるほど、確かに横回転のボールに対して無防備にラケットをぶつけたことはないかもしれない。しかし、これで本当に回転に対する感覚が身につくのか?


協和発酵キリン・佐藤真二監督の卓球の考え方と戦術
フリックの時の時の打球点は頂点ではなく、ネットの高さがいいという。なるほど。


卓球トレーニング・練習法DVD 卓球ビギナーズ
スイングを小さくするための練習法。こういうのをまだスイングが固まっていない初心者にやらせたら、効果がありそうだ。



武蔵野卓球の考え方

なんと、バランスボール?の上でフォア打ちをするのだという。これによって下半身が安定するのだという。ちょっと試してみたい気がする。


中1から始めて全国大会へ

この練習はぐっちぃ氏が紹介していた。しかし、こちらのビデオのほうが説明が詳しく、かかとの挙げ具合などにも言及している。




基本と応用を正しく学ぶ!-上達への最短距離

佐藤真二監督のシステム練習の指導例。
            F(1)
      F(2)    F(3)
  B(4)
の順に打つ。
一般的なファルケンベリ・フットワークというのが
  B(1)
  F(2)        F(3)
  B(4)
というのと比べると回り込みを省いて、より実戦的になっている。ファルケンベリは回り込み(2)からフォア(3)までのかなりの距離を移動しなければならず、中高年には厳しい。それに対して佐藤監督のシステム練習はあまり無理な移動はなく、ちょっと取り組んでみようという気にさせられる。


ピンテック卓球教室 勝利へ導く卓球トータル練習法
『卓球王国』でサービスの連載も担当していた村瀬勇吉氏の指導理論。ドライブを打つなら、その前後のツッツキや、ブロックにも備えなければならないという考え方。これは以前から私が感じていたことではないか(前記事「要素構成主義を超えて」)。さすが有名な指導者は違う。



 新進気鋭 公立中学校のチャレンジ
基本練習も、試合と同様サービスをバッチリ切って、それを払ってからラリーを続けていく。なるほど。私もこれからフォア打ちのとき、切れたサービスから入ろうと思う。

【まとめ】
プロの指導者による練習法や指導法というのは、私のような思いつきではなく、数多くの「臨床実験」を経てきたはずなので、試す価値がありそうだ。もちろん、指導というのは人によって合う・合わないがあるので、これらの練習法を盲信するのは禁物だが。

若いころはフォアドライブには自信があった。低く速いドライブでの一発は上級者にも褒められたものだ。
しかしその反面、戻りが遅く、連続してドライブが打てないというのが悩みの種だった。私は軽く打つのが苦手だ。

相手にバックでブロックしてもらい、こちらがフォアドライブをクロスに連続して打つ練習をする時、だんだんスピードを上げて打とうと思うとミスしてしまう。私は中途半端なスピードのスイングでは安定しないのだ。だから初めから全力運転である。そしてかなりのスピードでドライブを打つから、ブロックもとんでもないスピードのボールが返ってくる。ドライブが2回ぐらいしか連続して打てない。弱く打とうとするとミスするか、ヘロヘロ球になってしまう。その結果、ラリーが続かず、お互いにあまり練習にならない。その割に疲れる。

鬼気迫る表情でボールに渾身の力を込めてドライブするなんてスマートじゃない。70~80%ぐらいの力で涼しい顔をして安定的にドライブが打てないものだろうか。急発進、全力走行はオジサンには似合わない。

省エネ卓球という言葉がある。楽をしてあまり動かず、反対に相手を振り回すような卓球のことだろう。いつも全力で打球するのではなく、こういう卓球ができたらいいと思う。

そのためにはまず、どこで体力を無駄につかっているか、どこを「節約」すればいいか考察しなければならない。

2大浪費技術
卓球の練習の中で最も疲れる練習はフットワーク練習だろう。
多球練習などで、左右に動きながら打球するのは本当に疲れる。わずか1分 でもヘトヘトになる。

そして次にしんどいのはカット打ち、あるいはドライブ連打ということになる。これらが体力を消耗するのは腕をかなり伸ばして大きく速いスイングをする必要があるためだと思われる。

他にそれほど体力を使う動きはないので、この二つの動きをいかに「節約」するかで中高年が若者に体力で対抗できるかどうかが決まってくる。

まず、フットワークを全く使わないというのは現実的ではない。やはりある程度使わざるを得ない。
次に、スイングをせず、ブロックだけで打球するというのも現実的ではない。そこでフットワークとスイングを最小限にする工夫が求められる。ではどうやればいいのだろうか。私は以下の森田翔輝選手のプレーに手がかりを求めたい。





