しろのたつみ



卓球について考えたこと、
気づいたこと(レベル低いです)
を中心に中級者の視点から綴っていきます。




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世の無常

いろいろなオンライン・ミーティング・アプリが話題にのぼる中、日本発のアプリが出てこないのはなんだか寂しい感じがする。かつてなら、こういう国際的な需要が生まれたら、日本発の製品が必ず出てきたものだ。
30年ほど前に私が初めてヨーロッパを旅行した時のことを思い出すと、当時日本経済はイケイケで、あらゆる分野で世界をリードしていたように思う。日本中に金が余っていて、「東京都の地価を合計すると、アメリカ全土が買える」などと言われた。アメリカは日本製品の流入を警戒しており、各地で日本製品を破壊するデモンストレーションが行われたりした。

bonus
若い人はなぜゲーム中でトヨタの車を壊すのか知っているのだろうか?

ソニーとパナソニックがアメリカの大手映画会社を買収すると「アメリカの魂を金で買った!」などと叩かれた。日本人が世界各国に飛び出すようになり、私がヨーロッパに行った時も、日本人観光客があちこちにいて、ブランド物のカバンやらスカーフやらを「爆買い」していた(日本で買うより安かった)。現在と違い、ヨーロッパ人で日本製品以外の日本に興味を持つ人は稀で、ヨーロッパ人は日本人観光客を冷ややかな目で見ていたように思う。かつての先進国の人たちが新興成金国の私たちを見る目は厳しかった。また、私たちが憧れのヨーロッパを見る目も複雑だった。私が初めてヨーロッパに行ったときの感想は「文化的には学ぶべき点が多いけれど、テクノロジーの点では時代遅れのものが目立つな」というものであった。今の中国人がやっていることを30年前の日本人もやっていたわけである。

そういう時代もあったな。今の貧しい日本を見ると、隔世の感がある。

しかし「かつての栄光をもう一度」というのは無理な話である。こういう時代がもう一度めぐってくるにはあと100年は待たないといけないだろう。
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世の中は無常である。いつまでも同じままではいられない。何かが過ぎ去って、何かが加わり、何かが残る。最近の日本の卓球界で言えば、青森山田の卓球部の強化が終わり、卓球レポートが紙媒体の出版をやめた。ヴィクタスというブランドができ、オリンピックの活躍によって卓球が知名度を得、その後、張本選手や伊藤選手が世界をあっと言わせた。そのような流れの中で今まさに過ぎ去りつつあるものといえば、Tリーグだろうか。開幕してわずか2年だが、ここへきて、どうにも立ち行かなくなっているらしい。

Tleague

文芸春秋の記事によると、
「当初はまともな財務諸表も作成せず、リーグの予算規模では到底賄えない競技運営を行っていた。1億円以上を費やした両国国技館でのリーグ開幕戦だけでなく、1試合の運営費も800万円近かった。結果、初年度から5億円以上の赤字に陥っていたのです。やがてプロモーションやチケット販売も各チームに丸投げ状態になっていった」

ということである。この記事がどれほど事実を反映しているか分からないが、苦しい状況なのはまちがいない。観客数は減る一方で平均すれば4桁に満たないかもしれない。観客1人あたり1万円の入場料をとれば、なんとかペイするというところだろうが、学費が払えないとか、生活できない世帯が増えつつある中、入場料を値上げするというのも難しい。私もTリーグを一度観に行きたいとは思っているが、京都には来ないので、わざわざ大阪とか東京に行かなければならない。そこまでして見に行きたいかと言われると、見に行かなくてもいいかなと思う。世界のトップ選手のプレーを目の当たりにしたいとは思うが、ただ見るだけなら全日本かジャパン・オープンを見に行けば十分で、どうしてもTリーグを見に行きたいという気持ちはない。今の御時世は、できるだけお金を使わずに卓球を楽しみたいという風潮である。ようするに高いお金を払ってトップ選手のプレーを生で見たいという需要が現在あまりないのだと思われる(その一方で1万円以上のラケットがふつうに売れる不思議)

このような状況では運営も大変だろう。ふつうにまじめに運営しているだけではお客があまり来ない。尋常でない運営でもしない限り、このままでは沈没は必至だが、石にかじりついてでも存続させたいという死に物狂いさが運営からは伝わってこない(内部では必死なのかもしれないが)。運営ではなく、むしろ選手(神巧也選手や、松平健太選手)のほうが必死な感じがする。

非常に残念なことだが、Tリーグは存続できず、いずれ解散、あるいは休眠ということになりそうだ。現在の体制のままで黒字に転換できるとはとうてい思えないからである。しかしたとえば2年に一度、現在の男女各4チーム体制で対抗戦を行うということなら、どうだろうか?非日常感、期間限定感が出てきて、電車賃を使ってでも見に行きたいと思う人も出てくるかもしれない。そのぐらいの頻度の「お祭り」的なイベントとして今後も存続してもらえたらありがたいと思う。

日本卓球界にとって大切なものが過ぎ去っていくのはさびしいが、無常は世の理なのでしかたがない。

【追記】 最近WRM のやっすん氏がアキレス腱を切ってしまったらしい。 氏の動画がしばらく見られなくなり、残念である。 一日も早い快復を祈っている。

もう一つの「理解」

最近、卓球技術動画が多すぎて、いくら見ても、あまり心に響かなくなってきた。
卓球youtuberの人たちもそれを感じているようで、「威力のあるフォアハンドの打ち方」のような単体技術の動画が減ってきたように思う。飽きられないように手を変え品を変え、毎日のように動画をアップするyoutuberも大変だなぁと思う。

