しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




2012年07月

朝の5時までオリンピックを見てしまった。
福原愛選手と石川佳純選手の4回戦があったからだ。
福原選手の相手はオランダのリー・ジエ。福原選手の苦手とするカットマンだった。
初めの1セットはビックリするぐらい楽にとれた。しかし案の定2セット目からは心臓に悪いセットの連続だった。
福原選手の強打はことごとくネットにかかるか、台をオーバーしたからだ。相手にリードされて福原選手は思い切った強打が打てなくなり、ツッツキとループドライブで凌ぐ展開が続く。1-3の崖っぷちに立たされて、5セット目を辛うじてとると、次第に本来のペースに戻り、フルセットの末、ギリギリで格下の選手を下し、準々決勝に進んだ。
近藤欽司

この中継は近藤欽司氏の解説によるものだった。近藤氏はよっぱらった田舎のおじいちゃんを彷彿させるような語り口で、初めはうさんくさく感じたのだが、なかなかどうしてすばらしい解説で、次第に惹きこまれていった。1セット目に福原選手がミドルに強打を決めると

「こんなふうにミドルを狙っていかなきゃだめですね」

みたいなこと言っていた。また

「カットマンは後ろに下げてしまうと、強打を打っても効かないんですよ。やっぱりゆっくりしたボールで前に寄せておいてから強打ですよ。」

のようにカットマン攻略を語り、

「今日の福原はフォアハンドが安定しているが、バックのストレートは全部台から出ている」

と福原選手の問題点を指摘した。

2セット目以降はこの指摘通りの展開になっていくのだ。
福原選手が2セットめからミドルを狙わず、クロスのきびしいコースを打っていくと、それがほとんど返されてしまう。深いボールばかりで相手を下げさせてしまうと、ちっとも打ち抜けない。それで弱気になってツッツキとループドライブでしのいでいると、近藤氏は「これから相手は甘いボールを攻撃してきますよ。ブロックをしっかりしないとダメですね」と予言し、果たしてそのとおりになった。

・シェークハンドの選手にはミドルを狙う
・カットマンは寄せておいて、強打

のようなことは基本的な攻略であり、近藤氏でなくとも指摘する点ではあるが、それでも福原選手は2セット目以降、その基本的な攻略がおろそかになっていた。おそらくトップ選手と言えども、その渦中にあるときは自分が何をやっているのか、何をやればいいのか、自分を見失うことが往々にしてあるということなのだろう。私のようなへたっぴは意図も戦略もなく、打てそうなボールが来れば、がむしゃらに打つだけであるが、上級者はそうではないのだ。

近藤氏の指摘は非常に的確だった。

崖っぷちに立った5セット目以降、福原選手は近藤氏が指摘したとおりに

・ミドルに攻撃を集中する
・相手を下げてからの強打は控える
・相手の攻撃が増えるので、攻撃される前に攻撃する
・バックハンドの精度を上げる(これは不十分だったが)

という戦略で優位に立った。
この試合を見て思ったことは、試合は表現であり、対話だということだった。

出来の悪い文章というのは、夾雑物がたくさんある。本筋と関係のない話を突然始めてみたり、語っているテーマと結論が一致しなかったりして、振り返ってみると何を言いたかったのかはっきりしない。また布石がなかったり、論理の飛躍があったり、根拠が薄弱だったりして、牽強付会で説得力のない「論」ができあがる。
一方、良い文章というのは筆者の言いたいことが分かる、というより、筆者がどこに重点を置いて語ろうとしているかはっきり分かる文章だと思う。そのような文章は筆者の顔が見え、筆者が主張に説得力を持たせるためにどんな工夫をしているかまで分かる。段落ごとに、もっと言えば1文ごとにどんな意図や役割があるかはっきりアレンジされており、それまでの幾つかの部分が最終的に一つの大きな主張を構成しているのだ。

いい試合というのはおそらくいい文章と同じなのだろう。自分が何をやろうとしているか(主張)が自分でよく分かっている。自分がやりたい形に持っていくために、確実に布石を打っている(根拠がある)。対策を講じられた時(反論された時)のための別の対策も考えておく。

福原選手の試合で言うと、

・ミドルへの強打(主張)
・下がられると強打が効かないので、まずツッツキやループドライブで寄せておく(根拠)
・相手が攻撃に転じてくる(反論)ので、攻撃をされる前に攻撃を仕掛ける、あるいは攻撃された時はそれに対する心の準備とブロックを確実にする