森田翔輝選手のプレーの特徴
森田選手の特徴は日ペン表ソフト前陣速攻型でバックハンドもガンガン振ってくる。打球点が早い。
前陣+バックを積極的に振ることで、フットワークのかなりの部分が節約できる。
そして、打球点が早いために軽い力で速い球が打てる。
さらに注目したいのはスイングの小ささと、ブレの無さだ。
肩を怒らせ、首をすくめるような構えから脇を締めてヒジをほとんど直角にし、腕を伸ばさず体全体で打球している。
シェークと比べて、ペンは身体に近いボール―いわゆるミドルに強い。シェークはミドルにボールが来たらフォアが非常に振りにくいが、ペンなら脇を締めればなんとか振れる(気がする)。日ペンのラケットの軽さと、ペンの小回りの利きを最大限に利用している。

私の卓球への応用
腕を伸ばすと、スイングが大きくなる反面、威力のある強いボールが打てる。
一方、腕を縮こませると、スイングに力が入らないものの、スイングが小さく、速くなる。

そこで考えた。
私レベルの卓球で、腕を伸ばして全力で振らなければならないほどの威力のあるボールは必要だろうか。
私が約100センチの長さの弧を描いてスイングしなければならない場面がどれだけあるのだろうか。
しかも長いスイングで放たれた威力のあるドライブはオーバーミスをしやすい。

私レベルの卓球なら、せいぜい30~40センチの弧で十分なスピードが出る。
打球点を早くすればそれほど力が要らない。
身体に近い小さいスイングなら、空振りしにくく、オーバーミスも減り、戻りも早くなる。
腕を伸ばしての回転運動は軸がブレやすく、ボールの安定性も落ちる。

決めた!私は脇を締めて、肘を曲げ、できるだけ小さいスイングで安定した卓球を目指そうと思う。
ただ、私は裏ソフトなので、森田選手のようにペシペシスマッシュを打つスタイルではなく、チョリチョリと小さくドライブを連打するタイプがいいだろう。腕を伸ばさないとすると、フットワークをより俊敏にしなければならないのがネックだが、しばらくこれを試してみて、 いずれ報告したい。
…なんだか首尾が一貫しない気持ちの悪い文章になってしまった。
 

卓球ができないとき、自宅でよく素振りをする。その際、鏡を見ながらするかどうかでずいぶん効果が違ってくることに気づいた。鏡を見ながら素振りをすると、自分のイメージしているフォームと実際のフォームにギャップがあるのを発見するのだ。

「けっこうブレードを寝かせて打っているつもりだったけど、意外に立ってるなぁ」
「あんなに面が寝ていたら、空振りしやすいぞ」


有名選手のフォームをイメージしながら振ってみるのだが、ずいぶん身体の動きが違っていたりして、それを修正しながらまた振ってみる。

素振りというと、フォアロングやフォアドライブ、バックのハーフボレーぐらいが一般的だと思うが、それだけでなく、ツッツキやフリックの素振りをすると、面の角度などがイメージと違っていることに気づかされる。

「なるほど、それでよくボールをネットに掛けるのか」

などと実際の姿を見て納得する。

サービスの素振りは更に効果がありそうだ。同じフォームでフォアとバックに打ち分けてみたり、ロングサービスとショートサービスを打ち分けてみたり。鏡を見ながら何度もフォームを修正することで、よりわかりにくいサービスが出せるようになるはずだ。
上手な人がスマッシュを打つときはギリギリまでフォアとバックのどちらに来るか分からない。スマッシュやフリックのフォームも同じフォームで左右に打ち分けられるように工夫すれば、試合での効果が期待される。

単発のショットだけでなく、鏡の前でラリーをしてみるのもいいかもしれない。サービスから3球目攻撃をしてみたら、

「あっ!いつもこんなに大振りしてるのか」
「上半身が浮き上がっている!」

といったことに気づくかもしれない。

また、フットワークにも応用できるかもしれない。フットワークまで確認するためにはかなり大きな鏡が必要だろうが、これができれば、左右に動いたとき、どこで身体がブレるのかが分かるだろう。

【まとめ】
鏡を見ながらの素振りというのは、子供の頃にたまにやったことがあった(剣道用かわからないが、卓球場に大きな鏡が備え付けられていた)が、ある程度打てるようになってからは、鏡の前で素振りをすることは皆無になってしまった。しかし、鏡を見ながらの素振りで入念にフォームを何度も修正していけば、美しいフォームが作れるだけでなく、意外な問題点を発見したり、より効率的にボールが打てるようにもなるはずだ。とりわけ効果が大きいのは、ラリーの最中に「ここで、いつものあの角度でスイングしたら、絶対ボールをオーバーさせる」のように自分のラリー中の姿勢を正確に意識できるようになることだろう(参照:「オーバーミスの原因を探る」)。

鏡を使っての素振りは卓球ができないとき、自宅で手軽に試せる効果的な練習方法だと思われる。

【追記】130910
レベルの高いチームなら、選手たちがよく指導者に怒鳴られるのを見かける。
「そこでスイングするとき、ジャンプしてる!何回言ったら分かるんだ!」
しかし、そんなことなかなか自分で分かるものではない。プレーをビデオ撮影して、そのビデオを観ないと、自分の実際の動きというのは分からないものである。
かなり上手な人でもビデオなどで撮影する習慣がない人なら、セルフイメージと実際のギャップがあるのではないだろうか。繰り返し自分のプレーを撮影したり、鏡をみて素振りしなければ自分がどんな欠点を持っているかいつまでたっても気づけないと思う。