「裏面バックハンドドライブ」とか「切れたツッツキ」とか、そういう技術動画を見て、自分の卓球に取り入れようとしても、あまり改善が見られない。やっぱり人の技術を自分の卓球に取り入れるためにはそれなりの継続・繰り返しが必要で、数ヶ月ひたすら取り組まないことにはなかなか身につかない。

論理的な説明というのには限界があって、ある程度までは自身の卓球の改善に貢献するが、実用レベルにまで落とし込むには感覚的な理解が必要になってくるのだろう。
「手打ちはダメ」「こうやって胸の向きを固定して、腕だけ動かしてスイングしても威力も安定性も出ない」
などと頭では理解していても、実戦でとっさに「非手打ち」ができるかというと、なかなかそうはならない。いつでも体幹によってスイングできるようになるためには相当な練習量によって身体に覚え込ませなければならないだろう。

論理的な理解と感覚的な理解というのがあって、両者が相補って技術は向上していくのだと思うが、理解の方法というのはつまるところ、この2つだけなのだろうか。

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思えば、私などは、先師寒松室老師の室内で、「隻手音声」の公案に参じて、前後七年間この公案に苦しんだあいだに、自然に久松先生の言われるようなところに突き当たりました。
秋月龍珉『無門関を読む』

秋月氏は著名な禅仏教の研究者である。そんな頭のいい人が「隻手音声」の公案を理解するのに7年間も費やしたというのである。「隻手音声」というのはウィキペディアによると、以下の公案である。

「隻手声あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がするか、それを報告しなさい。)

両手を叩いたら音がする。それは右手と左手の音が合わさったものだ。では右手と左手の音とはどんな音か…「ん?右手の音と左手の音?そんな音はない。なにをバカなこと言っているんだ。」と一笑に付すのは簡単である。しかしこれが禅の試験問題である公案ということになると、何か深い意味が隠されているにちがいない。ちょっと頭の切れる人ならいくつかの解釈をたちどころに出すことができるだろう。それが秋月氏ほどの頭脳を持った人なら古今東西の知識を博捜し、数十、数百もの答案を提出したに違いない。

私も初めのうちは、室内で禅問答のようなことを、あれこれ述べていました。そのうち何も言うことがなくなりました。それで白隠禅師の公案だということから、白隠禅師の書いたものの中に何かヒントがあるだろうと考えて、本を買って来て読みました。

ちょっと考えただけでは歯が立たない。それで腰を据えて考究しようと白隠の著作によって研究を始めたところ

「あんたも気の毒な人だ。生じっか本が読めるので、読んではカス妄想を仕入れてくる。ワシに振られる材料をせっせと仕込んできては、チリリンと振られるばかりだ」

あれもダメ、これもダメ、全て否定されてしまう。こんなことに頭を悩ましていても、何の意味もないと何度も思ったことだろう。が、

室内の老師を見ていると、何か分からぬが私の体験したことのないものを確かに経験していることがはっきり分かるので、やめるにやめられないのです。

これは論理的な頭の理解ではない、何か別種の理解の方法があるということである。そうこうするうちに

「何と言っても、何をしても、いけない」という境地に知らず識らずのうちに追い込まれました。

結局、氏はこの短い公案のために7年もの歳月をかけてようやく「見性」経験を得たということなのだが、この理解は論理的な理解では決してない。もちろん感覚的な理解でもない。ではどのような理解だったのだろうか。

(公案というものは)
「差別」の世界(「自我」を中心に、自他対立の世界)しか知らぬ我々に、差別の根底に「平等」の世界(「無我」の体験による、自他一如の世界)の存することを体認させる目的で用いられています。たとえで申しますと、「色」や「形」(差別)が存在しうるのは、「空間」(平等)というものがあるからでしょう。「空間」は「色」や「形」は有るようなあり方では無いものですが、その「無」なる空間があってはじめてその限定としての「有」としての色や形があり得るのです。

よく分からないが、例えばコンピュータの画面上に点を一つ打つためには、VRAMとそのアドレスという概念を前提として理解しておかなければならないということだろうか?卓球で考えれば、「速いドライブ」と「遅いドライブ」ということを考える前提として「時間」とは何かということを理解する必要があるということだろうか?いや、この程度の浅い、頭だけでの理解では決して辿り着けない、もっと深い理解であるに違いない。そうでもなければ氏が、その「理解」に7年も費やすはずがない。

名選手が必ずしも名コーチではないという言葉があるが、名選手が到達した境地というのは論理では説明できない部分が多々あるのかもしれない。フットワーク練習を毎日行い、「どんな身体の使い方がいいのか」「どうすれば威力のあるショットが打てるか」などというさかしらが脳内から消え失せるほどの猛練習を10年も続けて初めて理解できる境地というものがあるのかもしれない。只管打坐ならぬ只管打動である。

道元

達人の域に達した選手の卓球に対する理解というのは言葉にして人に説明できないような理解のしかたであり、それこそが最も根本的な理解の方法なのではないか。論理的な理解でもない、感覚的な理解でもない、それ以外の理解というものがあるのではないか?ゾーンというのはもしかして…などと考える今日このごろ。

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