近藤氏の解説を聞きながら、試合を観戦すると、福原選手や相手の考えていることがなんとなく分かるのだ。福原選手はリー選手と対話しているように見えた。

「このように打ったら、あなたはきっと、こう返すでしょ?だから私はこう打つ!」
「あなたはここが私の弱点だと思って、私のミスを誘うでしょうけど、私はこの対策で応じる!」

福原選手の試合は上記の観点からみると、非常に分かりやすい試合だった。しかしすべての試合がこのような分かりやすい試合ではないと思う。弱点とその対処法が分かりにくい試合というのもたくさんある。だからすべての試合をこのような論点のはっきりした形で観戦することはできないだろう。福原選手の試合は非常に論点がはっきりしていたので、見ていていとてもおもしろかった。

試合は福原選手の勝利で終わり、最後に近藤氏の口から出てきた言葉は

「この試合はまさに格闘技ですね!」

え?今まで非常に怜悧で的確な分析でいちいち納得させられた私には、ビックリするような意味不明な言葉だった。

「卓球はやっぱり最後は意地と意地のぶつかり合いなんですよ。」

格闘技の試合は技術ではなく、意地と意地のぶつかり合いなのだろうか。それは偏見じゃないですか?格闘技だからといって、いつも血みどろになって「最後は気力で勝つ」というのは違うと思うのだが…。

近藤氏は人を惑わせる。一見すると、

「酒を飲みながらプロ野球の采配に文句を言っている田舎の親父」

だが、実は

「的確に試合の展開を見通せる卓球の達人」

で、ときには

「思い込みが激しく、ときどき変なことを口走る人」

というおちゃめな一面も持つ。

なんとも不思議な人である。

ついでに石川選手の解説だった星野一朗氏にも触れてみるが、非常にそつのない解説で、優等生的である。声質も穏やかで心地よいし、試合の分析・解説も的確だった。しかし近藤氏の解説の印象が強烈すぎて、星野氏の解説はすっかり光を奪われてしまった感がある。





先日、Hくんと卓球をする機会があった。
Hくんは強打者で、台から出るボールは全て強打を打ってくる人だ。
台から出ないストップなどは別だが、それ以外のボールはフォアでもバックでも全て打ってくる。
ただ、その成功率は20~30%ほどなので、ほとんど彼自身のミスでポイント(サービスから得点までの一連の流れ)が終わってしまう。
こういう人は練習相手に嫌われるだろう。ラリーが続かないので相手は練習にならないのだ。Hくんがサービスすれば、ほとんどの場合3球目でポイントが終わってしまう(得点できようとできまいと)し、Hくんがレシーブなら4球目で終わってしまうからだ。彼は積極性の塊のような人なので、こちらがストップで返しても、あるいは短いサービスを出してもガンガンフリックをしてくるので、下手をすると2球目でポイントが終わってしまう(もちろん8割方Hくんのミスなのだが)のだ。
Hくんは「今日は入らない」「調子が悪い」「おかしいなぁ」を連発していたが、傍目八目というのだろうか、自分のことでは気づかないのだが、人のミスの原因というのは割と見えるものだ。

Hくんは下回転でも順回転でも、はたまたキツいドライブがかかっているボールでも同じように全力でドライブしてくる。懐深いキツイコースでも、ちょっと身体から離れたボールでも同じように打ってくる。つまり1球1球のボールの性質を無視して同じフォーム、同じ打点で打っているのだ。彼の固定化した打ち方に合うボールならすごいボールが入るのだが、そうそう誂えたようなボールは来ない。そこでちょっとスピードが速かったり、遅かったりするボールにはミスを連発する。

そうか。いつも同じ相手と練習しているんだろうな。それでそのいつもの練習相手のスピード・スピン・コースに打ち方がピッタリ合っているから、ちょっと違う球が来ても、相手に合わせて打ち方を変えることができないというわけだ。Hくんは自分の打ち方が間違っているとは思わず、何か訳の分からない「調子」というものが原因だと判断したのだ。

これはなんだか仏教の考え方を思い出させる。我々は対立が起こると、まず「相手が悪い・変だ」と考える。そして相手が変わることを望む。そして相手が間違っているとは考えられない場合は「運が悪い」と考え、その運が変わることをじっと待つ。心理学者ワイナーの「原因帰属マトリクス」でも同じような考え方が提出されているが、人は自分が間違っているという考えにはなかなか至らないものだ。どうしてまず自分が変わろうと思わないのか。仏教では「自分が変われば相手も変わる、だからまず自分から変わらなければならない」と考える。自分が変われば相手も変わる。相手の変化がまた自分にも変化をもたらす。このようなフィードバックが機能していれば人はずっと成長し続けることができるが、「相手が間違っている」「運が悪い」という考え方から抜け出せないと、このフィードバックは始まらず、永遠に同じ所をめぐりつづけるしかない。