私の練習時間は結構長いが、初級者の相手などで自分の練習があまりできない。週のうち実質的に練習できるのは2時間程度である。しかし、練習量に比例して上達するというわけではないだろう。

中学時代の部活での練習はほとんど惰性だった。小学時代は週1のスポ少での練習しかなかったのだが、メキメキと上達した。小学時代の劇的な進歩に比べると、中学時代の進歩は微々たるものだった。何が違うかといえば、課題がなかったのだ。課題がなかったというのは別の言い方をすれば目指すべきものがなかったということである。指導者もおらず、何をすれば上達するかもわからない。試したい技術もない。小学時代はドライブやレシーブといった習得すべき基本的な技術が明らかだった。それで迷わず目指すべき方向が決まっていた。中学時代はひと通り基本技術が身についていたので、次にどうすれば上達するかわからなかった。
中学時代の私の進歩を妨げていたものは、進むべき方向性が見い出せないことだったのだ。

一方、最近は少ない練習時間にもかかわらず充実している。自らがどのようなスタイルを目指すべきかはっきりしており、そのために個々のどんな技術を習得すべきかが分かっているからだ。

バックハンドからの攻撃を自分のスタイルにしたい

と思ったら、そのために何が必要かを考えてみる。

・相手から攻撃されないような短い切れたサービスと、意表をつく速いロングサービス
・相手の短いツッツキに対するフリックやチキータ、そしてその後の決め球
・相手の甘い球を引き出す横回転ツッツキやストップ、速く鋭いツッツキ

このように方向性と課題がはっきりしていれば、惰性で練習時間をつぶすということもなくなる。

しかし、方向性と課題だけではない。練習時間を有意義につかうには他にも大切な要素があると思う。

学習者中心型の授業展開

このページでは小学校の書写の授業の実践例が紹介されていた。
従来型の授業では手本を見ながら、正確にそれをマネするというやり方だった。
できたものを先生に持って行って、良くない部分に朱を入れてもらい、また書きなおすという繰り返し。

こういうやり方が間違っているとまでは思わないが、私の小学生時代の経験からいうと、このやり方では多くの子供はすぐ飽きてしまう。何度書いてもきれいに書けず、最後の方はテキトーにただ書いて、授業が終わるのを待っているだけ。

それに対して最近よく耳にするのが「学習者中心」というキーワードである。私は教育学のことはぜんぜん分からないので、誤解も多くあるかと思うが、このアイディアには共感するところが多い。

学習者中心の学習では「気づき」というアイディアが重視されている。
上の書写の授業例では、手本を見ずに、まず自分で書いてみるのがいいとある。
次に友達と見せ合って、どうして自分の字はきれいじゃないかに「気づく」。あるいは手本と比較して「気づく」。

「書」という漢字の突き出した長さはどうか、下の「日」は横長がいいのか、縦長がいいのか。ストロークのカーブが緩やかなのと、直線的なのとどちらが美しいか。

人に与えられた「発見」と自分で手に入れた発見とでは重さが違う。「発見」は次の日には忘れてしまうかもしれないが、勝義の発見はそうそう忘れるものではない。そしてその発見が正しいかどうか確かめたくなる。私の経験上、自分の発見の確かさを確かめたいという欲望は人を夢中にさせる。とんでもない集中力を生み出す。一流選手のプレーを見るのは後でいい。まず自分のプレーのどこに問題があるのかを自分で分析しなければならない。そのような自己分析はたしかに不十分だろう。指導者に指摘してもらったほうが的確な分析ができるにちがいない。しかし初めから指導者に答えを教えてもらわず、自分で考えてみる。すると、間違っているかもしれないが、いくつかの問題点が見つかる。

ボールをネットに引っ掛けることが多いのは、打球点が早すぎるからではないか?
ボールが頂点を過ぎるまで待ってみたらどうか?


そしてそれを実際に試してみると、うまくいかない。それで別の原因を考えてみる。上手い人のプレーを見てみる。

私はボールの後ろの方を叩きすぎているのではないか?上手な人はもっと軽い力で掬いあげているようにみえる。

これも間違っているかもしれない。しかしいくつか修正を試みれば、きっと正解にたどり着く。そのプロセスが私の最近の練習の充実を支えていると言える(前記事「スイングはどこまで」)。
いつも何か試してみたいことを持っていると、練習時間を非常に有意義に過ごせる。時間が経つのが早い。
指導者に指導してもらうのは万策が尽きた後でも遅くない。まず、自分で考え、試してみることだ。
ただ、初心者の場合は自分で考えようにも考える材料がない。ある程度ボールや回転の特質を理解するまではマネに終始するのが上達の近道だろう。

方向性と課題、そして模索と発見。これさえあれば練習時間を有意義に過ごせると思う。

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