Hくんの観察を通して、えらそうに批評してしまったが、これは他山の石である。私も調子が悪い、ミスが多いという場合、おそらく相手のボールに合わせていない場合が多いのだろう。まず自分の打ち方から変えなければならない。

【追記】
自分で自覚しているのだが、私の悪いところの一つは、次に「強打が来る」と分かっていても、下がれないことである。前後の動きというのがとっさにできないのだ。前後の動きができるようになれば、もっとラリーが続くようになると思うのだが。

卓球書をいろいろ読んでみるのだが、壁打ちについて詳しく書かれた本を読んだことがない。

小中学校の時、卓球台よりも人のほうがはるかに多かったので、台を使わせてもらえず、壁打ちしかできない、ということがあったが、大人になってから、壁打ちをしようなんて考えたこともなかった。

台が空けば、台で卓球をするし、
台が空いていても、相手がいなければ、サービス練習をするし、
台が空いていなければ、人のプレーをみる。

それが今ではあたり前のことだが、先日久しぶりに壁打ちをしてみた。
私がよく利用する体育館には、今まででもっとも壁打ちに適した壁があるのだ。
こんな貴重な環境につい先日まで気づかなかった。

そういえば、私が卓球を始めたばかりの頃、指導者のおじさんが「私の友達は壁打ちばっかり2~3年していた。その後、1年ぐらい台で練習をしたら、たちまち県大会で優勝したんだ。壁打ちは練習になるぞ!」というようなことを言っていた。そんなことはすっかり忘れて壁打ちなんて顧みることもなかったが、先日壁打ちをやってみてなかなか役に立つと思った。

台で基本練習をするときは、相手の練習のことも考えなければならないので、自分の苦手な練習ばかりするわけにはいかないが、壁打ちは自分の好きな打ち方でひたすら打てる。ミスもなく、同じ所に返してくれる。
それによってラケットの中心に当てる練習ができる。上手な人によると、私はちょっと先端寄りで打っているらしい。その矯正ができる。それから「薄く当てる」「厚く当てる」という打ち分けの練習もできる。こういう微妙な感覚を身につけるのに壁打ちは最適である。
振り方も、腰だけを使って打ったり、腰と肘を連動させて威力のある球を打ったりと、いろいろ練習できる。この練習で自分がいかに腰を使っていないか意識させられた。ついでにドライブを打ったあとの戻りの遅さにも気付かされた。
また、左右に切り返しの練習をしたければ、ちょっと斜めに打てばいい。フォア・バックで切り返しではなく、オールフォアで打てばフットワークの練習もできる。フットワークの練習は動きすぎず、ちょうど打ちやすいところに身体を移動させるよう気をつけた。近いボールというのは難しい。手を目一杯伸ばせば届く距離だと、つい横着して姿勢を崩して手を伸ばしてボールを打ってしまう。また、動いた場合は動きすぎて、ちょっと窮屈な打ち方になってしまったりする。この辺を瞬時にうまく調整して動けるようになれば、プレーに余裕ができるのだろう。

壁打ちはまだまだ研究の余地があると思う。もっといろいろな練習法を試してみたいと思う。

先日、上手な人にアドバイスを受けた。
力が入りすぎているから、抜いた方がいいと。
そのもっとも分かりやすい部分はグリップだというので、私もグリップを浅く、ダランと握ることにした。
もちろんインパクトのときはギュッと握るのだが、できるだけ力を抜いて握るようにしてみた。

すると、不思議なことに、時間的に余裕ができたような気がする。
固く握っていたときは、ボールが「来た!」と思った時にはもう出遅れているということが多かったのだが、力を抜くと、そういうことが減ったような気がする。
どういうことかというと、打つ気満々で構えなくなったということだ。今まではかなり打ちに行くボールの範囲が広かった、言い方を変えると、ちょっと難しいボールも打ちに行っていたのだが、力を抜くと、本当に打てるボール以外は打たないように気分が変わったというわけだ。そうすると時間的な余裕が出てくる。

目線を下げるとか、立ち位置を変えるとか、こういった些細なことが大きくプレーに影響する卓球って奥が深い。

卓球の上級者は試合中にどのようなことを考えているのだろうか。どうしてもそれが知りたい。

先日『まんがで読破 昆虫記』という本を読んだ。ファーブルの『昆虫記』を分かりやすく抜粋し、ファーブルの生涯とからめて紹介したおもしろい本である。ちょっと誤字が多いのが気になるが。

ファーブルはヌリハナバチというハチを観察し、さまざまな実験をして試みたという。
ヌリハナバチというのは、唾液で地面から縦に筒型の巣を作り、それにハチミツを入れてから卵を産み、穴を閉じるという習性を持っている。

つまり、「巣作り」→「ハチミツ詰め」→「卵生みつけ」→「穴ふさぎ」

の順に作業を行うわけである。

ファーブルはこのハチに次のような実験を行った。

・製作途中の巣を完成した別の巣と取り替えてみると
→巣を作る手間が省けるわけだが、ハチはそこにハチミツを入れず、完成した巣にさらに壁を築き、通常の倍の高さの巣を作ってからハチミツを入れ、卵を生んだのだという。

・完成した巣を製作途中の巣と取り替えてみると
→未完成の部分にもう一度手を入れて完成させるかと思いきや、未完成の巣には目もくれず、ずっと自分の完成させたはずの巣を探し続け、製作途中の巣にはちみつを入れることはなかったのだという。

・卵を産み付けてあり、穴が塞がれている巣と取り替えてみると、
→巣に穴を開け、すでにハチミツで満たされている巣にさらにハチミツを入れ、自分の卵を生んだのだという。

ここからファーブルは「虫は本能的に決まった行動パターンを持っており、たとえ途中に障害があっても、そのパターンにしたがって、本能の命じる通りの順番に行動せずにはいられない」ということに気づいた。

虫というのは愚かで融通の利かない生き物だなぁと思うのは簡単だが、このように融通が利かないのは悪いことなのだろうか?イレギュラーなことが起こらなければ、このような行動パターンは最も効率良く物事をすすめることができる。

卓球のレシーブの場所を以下のように6つのエリアに分けることは一般的である。

  A  B  C

  a  b  c

_______ ネット

  x  y  z

  X  Y  Z

私たちは漫然といろいろなところにボールを打ち、いろいろな返球を受けている。相手の長い順横回転サービスをBやCにレシーブし、それがXやYに返球される。こちらがAにレシーブしたりすることもあるが、判断する時間的な余裕がないときは、BやCになりやすいだろう。逆にこちらがBやCに返球したら、相手はZに返球する場合もあるが、やはり時間的な余裕がなければXやYに返球しやすいだろう。

もしこちらがaにサービスを出したら、相手はどこに返球しやすいのだろうか?私はxやyだと思う。しかしaにサービスを出すということはスピードの遅いショートサービスということなので、相手は十分考える余裕があり、zやZに返球するかもしれない。

こういうことを私はよく考えながら試合をするのだが、とても複雑なので、だんだん考えるのがおっくうになってくる。たとえば一つのエリアに限ってみても

Cに横回転を出した場合
Cに横下回転を出した場合
Cにバックサービス(横)を出した場合
Cにバックサービス(横下)を出した場合
Cにナックルを出した場合

にどの辺に返球されやすいのだろうか?その返球を次にどのコースに打ったら効果的なのか。こんなことを考えながら試合をするのだが、頭がついていかずに途中からあまり考えずに試合を進めてしまう。だめなのだ、こういうことを考えようとしては。
将棋の上級者は相手の1手目や2手目で深く考えることはないだろう。初めの数手を見たら、「ああ、たぶんこういう形を作ろうとしているんだな」と先が読める。そこには思考はほとんどないだろう。お互いにある程度定石通りに展開して初めて頭を使うに違いない。

同様に卓球の上級者も2球目や3球目で相手がどこに打ってくるかなど考えずとも身体が自動的に動くのではないかと思う。それはたとえば今までの練習でbにサービスを出したときの返球を漫然とではなく、「相手が手を伸ばしてきた。あのラケットの面から考えると…」「あの上体の姿勢なら、きっと…」のようにあらゆる角度から分析した思考の蓄積があり、その分析がすでに行き着くところまで行き着いて、クセとして身についてしまったに違いない。だから考えずにムダのない動きができるのだろう。

上級者のように打てるようになるにはどうすればいいのだろうか?やはり地道にaから虱潰しに分析をしていくしかないだろう。aにレシーブしたら、相手はどこに返すのか?そのとき相手はどんなふうに手を動かすのか。ラケットの面はどこを向いているのか。何度もaにレシーブを出し、そんなことを徹底的に分析して、ある程度aのレシーブに対する相手の反応がつかめたら、次はbにレシーブして同じように分析してみる。そしてCまで分析が終わり、もっとも効率のいい動きができるようになった時、上級者になれるのではないだろうか。

虫は本能の命じるままに自動的に行動している。そこに迷いもムダもなく、行動が最適化されている。私もいつか「卓球の虫」になれるよう精進したい。

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